第四十六話『消えぬ焦がれ』
カサンドラの言葉に、足で床を叩く。音が鳴らない事で亡霊の身体なのを思い出した。
地上の人間に裏切られたと彼女は言った。言葉には嘘がない。恐らくそれは、少なくとも彼女にとっての真実なのだろう。
俺にもある程度の推測はつく。魔女侯エウレアは、聖女は魔族と戦っていたと語った。ならば彼女ら罪過の者も、かつて地上で四騎士らと共に魔物の軍勢と戦った英雄のはず。
だというのに現在、大騎士教においては英雄は四騎士のみであり、罪過の者である彼女らは大罪人として語られている。そこのズレに、何かしらのものがあるのだ。俺が死んだ原因もまたそこにあるかもしれない。
しかし彼女の語り口調は、まるで真実をぼかすかのようでそこの所がはっきりしない。
近づきながら、顔を上げる。
「カサンドラ」
「はい。陛下」
「お前は、俺に何を隠している? お前が全てを知っているのなら、俺に何もかも語れば良いはずだ。言わないというのは、詰まりそれだけの理由があるんだろう」
カサンドラが一瞬目を細めて、押し黙る。滑らかに動いていた唇が閉じて、指先が固くなった。
交渉中に、思わぬ急所を突かれた人間が示す反応だった。
「五百年前何が起こりこの迷宮が出来たか。どうして俺は死んだか。お前たちは誰に何故裏切られたか。分からない事だらけだ。お前が会話の通じる相手なら、ここの所が明快になるんじゃないかと期待していたんだが」
カサンドラは十分に間を置いてから、答えた。
「申し訳ありません陛下。一切にお答えできません」
断言した口調だった。しかも彼女は『知らない』と言わなかった。知っていながら答えられないと、そう言ったのだ。
「……質問を変えようか。お前は俺に何を期待している。何かあるから、俺と会話をしているんだろう」
「酷い言い様です事。ですが、陛下らしいですわ。必要な会話以外は斬り捨てるお方でしたものね」
くすりと面白そうに笑ってから、カサンドラが言葉を続ける。
「わたくしは先ほどの事以上にお答えはできません。ただ、私の手を取って頂ける事を期待致しますわ。わたくしは、陛下のお役に立てると思いますが」
「……それで交渉になるつもりか?」
知っている事は何一つ話さずに、それでいて自分の味方になれだなんて交渉はそう経験出来るものじゃあない。
それに正直を言えば俺もこの第六層の有様には少々腹が立っている。
俺はシヴィリィほど博愛的ではない。理不尽に虐げられている者全てに手を差し伸べ、同じように憤ってやれるほど出来た人間ではない。
けれど、身近な人間であれば話は別だ。かつて俺に従い地を駆けた魔女と巨人族の軍勢達。
どんな理由があったとして、そいつらを食い物のように扱われ、都合の良い兵隊にされて憤らない奴はいない。けれど俺の表情を見てとっても、カサンドラは変わらなかった。
「ええ、なると思っております」
彼女は笑みを崩さないまま頷く。一切の疑念を含まない表情だった。
「失礼ながら――今の陛下にはお力がございません。地上には陛下の名望は轟かず、魔力は尽き果て、肉体は失われておられる。高々守り手に過ぎないわたくしにも届かないほど」
こちらの痛い所を遠慮なく突いてくる奴だ。しかしまぁ、事実だった。
実際シヴィリィの協力がなければ第六層に踏み入ってくる事も出来なかっただろうし、この神殿に到着出来たのだって魔女や巨人族、リカルダらの力があったから。
俺一人なら、未だあの第五層の棺桶で眠っていなければいけなかっただろう。そういう意味で、俺の力は皆無に等しい。
「反面、地上を知ったのであれば力がなくとも陛下ならこうお考えではないでしょうか。
地上の理は、陛下の理想に沿い切れていない。陛下の理想はもっと別の所にあったはず。であれば、今一度あの頃のように世界を変革せしめたいと」
カサンドラはその双眸を炯々と輝かしながら、俺の胸中を見定めるように視線で貫いてくる。
