第五十一話『愛よ闘争よ』
カサンドラが結界展開の詠唱を語り、数秒の静寂。後にそれは来た。
――果てしない衝撃。結界の中にあって尚、聖殿が揺さぶられる。魔導の波動が染みわたってくるようだった。大砲の如き衝撃音。
この時代に、これほどの魔導を放つ者を俺は数名しか思いつかない。建造物を更地に変貌させてしまいそうな魔導は暫くの間放出を続け、そうしてようやく振動が終わる。
俺の腕の中でカサンドラが、黒い血と共に呼気を漏らした。もうその身体には、魔力らしきものが僅かにしか感じられない。
しかし俺の中にあったのは安堵よりも困惑の方が大きかった。
「どうしてオレを庇った、カサンドラ。お前一人だけ助かる事も出来ただろ」
「……まさか。陛下、わたくしは悪い女なのですよ」
唇から血を垂らして、目を細めながらカサンドラが言う。彼女の姿は余りに弱弱しく、今にも消えてしまいそうだ。
最初にあった自信も不遜さも何もかも失われてしまって、聖女という仮面すら放り投げた素のままのカサンドラがそこにいた。
聖殿の中がいやに静かだった。ただカサンドラの声だけが響いていく。
「貴方を……お止め出来なかった。騎士達を止められなかった。貴方に五百年縋りつくしか出来なかった。地獄に落ちるべき女なのです」
「待て。何を言っている? どういう意味だ。最初から話してくれ」
カサンドラは俺の顔を見て、にこりと微笑んでから言った。
「申し訳、ありません。言えませんわ。約束ですもの。陛下が手を取られるまで、何も言えません」
カサンドラは言い、ぎゅぅと唇を噤んだ。何か大切なものを噛みしめるような仕草をする。
約束とは何の事だ。そうして一体誰と。しかし問うても何も返ってこないだろう事が、カサンドラの断固とした表情から読み取れてしまった。
彼女の気配が、朧気になっていく。カサンドラが本来は人間であったとしても、今は魔物。しかも五百年を生き延びていたのは、その魔力の蓄積と自らこの異様な世界の秩序を作り上げていたからこそだ。
それが今崩れ去ろうとしている。魔力と共に、世界の理が死んで行こうとしている。
だというのに、カサンドラは笑みを絶やさなかった。抵抗もなく、俺に支えられていた。
「……陛下」
弱弱しくなってしまった声で、カサンドラが言う。どういうわけか、俺は頷いてその手を取っていた。何度も同じことをした記憶がある。
それにもはや彼女に抵抗の術がない事を知っていた。悪あがきもしないだろう。信頼と、そう呼んでもよかった。
「わたくしは、敗北をしました。どうぞ、お進みください。貴方は王なのですから。わたくしは地の底でお待ち致します。五百年待ちました。今更、何のことがありましょう」
地獄で待つと、そう言ってカサンドラはとうとう身体から力を無くした。何かを語り掛ける前に、言葉をすぐに続けて彼女は俺に顔を見せる。
そこにはもはや誰でもない、ただ一人の女の笑みがあった。
「どうか、お元気で。何時もお傍におりますわ――」
俺は、考える事もなく答えた。
「――ああ、そちらもな。カサンドラ」
腕の中からすり抜けるように、カサンドラの身体が消えていく。彼女はその身体の大部分が魔力でつなぎ止められていたのだろう。肉も骨も魔力に変じ、それを供給し繋ぎ止める不死者なればこそ。
もはや俺の腕には何もなかったが、手中にだけ何かの感触があった。魔力の残滓のようなそれは、指輪の形に見える。簡素なそれは、聖職者の人間が五百年前身に着けていた鎮魂の指輪だろう。
俺がシヴィリィを依り代とするように、カサンドラもまたこの遺物を依り代としていたのかもしれない。
馬鹿な奴だと思った。聖職者になんて誰よりなりたくなかったはずなのに。奴は最後まで聖職者であらねばならなかったのか。
『エレク――。私、何も見ないから』
シヴィリィが胸中で呟く。彼女はそれ以上を言わなかった。俺はただ指輪を強く握りしめていた。
理由は分からない。記憶がはっきりと思い出せたわけでもない。
