第五十三話『忌まれた名前』
零落の聖女カサンドラがその命脈を失ってから、一日が経った。
長い、余りに長い一日だったように傭兵リカルダには思われた。相棒であるノーラは戦役の騎士に連れられてしまい、会話は出来ていない。そも、彼らはまだ第六層から帰還していなかった。
当然だろうとリカルダは思う。幾ら神殿が空になり第六層から魔女と巨人の軍勢が失われてしまっても、『大陸食らい』が消失しても、素直に彼らが討滅されたのだという結末を想像できる人間はそういない。
五百年だ。『迷宮』が創造され、迷宮都市が形作られ、多くの探索者が潜る中。時に騎士すらも戦死を免れなかった各階層と守護者たる罪過。
その一つが丸ごと喪失したに等しい事件を、軽々と受け止めるようでは人として思慮が足りない。もう数日は、戦役の騎士は帰ってこないだろうとリカルダは当たりをつけていた。
「……リカルダ。貴様は」
別邸で、都市統括官ザナトリア=シルケーは神経質な指先をかち、かちと震わせて噛みながらリカルダをじろりと見つめた。
「誇大妄想狂か、それともこちらに喧嘩を売っているのではないのだろうな? うん?」
「シルケー閣下。リカルダ様に失礼ですよ」
「ええいうるさい! 信じられるかこんな事!」
メイドに口を挟まれながら、小さなテーブルの上にシルケーは報告用の羊皮紙を叩きつけた。リカルダが第六層を観察する上で作成した地図。それから見聞きした事の全てを、そこに書いていた。
シルケーの依頼を上回る量の報告文書であり、リカルダが寝ずに作成したものだ。無論全てが信じられるとは彼も思っていない。彼すら、ただの夢だったのではないかと思い始めてもいた。
シヴィリィとエレクの二人の軌跡は、それほどのものだ。信じがたい事だった。
別邸の一室は高級な調度品が並べられている。どれも室内の雰囲気を落ち着かせる色合いのものが揃えられていたが、むしろ彼女はそれによって感情を逆なでされているようだ。
鋭利な瞳をくいと上げて、唇を尖らせる。
「くそう。間抜けめ。第六層全てが空になったなど信じられると思うのか貴様は。引き潰されてもおかしくはない!」
シルケーは薄い笑みを浮かべるリカルダに向けて一通り感情をぶつけてから、メイドが用意した茶に唇をつけた。
眉間に皺を寄せているのは変わらなかったが、幾分か落ち着いた様子で言葉を続ける。
「……そう、普通なら言う。良いかリカルダ。こちらは貴様を信用している。貴様とこいつだけは、こちらの味方だと信じているからだ」
「あら。光栄ですわシルケー閣下」
「間抜けめ。茶化すな」
メイドもリカルダも、シルケーの言葉を否定しなかった。
事実だ。リカルダもこの顔では傭兵という肩書を背負っているが、それはシルケーがそういう役回りものが必要だったからでしかない。
当然他の顔では、他の役割を演じている。ノーラとは違いリカルダは、シルケーの子飼いだ。
だからこそリカルダもシルケーの事をよく分かっていた。肩を竦めて曖昧な表情を浮かべてから言う。
「閣下が人への信頼だけでこれだけの情報を信じられる事はないでしょう。何か、私の情報にご存じの事がありましたか」
「……間抜けめ。やっぱり貴様は嫌いだ」
毒を吐きながらも、とはいえ隠す気はなかったのかもしれない。シルケーは羊皮紙をテーブルに広げ、その一文に指を突きつけて言う。
「――この名前を、例の属領民が語ったと、そういうわけだな?」
それは、リカルダが聞いたエレクのフルネームだ。迷宮の名を冠し、魔女と巨人を率いた者が語った名。
リカルダが頷くと、シルケーは苦い顔をしながら天井を見た。神経質な彼女は、自分の許容を超える事態が起こると時折こうして頭を空にする。考える事を拒絶しているらしい。
けれどすぐに身体を引き戻して、目を開く。
「そうか」