間違いでは、ないな。ノーラにも言ったように、俺自身今の地上は大して気に入ってもいない。何処か歪んで狂ってるんじゃないかと思う。だからこそ、ノーラの手を取り彼女の野望を果たしてやりたいとも思った。
そこに至って、カサンドラが何を言いたいのか理解した。最初からここに持ってくるつもりだったのだろう。
「五百年の間、地上で四騎士は営々と力を蓄えて参りました。大国を含めた四つの国家は、陛下の意志の妨げになりましょう。ですから、わたくしはこう提案致しますわ。必要な力を、わたくしがお貸ししましょう。わたくしが陛下の依り代となりましょう」
カサンドラは満を持したように、言う。きっとその言葉は、何百年もの間、彼女の中でため込まれてきた言葉なのだ。そうとしか思えないほど、彼女の口調は滑らかだった。
「――そうです。かつての如く、今一度この第六層より国盗りを致しましょう。他の近衛七人の誰でもでなく、このわたくしの手を取って。迷宮の他の階層も、地上の各国も、再び手中にするのです。聖女カサンドラが、進言致しますわ」
瞳が揺れる。亡霊の身体が酷く頼りなく感じられた瞬間、ふと瞳の裏にそれが見えた。古ぼけた光景だ。恐らくはかつての記憶の一角。
国盗り。そうだ。そうだった。確か最初の俺には、たった八人しか味方がいなかった。周囲は敵だらけで、魔物に蹂躙されてるっていうのに人類種同士で争いばかり起こしやがる。
大陸の端と小島に押し込められて、それでも彼らは小さな領土争いばかりをずっと好んでやっていたのだ。馬鹿げていると何度も憤った覚えがある。
けれど今思えば、それは彼らが正気を保つための唯一の手段だったのかもしれない。魔物に滅ぼされそうな運命から目を逸らす為の、現実逃避だ。
「お前の言いたい事は分かった。確かにお前は俺の側近だったのかもしれないな。似たような妄言を五百年前にも言われた覚えがある」
「光栄の至りですわ」
皮肉は笑って流せる程度の余裕があるらしい。鼻を鳴らす。
カサンドラの言う事は、合理的に思えた。今の世界を気に食わないと思うのなら彼女の言葉を受け入れるべきだ。何もシヴィリィと何時までかかるか分からない迷宮探索を続ける必要は無い。
現実的に考えれば、そうなのだが。
「――しかし、悪いな。もう俺は他の人間の手を取った後でな。そこでお前の手を取るのは不義理だろう」
「他の者、ですか」
カサンドラの瞳が大きく開く。小さく呟くようにして、その唇が問うた。
「それは、四騎士のどなたです。迷宮に入り込んだ者らではないでしょう?」
「ん?」
彼女は大きく勘違いをしているようだった。確かに彼女の話と曖昧な記憶を繋ぎ合わせれば、四騎士の始祖と迷宮に籠る罪過の者らは俺の近くにいた者らなのだろう。
けれど、そんな事と俺が協力するかどうかに何故関係があるのだ。
一歩、また一歩と近づき、機を見計らいながら言う。
「――お前が膝に抱いているそいつだよ。シヴィリィ=ノールアート。良いパートナーだろう?」
カサンドラが膝元に目を落とし、すぐに顔を上げて言う。
「…………この子は、ただの器では?」
「いいや。契約した。彼女は俺に協力し、俺は彼女に必要な事全てを教え与える」
「器としての利用ではなく、村娘と契約を――? その意味をお分かりで、言っておられるの」
頷いて頬を緩める。
それは死にかけていたシヴィリィに呼び起こされたあの日、手を差し伸べられたあの日だ。
俺と彼女は契約を交わした。ただの口約束ではない。言わば魔力の経路を通した正式な魔導契約。彼女は俺との約束を遂行しなければならないし、俺もまた彼女への義務を果たさなければならない。
俺が亡霊の姿のまま存在出来ているのは、契約によって彼女と魔力を共有出来ているからだ。
だからこそ、
「無論。彼女が死ねば、俺は遠からず消えるだろう。だからお前の誘いには乗れない。乗る気もない。もし国盗りをするのなら彼女とする」
「しかしそれならば、わたくしと契約を結び直せば良いではないですか。わたくしより、この少女を取ることは不合理で――陛下が何よりもお嫌いだったものでは?」
