第四十三話『五百年の戦役』
彼の瞳は黒くありながら闇夜に煌々と燃えている。篝火は彼の足元しか照らさないのに、瞳だけはくっきりと見えていた。髪の毛を散らすように彼は軽く頭を振るう。
そうして指を鳴らし、笑うような口ぶりで言った。
「よう諸君。五百年ぶりの夜だ。こんな良い夜に何をしている。何をしようとしている?」
エウレアは、自分が何を見ているのかはっきりと認識していなかった。そんな馬鹿なと心が否定しているのに、魂は呼応するように眼を開く。
混乱ゆえに言葉が出てこない。ガリウスも、他の魔女と巨人も同じだった。
事ここに至って、彼女らは心底痛感していた。自分達は確かにあの夜を、理想を求めていた。しかしそれが目の前に現れるとは欠片も思っていなかったのだ。まさか、そんな自分に都合の良い事が、幸福が訪れるはずがない。
だというのに、ここに来てしまった。
誰もが押し黙り、唇を結ぶ。口にしてしまえば、目の前の理想が消えてしまうのではないかと思った。
その様子を見てか、彼は怪訝そうに瞳を歪める。
「オレを、いいや私を忘れてしまったかな。まぁ無理はないが」
「いいえッ。忘れて、忘れておりません!」
即時にエウレアが答えた。大きな杖を思わず震わせ、彼を見つめる。
魔力量は比べ物にならないけれど、確かにそれはエウレア達が知っている魔力。知っている声。姿も見間違えるはずがない。
「私達、は。――戦って、戦っています。貴方に命じられたあの日から今日まで。あの夜を戦い続けています。それが役目なら、それが使命なら、私達は厭いません」
エウレアは台から飛び降りるようにしながら一歩を近づく。瞳が濡れるように輝いていた。巨人らは、吠えるような声を出し始めながら膝を地面に突く。
ようやく周囲の誰もが、事態を真実と受け止め始めた。そうして、喜びの声を出すように奮い立つ。
自分達が何者で、何だったのかすら思い出し始めた。どうして忘れていたのだろう。これほどに大事な事だったのに。
「あの夜のように我らに命じてくだされば、殺してこよう。敵であろうと、味方であろうと」
ガリウスが重い声で言った。そこに嘘偽りは欠片も含まれておらず、ただただ実直な巨人としての性分が滲み出ている。人間と比べれば巨大といえる瞳が、ぎょろりと彼を見ていた。
魔女が、巨人が、ただ彼の言葉を待っている。
指が鳴った音がした。
「そうか。諸君、よく戦った。よく戦い続けた。諸君らほど戦い続けた者は、先には勿論、後にも現れない。――君らは言ったな。私が命じた、君らが動いたと。では今一度命じよう」
黒瞳が細まる。エウレアが思わず下げていた顔を上げた。表情が歪んでいる。彼が何を言い出すのか、分かり始めていた。聡明な頭が理解してしまった。
彼の瞳は闘争を求めているものではない。かつて自分達に命じたような、敵への憎悪をむき出しにしたものではない。
唇が、震える。彼がものを言う前に、エウレアは言葉を振り絞った。
「お、お待ちください。私達は、戦う事しか知りません。名誉を得る方法をそれしか知らないのです。ですから――」
「――駄目だ。名誉とは何か分かるか、魔女侯エウレア。ただの言葉だ。血によって見せびらかすのではなく、誰が知っているかが重要なのだ。諸君らの名誉も栄誉も、私は決して忘れない」
彼が指を鳴らす。誰も次の言葉を止められない。
「だからこそ、ここで終わりだ。名誉ある者らが、他者に利用される事ほど腹立たしい事はない。魔女侯エウレア。巨人将軍ガリウス。君らの名を持って五百年の戦争を終えたまえ」
エウレアが、震えたように両膝を地面についた。茫然と瞳を丸くしていた。涙は零れない、悲しみもない。ただ五百年間抱え続けていたモノが唐突に消え去ってしまった喪失感に溺れそうになっていた。
他の者もそう変わらない。何を聞いたのか分かっていない者もいる。彼の命令によって始まった事が、彼の命令によって終わってしまう。
唯一ガリウスだけが、顔をゆったりと上げた。表情が硬いのは他の者と変わらないが、それでもまだマシな方だ。
「……それは、貴方の名を持って命じられているのですな」
彼は、黒い瞳でしっかりと口を開きながら応じた。
