第四十五話『聖女の笑み』
零落の聖女。カサンドラ=ビューネルは、自分が何時からそう呼ばれ始めたのか明確な記憶はない。
果て最初からだろうか。それとも決戦の最中か。それとも、五百年前のあの日から?
ただ彼女が何時しかそれを受け入れているのは確かだった。夥しい憎悪と、醜悪なほどの感情と共に。
彼女は青白い髪の毛をぱさりと垂れさげ、吐息がかかりそうな距離で金髪の少女を見た。カサンドラの聖殿に置かれた椅子は、彼女の身体くらいはあっさりと横たわらせる。
大きな瞳をまじまじと開いて、見ていた。彼女の髪の毛の一房を掬い上げる。
「まるで、あの子みたいな髪の毛と瞳をしておられるのね」
魂を揺さぶるような声だった。シヴィリィをじぃと見つめたまま、カサンドラは瞳を開いた。魔力の色を見極めるためだ。彼女を捕らえてから幾度目かの試みだった。
カサンドラには最初から違和感があった。奇妙だと思っていたのだ。
何故この少女に、『大陸食らい』の本体を打倒する事が出来たのか。何故この少女に、自分の結界を砕く事が出来たのか。
前者は仲間の手助けもあったとはいえ、そもそも『大陸食らい』は高レベルの冒険者や探索者ですら打倒しかねた相手だ。外界に出れば、大空を自由に飛び回る彼を打ち果たせたのはあの弓を持つ勝利の騎士くらい。
後者は更に不思議だった。結界こそは聖女カサンドラの神髄であり、五百年前にもそう易々と破壊された記憶はない。一触れでの破壊など、四騎士でも不可能な芸当だ。
彼女の身体を幾ら探ってみても、形跡らしきものがない。魔力にも見当たりはしない。
であるとすれば、まさか。
カサンドラは少女の頬に触れる。そうして、眉間に皺を寄せた。肌に触れその魂と血を感じ、ああそういう事かと納得した。
彼女に流れる血に、彼女の中で循環させる魂に覚えがある。
四騎士共。大騎士教の連中め。
「――信じがたい事を、途方もない事を、まだやっているの」
嫌悪が口の中に這い寄ってくる。カサンドラは小さな手を軽く握りしめて目を細めた。
まるでそれは、少女を憐れむかのようだった。悲しむかのようだった。そうして彼女に視線を落として、頬を動かす。
「貴方を、救ってさしあげますわ」
カサンドラの瞳が潤む。哀れな少女、可哀そうな少女。まだ十数の年で、命を賭けてこの迷宮に潜らなければいけない。大騎士教が管理統括する世界で、首輪をつけて生きなければならない。
少女には、何かしらの野望を果たす為の力が絶望的に足りなかった。武力も、権力も、地位も。似たような人間は過去第六層に幾度も訪れたものだ。
そういった者らを、どう救済すべきか。もはや世界は変えられない。彼女らに全てを与える事は出来ない。ならば、
「おいで、可愛い子たち」
カサンドラを中心に、ぼぅ、と黒が展開する。呼気を荒げるように、嘆くように救いを求める声がする。
それは魔力ではない、魔導の類でもなかった。カサンドラがかつて幾度も手を差し伸べてきた、救われぬ魂たち。
亡霊とも不死者とも呼ばれる者ら。救いを得られなかった者達の嘆きそのものだ。
彼らは死にもしない。しかし生きる事もない。ただ混濁した一つの魂となって、カサンドラに縋りつく。もう苦しい現実に立ち向かう事も、死を恐れる必要もない、誰かに虐げられる事もないのだ。
人はそれを堕落と呼ぶかもしれない。零落と呼ぶかもしれない。第六層の魔女にしろ、巨人にしてもそう。
けれども生きる者全てが、何かに立ち向かえるわけではない。世界に向かって戦えない者も大勢いるのだ。
五百年前から、それだけは変わらない。そんな彼らは今の大騎士教の世界では食い物にされるしかない。そんな彼らに、立ち向かって戦い、敗北すれば死ねというのは余りに惨いと聖女は思う。
「魔力どころか、魂も彼らに利用されてしまうなんて、嫌でしょう?」
だから自分が、救いあげよう。
生きられない者達に、生きるべき場所を。救われぬ者達に、救われるべき場所を。この世の誰もは、救われなければならない。
カサンドラは少女の頬に手を当てたまま、自らの魔力を彼女へと注ぎ込む。その身体を溶かしてしまうために。その魂を呑み込んでしまうために。
一瞬、カサンドラの瞳が開いた。指が震えて止まる。
少女を浸食する中で初めて、その僅かな気配を感じ取った。ひょっとすれば見逃してしまうほどの小さな形跡。亡霊のような儚さでそこにいる、かつてから見れば考えられないほどの魔力。
――そういう事。来られているのは知っていましたが。この子が、貴方の器になられたのですね。
瞬間。結界が振動した。カサンドラは膝に少女を置くようにして椅子に座った。笑みを浮かべる。
