第五十話『聖女と少年の在りし日』
聖女カサンドラの瞳の色がくすんでいく。ため込んだはずの膨大な魔力が壊されていく。五百年を超越した魔導と身体が壊れていく。
馬鹿なとも信じられないともカサンドラは言わなかった。淡く色あせていく視界の中、ただ茫然と揺れ動くものを見ていた。
それは記憶のようだった。今までの生涯が瞳に映りゆく。朦朧とした意識が、まるでそれを現実のように思わせた。
遠い記憶だ。
カサンドラが生まれた国は、彼女が生まれた時から絶えず戦争を続けていた。途中で停戦を挟んではいたらしいが、彼女にとっては殆ど戦時と変わらない。
常に貧しく、常に人が死んでいく。
カサンドラ自身は教会の生まれで、決して豊かではなかったが不足はなかったのは恵まれていたのだろう。
その理由は分かっていた。教会には大勢の子供がいたのだ。
きっと親が捨てたか、もしくは死んだ子供達。そんな者は幾らでも出来てしまう時勢だった。
親から教えられ、子供達に告げた言葉を今でもカサンドラは覚えている。
「皆の救いとなるべく、神に尽くすのですよ」
「貴方達は、皆に救いを与えるのです」
戦時において教会は実際の所、その大部分が兵の訓練場だった。行き場のない、学もない子供達は道を選ぶ事もできない。神の為という思想の下に、男女共に戦場に立てるようになるまで過酷な訓練を課される。
相手は逃げる場所もない子供だ。死にはしないまでも、商品になる為の訓練が幾度も施された。
靴すら買ってもらえなかった子供は、何度も足の皮が駄目になり、爪が剥がれ落ちていたのを覚えている。兵士になれない子供は、奴隷か娼婦として売り払われた。
当然、カサンドラ自身はそんな事はなかった。教会の娘として、神に仕えながら彼らに教えを説くのが仕事だった。
「耐えるのですよ。今は苦しくとも、必ずあなた方は救われるのです」
そんな時代だった。大人は勿論、子供も戦争に出る時代だった。それが正しいのだ。
カサンドラも、そう信じられれば良かった。彼女が不幸だったのは、酷く聡明だった事だろう。
いいやそれとも、誰もが思っていたけど口に出さなかっただけなのかもしれない。だって、仲良くなったはずの子が次の日には死体となって帰ってこず。時に腕や足を失って帰ってくる。
――戦えなくなった者達が、教会でどんな扱いを受けるかは思い出す事すらしたくない。
カサンドラは、何時も彼らの『救い』だった。彼らがどれほど絶望をしても、どれほど苦しんでいても。カサンドラは笑顔で彼らを送り出さねばならない。それを見て彼らは、彼女の言葉を信じて戦場に行くのだ。
「貴方は、英雄になられるのです。素晴らしい事です」
「戦場で戦う事こそ、救いなのですよ」
頭がおかしくなりそうだった。人を笑顔で、死地へと送り出す自分はどんな身分なのか。救いを与える立場でありながら、救いを求めてしまった。
涙ながらに、両親に問うた事がある。
「どうしてずっと戦わなくてはならないのですか。魔物に襲われて民が何人も死んでいるのに、何故戦争をするのですか」
確かその後すぐに、痛みも忘れるほど殴られ続けたのだったか。顔だけは殴られなかったのは、カサンドラの見目が良く、子供達を奮い立たせるのに有用だったからだろう。
父が眉間に皺を寄せて言う。
「馬鹿げた事を言うな。神の為に死ねる事ほどありがたい事があるか」
母が笑顔で語る。
「彼らはあれで幸福なのよ。戦場で死ぬ事ほど、幸せな事はないのよ」
神の為に死んだ事も、戦場で死んだ事もない父母がそう言った。
それから何度も、友人を戦場へと見送った。何人も、何十人も帰ってこなかった。誰も死なない戦場があれば良いのにと馬鹿げた事を思った。
戦争は果たして、何時終わるのだろう。魔物は都市すらも襲い続けているのに、何故私達は人間同士で戦争をしているのだろう。カサンドラがそんな事を問うても、話しても。帰ってくるのは罵倒と嘲笑だけだった。
父母だけでなく、同じ都市に住む人間は全てそうだ。カサンドラの言葉を受け入れるものはいない。聞く耳を持つ者もいない。
ただ笑顔だけを振りまいて、人を死地に送れとそう言われた。