だが、胸中に一つの感情が重い鉛のように居残っていた。
カサンドラは敵だった。倒さねばならなかった。俺がこの手で壊さなければならなかった。
けれどそれと同時に、彼女は間違いなく俺の友だった。
瞳を一瞬、指先で覆う。
「――大丈夫だ。行こう。立ち止まってる暇はないからな」
カサンドラの言葉に背中を押されるようにしながら。呼気を吐いて立ち上がった。
もはや聖殿には誰もいなかった。敵も戦友も、誰もいなかったのだ。ただ五百年前の残り香だけが、今も残り続けていた。
◇◆◇◆
神殿の中で援護をしてくれたリカルダとはすぐ合流できた。問題は外だ。先ほどの衝撃に加え、カサンドラが喪失した事で結界も失われたはず。ノーラやココノツの安否、そうして魔女と巨人の軍勢はどうしたのか。
全てが疑問のままだ。
リカルダは半ば凍り付いた様な顔つきで、急ぎ足で外に向かう俺に言う。
「様子は先に見ましたが、不味い事になってます」
「不味い?」
抽象的な物言いに思わず問い返す。リカルダは頭が悪いわけではなく、普段の説明は端的で分かりやすい。その彼がこんな言い回しをするという事は、一言で説明できない事態が起こっているというわけだ。
神殿の出口が、夜だというのに光を発していた。篝火と魔導の光が重ね合わさっている。
殺気立った声がその先から聞こえた。
「――拒否する。我々は陛下の兵であり、貴様の兵ではない。民でもない。奴隷でもない」
魔女エウレアの声だった。だが俺やシヴィリィに話しかけていた声とはまるで違い、今にも目の前の相手を殺しそうな気配がある。
彼女本来の、軍を率いる魔女侯としての声だった。
「高々騎士風情が、我らの軍勢を止められると思うたか。侮るなよ」
巨人将軍ガリウスが唸り、大剣を強く地面に叩きつけた。それだけで地を響く振動が臓腑にまで染みわたってくる。
憤激が空気をも伝わる。一瞬即発とはまさしくこれを言うのだ。
魔女と巨人。両者の頂点と相対するのは――ただ一人の騎士と、その護衛達。
「残念至極! しかしこちらも事情が事情だ。押し通らねばならない! だが安心するがいい!」
朱色の騎士鎧を身に纏い、空気を歪ませるほどの魔力を見せる。その濃度は、勝利の騎士ヴィクトリアとも比肩するだろう。俺が凱旋式で見た姿そのままだ。
威風堂々たる戦役の騎士。よく通り響く声で言う。
「――己は貴君らを憎みはしない。軽蔑もしない。むしろ愛してる。愛してるからこそ、戦いは起こるのだ。愛こそは闘争だ!」
一瞬、思考が止まる。
そうして眉間に皺を寄せて思う。騎士は変な奴しかなれないと決まりでもあるんだろうか。ヴィクトリアにしてもそうだが、言動が胡乱すぎる気がする。
緊迫した空気の中、騎士の不自然な言葉だけが響き渡る。もしかすればこれだけ殺気を放っておきながらエウレアやガリウスが騎士と衝突していないのは、その奇妙な雰囲気ゆえかもしれない。
というか何より珍妙なのは――何故かその騎士に連れられるようにノーラがいるという事だ。表情を見れば、さほど自ら付いてきた様子ではなかったが。騎士の背後に連れられた一団の中に、彼女はいた。
『……どうする、エレク』
シヴィリィがややも神妙な声で聞いてくる。事実上魔女と巨人がこちら側とは言え、騎士一人がどれだけの脅威かはよく知っている。カサンドラの結界にあれだけ干渉できる存在は、魔女にも巨人にもいないだろう。
恐らく奴の目的は、聖女カサンドラとこの神殿のはず。無理に話をこじれさせたくない。
思い、一歩前に出る。リカルダが何か声を出していた。
「――止めろ。エウレア、ガリウス。彼らと敵対する意味はない」
俺が声を発した瞬間。場が静まり返る。
視線が俺に集中して、傍らでリカルダが身体をぴたりと止めて固くなっていた。
エウレアとガリウスが目を丸くして俺を見ている。果て、どうしたのか。
そう思った所で気づいた。
俺は今シヴィリィの身体だったな。そういえば。
騎士とその護衛。数多の魔女と巨人の視線を受けながら、思わず頬をひくつかせた。