魔女と巨人の反攻。完全に結界を破壊するほどの強さではない。本当なら結界を解除しても良かったが、しかしきっと何か考えがあってやっているのだろう。ならそれを待つのも嗜みだった。
楽しみだ。とても楽しみだった。
五百年ぶりに何を語るのだろう。何をするのだろう。
誰が来るのかは分かっていた。全てを見通せるわけではないが、魔女と巨人の軍勢が従う者はたったの一人しかいない。
そう、かつて自分が従った彼。
結界が振動を繰り返し、繰り返し、そうして咆哮をあげる。一瞬の狭間。
――何かが、結界の内に入り込んだのが分かる。
カサンドラは椅子に座ったまま、頬を緩めて笑う。
一人の亡霊が、聖殿に足を踏み入れていた。
◇◆◇◆
シヴィリィの瞳を通してみた聖殿が、目の前にあった。リカルダの身体を抜け出て、頼りない亡霊の身体となりながら軽く指を握る。魔力は『大陸食らい』を殺した事で多少余裕がある。亡霊の身体でも多少は無茶が出来るだろう。
しかしそれでも、聖女カサンドラにどれほど通用するかは分からなかった。結界の中に入った時点で、その魔力が充満している事が察知できる。魔女と巨人の軍勢全てと同等とすら思えるほどの魔。
聖殿に入った瞬間、そいつの視線が突き刺さった。シヴィリィは、彼女の膝の上にいる。
面倒だ。俺の姿が見えないならその間にシヴィリィの身体を奪い取ろうと思ったのだが。
見えているな、あいつ。
カサンドラは一拍を置いて、俺に言った。
「――ようこそ。わたくしの神殿へ。歓迎致しますわ、我が王」
シヴィリィに言ったのと似たような事を口にして、聖女カサンドラは俺に微笑みかける。亡霊だけの身体には毒と思えるほどの、魅力的な笑みだった。しかしどういうわけか、彼女に触れたいと思えない。
むしろ、魂が震えるように警戒を露わにしている。彼女の事は全く記憶にないというのにだ。
思わず眼を歪める。
「五百年、お待ちしておりましたのよ。想い焦がれておりました」
カサンドラは言いながら、小首を傾げるようにして頬を緩める。シヴィリィに見せたものとはまた種類の違う微笑みだ。第六層の主。魔女と巨人の戦役を主導したものとは到底思えない。
しかし、彼女はその笑みで――大地を蹂躙したのだ。
「ご気分は、如何ですか?」
カサンドラの言葉を食い気味に、応じる。
「――聖女カサンドラ。俺は下手な腹の探り合いは嫌いでな。悪いが、俺はお前を知らないよ。ただシヴィリィを取り戻しにきただけだ。お前は俺の味方か、それとも敵か?」
相手はその気になれば、手の一振りで俺を吹き飛ばす事が出来る。それをしないというのは、直接的な敵ではないと言えるが。
俺の挑発的な言葉に乗った様子はなく、カサンドラは困った様に眉根を寄せながら笑みを浮かべて言った。
「お忘れになるのも無理はありません。ずっと、ずっと昔の事ですもの。けれどいけませんわ。この迷宮の中で、大事なのは知る事です。目を逸らさず、事実を見つめ続ける事ですもの」
カサンドラの言葉は取り留めがないように思われた。俺の言葉に応じているようで応じていない。一歩を踏み出し、その笑みを強く視界に入れる。
「カサンドラ」
「――申し訳ありません。暫し、想い出に耽っておりました。懐かしいですわ、そのように名前を呼んで頂けるのは」
その言葉は、恐らく嘘ではなかった。そのような所作は見られなかったし、そもそも誤魔化したり偽ったりする必要が相手にはない。
だというのに、どうしてこうも胸がざわつくのだろう。
カサンドラが膝の上のシヴィリィの頭を撫でながら、口を開いた。
「そうですわね。陛下がもし迷宮を潜り続けるのであれば、敵であると言えるかもしれません。わたくし達は、迷宮を守る者ですもの。迷宮の管理者ですもの」
迷宮の管理者。カサンドラは必要以上に探索者に手を出していないという話だったが、それでもやはり敵なのだろうか。しかし相変わらず目的や、彼女らの意志が分からない。
彼女らは、何を求めているのだ。俺が彼女らに関わりがあったとするなら、それはどのような繋がりだったのか。
そこに踏み込むべきかを勘案する一瞬に、カサンドラの側が言った。
「ですが、もしも今の記憶を失った陛下がわたくし達の手を取られるのであれば。勿論味方となりましょう」
心臓が鳴った。呼吸が止まる。もしも彼女が仲間となってくれるのであれば、それは俺にとってもシヴィリィにとっても心強いが。
俺の思惑を振り払うように、カサンドラは笑みを浮かべ溌剌と言った。
「――そうして必ずや、地上の裏切り者共に復讐を果たしましょう。奴らを、殺しつくしてやりましょう」
魔性の笑みを浮かべて、心の底から偽りなく、聖女カサンドラは告げた。




