第五十四話『食事の如く悪事をなす』
――最初は期待外れだと思った。
自分の性格が悪い自覚はあるけれど、それをもってしても、こんなものかと思わざるを得なかったのは仕方ないだろう。
唐突だが、探索者において最も尊ばれる才覚が何かご存じだろうか?
魔物を斬り殺すだけの膂力か、それとも神秘を解体する智恵か、入り組んだ迷宮を迷い無く進むための方向感覚か。それらは喜ばしい才覚だ。ひとかどの人物となれば富と栄華が約束されている。
だが、迷宮において一番ではない。
では魔導を着火する煌びやかさか、奇跡を手中に収める強かさか。はたまた、草花の薬と毒をかぎ分ける野生や、鉱物を金貨に替えるための審美眼であろうか。
それらもまだ足りない。では何が栄光と死を混ぜ合わせた迷宮で尊ばれるのか。
それは悪意を持つという事だ。
時に人を出し抜き、切り捨て、不意を突く。悪意を持って人を差配する。迷宮探索者は必ずそれを心に忍ばせるよう教え込まれる。
非情と言われようと、卑劣と蔑まれようと。持たなければ死ぬのは自分自身なのだから。
その点、彼女は全くもって悪意の才覚に欠けていると思えた。
「自分の身を持って、誰かを助けるなんてのはナンセンスが過ぎる」
無論、美徳も大事だ。しかし、美徳だけを口にする人間ほど浅ましいものはない。この世界も人間も美徳と悪徳を持っているのに、その側面だけを見て悦に浸ろうなんてのは卑しいにもほどがある。
多くもない身銭を切って背景も分からぬ者に武具を与え、食物を与え。時に人との諍いに割って入る。
「滑稽な事この上ない、と言わざるを得ない」
実力はあっても、相応しくない。期待外れだ。
そう、思っていた。同輩らも皆がそう言うだろう。
――彼女の瞳を見るまでは。死地の彼女を見るまでは。
普段おおらかに笑って見せる癖に、死地において見せたあの笑みは何であろう。人懐っこそうな様子すら見せるのに、あの濁り切った瞳は何であろう。
言うまでもない。『大陸食らい』の魔導を斬り裂いて見せたアレは、発露させた魔導の根源は。
常世を怨む悪意に違いない。
無論、平時の彼女は善良だ。生まれから考えれば驚くほど良識がある。
けれどその薄皮一枚剥いた先に、想像を絶する悪意を有している。彼女が迷宮に潜る目的は、むしろそれなのではないかとすら感じていた。
彼女は悪意を表に出してはいけないと感じている。良き人間に相応しくないというわけだ。
しかし、自らの死地であれば違う。命が危ういのであれば、その爆発的な悪意を露呈してしまっても何ら問題はない。そう言い訳が出来る。だからこそ、彼女は死地を求めているのではないのか。
そうならば、ますます相応しい。
「やはり、彼女だ。おっと……でありましたな」
――ココノツと名乗る竜人は、煌々と光る瞳を隠そうともしないまま、属領民街へと入る。
迷宮都市アルガガタルは広大だ。中心部や大通り、迷宮に連なる通りは整備され警備も厳重だが、外郭になるほど都市統括官の管理は行き届かなくなる。
肥大化を続ける都市を監視し続けられるほど、この都市の行政機能は巨大ではなかった。むしろ有用な探索者をギルド制度を用いて管理するだけでも手一杯と言うべきか。
よって寄る辺無き属領民達が手探りで家屋を組み立て、一つの通りを丸々自分達のものとしてしまったような通りが幾つもある。表通りからは離れているものだから、正市民は嫌悪をしても近づいては来ない。貧民窟のようなものだ。
金のある属領民は表通りに近い酒場やギルドハウスも使うが、何もない者はこの属領民の小路で安酒か饐えた匂いのする食べ物を口にする。
その一角に紛れるようにココノツは入り込む。槍を片手にした表情は、何時もの飄々としたものではなく獰猛さすら感じさせた。
「ただいま帰ったのでありますな」
入った先は家屋というより、もはや廃墟に近かった。とはいえこの辺りは同じような住処ばかりだが。
木々の所々は腐敗をしているし、鼻をつく匂いは何処か黴臭い。それだけで陰鬱な気分になってくる。しかし、それこそが彼女らの住処だった。
暗がりの中ががたりと動く。
「……てめぇか。何だその気味の悪ぃ話し方は」
「いやでありますなぁ。故郷の訛りでありますよ。悪くないでしょう? はっはっはっは!」
ココノツが犬歯を見せるように笑うと、影が椅子に身を預けたまま両脚をテーブルに投げ出した。片手が酒を彼の喉に注ぎ込む。
影は老人だった。頭髪は白に染まり、顔には皺が幾重にも刻まれている。彼が歩み続けてきた年月が、その皺を深くしているようだった。
「くだらねぇ。言葉なんざ、必要な時に必要なもんを使えば良いだけだ。公用語も属領語も、必要な時にだけな」
老人は一つの言葉の間に、公用語と属領語を使い分けてココノツに話した。彼女は両肩を竦めて、老人に視線を返す。
「説教は良いのでありますよ、オズワルド。それよりも『彼女』を今一度見てきました。間近で、この目で」
「へぇ。結局どの程度の器だ。使えそうか、それともそれ以上か」