お前は頭がおかしいのだと、そう言われ慣れた頃だった。
教会に一人の少年が来たのだ。黒の瞳と髪の毛をした少年だった。服装は綺麗で、一部に刺繍すら施されている。貧民ではなく、身分ある人間のようだった。
「カサンドラとか言うのはお前か」
「……わたくしに、用でも? 頭がおかしい女を見て、笑いに来たのですか」
皮肉にもならない事を、確か言った。しかし少年は笑うのでも、罵倒するのでもなく堂々たる振舞いで応じる。
「話を聞きかせて欲しいなレディ。俺も父から同じことを言われたばかりだ」
そこには皮肉も、嘲笑う意図もない。真っすぐな言葉だった。
果たして何を話したか、カサンドラはよく覚えていない。呂律は回っていなかっただろうし、きっと言葉は繋がっていなかった。もはや最後は勢いのまま、単語を吐き出していただけかもしれない。
だって真面目に話を聞いてくれる人など、初めてだった。
人間同士の戦争に益などなく、このままでは魔物に食い物にされていずれ死んでいくだけだ。こんな殺し合うだけの催しは何の意味があるのだ。誰も彼も、本気で戦争を終わらせようなどとしていない。ただ魔物に食い殺される日を少しでも遅らせようと、他者を先に断頭台に送り込んでいるだけなのだ。
彼は最後まで聞いていた。そうして大きく頷いてから、言う。
「カサンドラ。正直を言うと、お前が正しいのか正しくないのか、俺にもよくわからない。俺はお前ほど頭も良くねぇからな。けどやりたい事は同じだ」
全肯定ではなかったが、罵倒や嘲笑以外が返って来たのも初めてだった。カサンドラはきょんと瞳を大きくして、彼の言葉を待っていた。
彼はカサンドラに頭を下げて、言う。
「俺に知恵を貸して欲しいカサンドラ。俺は足りないものだらけだが――必ずお前が言う事を正しい国にしてやるぜ、レディ」
それが始まりだった。それが生涯における最も輝かしい瞬間だった。
筆舌に尽くしがたい苦しみと栄光の快楽を共にし、仲間からの裏切りすら享受して、カサンドラはここにいる。たった一つの目的の為に。
どくんと、カサンドラの心臓が唸る。瞳に視界が戻って来た。聖殿の中に自分はいるのだと承知した。
すぐ傍に彼の、いいや彼女の身体があった。カサンドラの表情が大いに歪む。さも当然のような顔をして、王と共に彼女はいる。
誰が許したものか。誰が譲ったものか。その場所は――。
体内に魔力を集中する。ため込んだ魔力の大部分は傷つき崩壊してしまったが、それでもまだ全て死に絶えたわけではない。反面、相手はもう終わりだ。ここで、一つ詠唱を加えれば。
カサンドラは半死半生の有様で、口を開き。
――同時、目を見開いた。
何かが、来ている。神殿に向けて魔力の塊のような何かが。カサンドラは一瞬で理解する。高威力の魔導術式。この色合いは――戦役の騎士。
胸中で舌を打った。魔力に窮して、結界を一時的に消滅させたのが仇になった。好機と見たのだろう。敵はもはや、神殿そのものを呑み込まんとする勢いで魔導を撃ち抜いている。
アレはやろうと思えば、出来るはずだ。自分だけでなく、周囲の軍勢とエレクを巻き込んで全てを荒野に返す事が出来る。アレの権能はそういうものだ。
彼も気づいたのか、その目を開いて視線を動かす。流石に深刻さが表情に現れていた。
カサンドラは思う。どうせなら、ここで手を離してくれれば良かった。お前なんて知らないと言ったのだから、一人で逃げてくれればよかった。そうすれば、こちらも堂々とその背中を撃てたのに。
――けれどエレクは反射的に、カサンドラの身体を強く引き留めた。
目を細める。カサンドラは吐息を漏らして、瞳を潤ませた。満身創痍だというのに、何をやっているのか。本当に、合理的ではない。
そういえばと、今になってカサンドラは思い出した。思えばエレクは、最初は今のような性格だったのだ。堂々としていながら、どこか抜けている。
それが冷徹な仮面を被ってしまったのは、彼が王となってしまってからだろう。
ふっ、と笑みを浮かべて身体を預けながら。カサンドラが唇を開いた。渾身の魔力を全身に籠める。
そうしてから、言った。
「神殿周辺全てを守護せよ。『結界展開』」