爪を噛む音がした。シルケーががちりがちりと爪に歯を立てて、数度独り言をつぶやく。これも彼女の癖であるが、リカルダもメイドも咎めたてない。自分達の前でしかこういった様子を見せないのを知っている。
メイドが茶を新たに注ぎ直した。
「席を外しましょうか?」
「いや。良い、構わん。聞いておけ。表立った事にしたくはないが、貴様は聞いておかねばならない」
その時点で、リカルダはシルケーの口調がやや雰囲気を変えたのを察し取った。感情を荒立たせているのでもない、理知的な顔を見せたのではない。どこか神妙な様子だ。
尖らせたままの唇で、シルケーは言う。
「エレク、という名前は貴様らも知っているだろう。罪過の者と歴史に刻まれる悪人の名だ。時折悪党がこの名を使う事もある。
が、その姓名を知る者は絶対にいない。いないはずだ。大騎士教が躍起になってこの世から抹殺した名前だからな」
名前を歴史から抹消する。
例が無い事ではない。過去功績をあげた者が大騎士教に反旗を翻した場合、その者の家名を含め全てが消し去られる事は歴史上数度あった。
「災いを呼ぶ者は、とこしえに名を呼ばれる事の無いように、ですわね」
「そうだ。全てを利用するシルケーの家も、それだけは利用をしない。故に歴史から消された名前を知る者は大騎士教、三大国、そうして迷宮を管理する我ら。――それと本人だけだ。エレクという名だけが残ってしまったのは、当時の人間が戒めとして消さなかったのか。それとも消せなかったのかは分からん」
リカルダは僅かに目を細めた。
ある程度の予感はしていた。エレクと名乗り亡霊となって迷宮の中にいた彼は、もしかすれば罪過に連なる者当人なのではないか。本人でなくとも、関わりのあるものではないか。
しかし今の彼は、リカルダから見ればむしろ善良な類に見えた。無論善人ではないが、悪辣ではない。
だからこそシルケーの言葉から動揺と衝撃を受けつつ、小さく頷く。
「ではこの、エレクという者は何をしたのです」
リカルダが問う。メイドもまた主人の言葉を待って押し黙っていた。
シルケーは心するように数度唇を波打たせて、言う。
「他言無用。そうして、笑うなよ。――五百年前、大地に君臨した魔の王の名、という事になっている」
五百年前。未だ大陸の多くが魔物の手にあった時代。人類はそれでも尚統一されず、割拠を繰り返していた。決して統一されず、人類同士で幾度でも殺し合う。
魔物による被害は人類にとって自然災害と同等であり、もはや彼らは抗う気配すら見せなかった。その時代に忽然と現れ、数多の仲間と共に人類国家を統一し、魔物世界への侵攻――魔導戦役を始めた王の名。
「……つまり、伝わらぬ四騎士らの王ですわね。しかしそれですと英雄のように聞こえるのですが? 実際、大陸を人類の手に取り戻したのは王なのでしょう?」
メイドが表情を硬くしたまま、相槌がわりに言った。シルケーが軽く首を横に振る。
「ああそうだ。想像はつく。魔王は間違いなく人々の生存の為、魔物に虐げられる民の尊厳を取り戻す為に立ち上がったのだろうさ」
しかしそれだと都合が悪い連中がいるのだと、シルケーは言葉を加える。
「五百年も前だ。流石に記録も混在してる。王が人類種を裏切り、罪過はそれを手助けしたものだとする話もある。だが本質はそこではない。問題なのは――王を殺したのは四騎士だという事だ」
だからこそ、その名は抹消され、魔導戦役後は大騎士による統治態勢が敷かれたのだとシルケーは言った。
全ては歴史上の事。どこまでが真実で、何が虚偽かは分からない。しかしそれでも、抹消した名前を名乗ったものがいるのであれば対処をしないわけにはいかない。
リカルダを見ながら、シルケーは口を開いた。
「その者を明日連れてこい。数百年もの間踏破できなかった六層を踏破したのだ、利用できるなら是が非でも我々で利用する。しかし、出来ないのなら――」
一拍を置いて、シルケーが断言する。
「――断頭台に送る。所詮、金髪紅眼の属領民一人、反対する者はいない」