自分は全く答えようとしない癖に、人にはあれやこれやと聞いてくる奴だ。更に一歩を近づいて。目を細める。
「そうだ。その娘も不合理の塊で、俺とは全く性格が合わない。何度か失敗したなと思ったよ。理想と綺麗ごとばかり口にする、周囲を省みずに行動する、それでいて考え無しで想像力は欠片もない。率直に、利口だとは言えないな。その上身分も最底辺で、きっと彼女にはろくな未来が待ち受けてないだろう」
不味いな。自分で言っておいてなんだが、良い所がどこか分からなくなってきた。
「であればッ!」
カサンドラが初めて声を荒げた。蒼白い髪の毛は、跳ねるように宙を撫でている。
首を横に振って、両肩を軽く上げた。
「けれど、そこに偽りはなかった。俺は彼女の在り方を美しいと思うよ」
「うつく、しい――?」
驚愕するような瞳を彼女が浮かべる。けれど、言葉を覆すつもりはない。
理不尽に斬り殺されて、地べたを這いつくばって、泥を啜ってそれでも尚理想を語れるのならば。
血塗れになり、酒を浴びせられ嘲笑されて、尊厳を踏みにじられても尚綺麗ごとを語られるのならば。
もはやその理想と想いは合理性で殺せない。シヴィリィという人間が、その上で自分の真実を追い求めるのなら、俺はそれを尊く美しいと思う。
いや、そうか。今まで口にした事はそうなかったが、恐らくはこれが。
「――彼女の在り方に恋焦がれたのさ。だからお前らの手は取らない。理解出来たかレディ?」
カサンドラは俺の言葉を、数十秒かけて咀嚼したようだった。沈黙が聖殿の中に染みわたり、音の一つも感じられない。俺は亡霊の身体を前に出しながら、彼女の反応を待った。
絞り出したような声が、返ってくる。
「それが……御身の破滅に繋がるとしても、ですか?」
「答える必要があるのか? 確か誰よりも察しは良かっただろう、お前」
黒い双眸が目に入った。その瞳にはもはや、聖殿に足を踏み入れた瞬間の笑みや親し気な様子がない。穏やかな気配は掻き消えていた。
いいやむしろ、空間全てを敵意で満たすような泥の如き感情が満ち溢れていた。亡霊の身体が、痙攣するように蠢動する。
俺らしくもないやり方だと胸中で愚痴を吐いていた。きっと以前の俺ならもっと上手くやっただろう。カサンドラを言葉で丸め込み、精々利用してやる事ぐらいの事はしたかもしれない。どう考えても亡霊の身体で聖女と相対し、敵対するなんてのは上策じゃあないだろう。
けれどまぁ。もしそれをしようとすれば、それはそれはシヴィリィに嫌われるだろうな。まさか俺の側から誰かのご機嫌伺いをしなくてはならないとは。
亡霊の身体のまま、腕をあげて指を鳴らす。僅かに魔力を発光させた。
「俺を舐めるなよカサンドラ。俺の戦い方を思い出させてやる」
瞬間、カサンドラの魔力が激昂したように拡散し――同時、背後から射出音が響いた。
俺と共に神殿に入り込んだリカルダが、打ち合わせ通りクロスボウを射出した音だ。それは俺の身体を貫通し、そのままカサンドラへと向けられる軌道をしている。彼の狙撃能力は十分に信頼に足るものだ。シヴィリィに向けて誤射をする事はないだろう。
「わたくしにただの矢が、通用するとでも」
カサンドラも射出される瞬間に、それが何か察知していたのだろう。避けるような素振りすら見せない。それが隙になると理解しているからだ。
勿論俺も、ただの矢がこの化物に通用するとは思ってもいない。魔力を指先に集中させて、魂を吐き出す勢いで言った。
「魔導――付与『破壊』」
俺の周囲一帯を範囲とし、そこに矢を通しさえすれば。魔導付与を経たクロスボウが出来上がる。――ように見える。
ゆえにカサンドラが目を見開き、態勢を僅かに崩した。今のは、その一瞬の動揺だけが買えれば良かった。
一呼吸で数歩分を走り、カサンドラに接敵した。そのまま間近で、『破壊』を付与した魔導を射出する。
「これで死んでくれよ。魔導――『魔弾』」
魔の弾丸が、態勢を崩したままのカサンドラの頬へと吸い込まれて行った。