老人オズワルドの表情が野心を漲らせた。老齢だというのに、雰囲気は奇妙なほどに生気が漲っている。この在り方こそが、彼をこの年齢まで生き延びさせているのだろうか。
ココノツは第六層での出来事を一つ一つ丁寧に語りながら、言う。
「――意志があり。美徳があり。悪意がある。十分かと。で、ありますな。色々と興味深い事もありましたが、彼女に限って言えば相応しいと思うのであります」
「そいつは良い」
オズワルドはくしゃりと皺を歪ませて言った。笑っているのか、思案しているのか分からぬ顔だった。
「悪い顔をするでありますなぁ」
「人聞きの悪い事を言うなよ。誰だって、時に薬のように悪事を必要とする。俺はちょっとその度合いが強いだけさ。それに、俺もお前も属領民だ。良い顔ばかりをしてちゃあ生きていけねぇ」
再び酒瓶を手に取って、殆ど味のしない匂いだけの酒を喉に注ぎ込む。机には似たような酒瓶が並び立っていた。
今度は酷く愉快そうにオズワルドが口を開いた。
「てめぇの目は信じてる。しかし、一度見てぇな。俺達に付くような人間か。根からの悪党じゃあねぇんだろう」
「そうですなぁ。ただ、そもそも『空位派』を知っているのかすら分からないでありますが」
「ほう。まぁそれぐらいはどうでも良い。だが、条件には合ってるんだろうな」
ココノツは頷いて応じる。
「勿論。それにどういった形にしろ、都市の注目は集めるでありましょうし」
ココノツは両目を上げて言った。
『彼女』は間違いなく、迷宮都市アルガガタルにおける注目の的だった。正市民からも、属領民からも。無論、その多くは嫌悪と侮蔑であるが、属領民に関しては少し違う。
属領民は表向きは金髪紅眼の彼女を軽蔑していても、何処かで期待感すら持っているはずだ。迷宮に幾度も潜り、帰還してくる彼女。ただの人間でありながらオークや魔物を殺し、正市民にすら一歩も引かない彼女。
第六層での活躍全てが表ざたになるかは分からないが、それでも全てを押しとどめる事は出来ない。必ず彼女を希望や救いと思い始める者が出て来る。
人間の心など移り気なもの。
抑圧され続ける属領民にとって、活躍を続ける同族の存在は妬ましくありながらも、焦がれてしまうものだ。
そうして彼女の美徳足りえる人格と潜ませた悪意は、磨けば必ず人を惹きつけるようになる。やはり、彼女こそが相応しいとココノツは思った。
「どうするでありますかな。一度、呼び寄せても良いでありますが」
「……いいや、そうだな。言いはしたが、ちぃと待て」
オズワルドが酒を置いて、テーブルから両脚を降ろす。腰元の剣をふらつかせながら逡巡するように数秒が経った。
無言になるのは、彼が考えている証拠だとココノツは知っていた。
人は時に薬のように悪事を必要とするとオズワルドは言ったが、彼は食事のように悪事を必要とする。しかしそれが自分達の利になる事であれば、ココノツは全く構わなかった。
今は大騎士達の世であり、属領民である自分達は奪われる側、抑圧される側でしかない。
では従順に奴隷となって耐え忍びながら生きるのか。それとも、悪事をなしてでも別の時代を欲するのか。
ココノツにしろオズワルドにしろ、後者を選んだ側だった。それが正しい、などと彼女らは決して言わない。自分達は正義とも善とも思わない。
ただ、そう生きたいと思っただけ。自由に、ただ自身の意志の赴くままに。同様の思想を持った者が集まった集団こそ、王も騎士の秩序をも不要とする『空位派』に他ならない。
オズワルドが思考から帰ってきて、ぽつりぽつりと言う。
「ここまで目立った属領民だ。統括官が何もアクションを起こさないとは思えねぇ。引き込んで手駒にするか、それとも――」
「処断するかでありますか。やや早計とも思えるのでありますが。統括官は手駒を欲しがっていたのでありますよ」
「てめぇは考えが甘い」
オズワルドはぴしゃりとココノツの言葉を遮った。
「シルケーの奴は中立ではあるが、それでも四騎士の影響は免れねぇ。あいつはこの都市の守護者だ。都市に不穏な影響を及ぼす奴は全て殺すさ。だからあいつはあの地位にあるんだ」
殆ど息継ぎなしにオズワルドが言う。考えを尽くした後の彼の癖だった。
「ココノツ。てめぇはそいつを、シヴィリィ=ノールアートを見張れ。必要なら手助けを惜しむな。俺も手を回すが、善良な奴は裏仕掛けを嫌うからな。勘ぐられねぇにように上手くやれ」
「え~。また密偵の真似事でありますかぁ」
「他の連中は向いて無さすぎる。お前が一番向いてんだよ。というか本当に気持ちわりぃなそれ」
言ってオズワルドは腰元の剣を引き抜き、並べてあった酒瓶を叩き割る。もはや酒を飲んで耽っていられる時間は終わったのだという証だった。
オズワルドは皺を歪ませながら笑っていた。彼の身体は老齢とは思えないほどに、引き締まった肉体だった。まるで前線を駆ける兵士のよう。
彼の様子を見てココノツもまた、笑みを浮かべていた。
「それほどでも。では、悪事を始めましょう」
それはそれは、悪だくみをするような笑みだった。