「そうだ。――エレク=レイ=エルピスの名を持って命じる。五百年の戦争を、ここで終わらせろガリウス」
「――かしこまりました。我らが王」
エウレアの名を、ガリウスが呼ぶ。彼女はやはりぼうっとしたままだったが、それでも何とか立ち上がった。
まだ地に足がつかない様子で、蒼い髪の毛をぱさりと払う。
「……私達の王が、お命じとあらば」
言って、エウレアは大杖を中心に両手を重ね合わせるように構えた。祈りを捧げるような、自分自身を世界に捧げるような振る舞い。杖と全身に魔力を通し、両手を宙に掲げて口を開く。
瞬間、伝達の魔導が第六層一帯に広げられた。
数秒の躊躇をしてから、エウレアは言った。五百年の懊悩がその数秒には込められていた。
『全ての同胞に告げる。王命は告げられた。我らの戦争は終わる。魔女侯エウレアと、巨人将軍ガリウスの名において宣言する』
ふぅ、と一息が入れられる。エウレアはエレクを見た。最後は、彼の言葉を待たねばならないとでも言うようだ。
エレクは応じて口を開く。エウレアの伝達に言葉を乗せた。
『諸君、よくぞ戦った。よくぞ生き延びた。――五百年続けた戦役を、私の名によって終える』
◇◆◇◆
危ねぇ。傅く魔女と巨人の戦士たちを視線で追いながら、人知れずため息をついた。暗闇の中ならば多少の誤魔化しは効くだろう。心臓がまだ強く鳴っている。
相当の賭けだった。身体は『変貌』を使用したリカルダのもの。到底彼ら相手に戦い続けられるものではない。もし全員が逆上して襲ってきてたら終わっていた。
『色々お伺いしたいことはありますが。すみません、今相当怖い事を考えられていませんか?』
リカルダが俺に身体を貸し与えながらも、剣呑な表情をしているのが声色で分かる。相当冷や汗をかいていたなこいつ。
仕方ないだろう。共に戦っていた事こそ覚えているが、細かい所までは記憶が曖昧なんだ。下手をして一歩踏み込まれた質問でもすれば確実に答えられなかった。
そう思うと危うい橋を渡り続けていた所ではないな。しかし残念ながら俺に思いついた手立てはこれくらいだった。彼らは理想を追い求めているのだから、その理想を用意してやるのが一番確かな交渉になるだろう。
「……えっ、あの。それでこ、ここからどうするのであります。自分は一体どうすれば?」
傍らで小さく隠密状態になっていたココノツがぼそぼそと聞いてくる。構えた槍がふるりと震えているのを見ると、相当怯えているらしかった。
まぁそうだな。これで彼女らも戦役は止めてくれる。カサンドラへの魔力の供給は途絶え、結界の維持は困難なはずだ。後は、神殿をどうするか――。
一先ずこの場を立ち去ろうかとした所で、傅いたままだったエウレアが顔を上げて来る。
「お待ちください、王。もう暫しもすれば、我らの片割れもこちらに向かってきます。その時に、改めてお命じを」
「ん?」
何の話だ。もう戦争はやめろと、そう言ったはずなのだが。
しかしエウレアは俺の困惑を置き去りに、あっさり言葉を続ける。
「私達は不死者となり今もこうして生きながらえてしまっておりますが、それでも王のお役には立てるでしょう。かつては、命令が終えれば次の命令を頂いておりました。お命じください」
いや、そんな事言われてもな。
下手に彼女らを戦わせて死なれれば、それだけカサンドラの餌になってしまう。それに五百年戦い続けてきた同胞たちだ。もう彼女らに無理な真似はさせたくない。
仕方がない。命じろと言われるなら、こうしよう。
過去の口調を思い出しながら、指を鳴らす。
「なら、君らは静かに――」
「静かに暮らせ、などとは仰らないください。私達は、貴方の直属の軍なのですよ」
すまない。それは覚えていなかった。本当かそれ?
不味いぞ。下手に口を滑らせると彼女らがどう反応するかが全く読めない。当初は戦いを止めさせた後は、不死者としての生を望まないのなら静かに死なせてやれば良いし、望むのなら都市で暮らし続ければ良いとしか思っていなかった。
頭が上手く回らない。もしかすれば、俺もシヴィリィが囚われて動揺していたのか。
焦ったときの癖で、思わず指を鳴らした。そうだな、彼女らがそういうのならば。
「では……先に聞こう。聖女カサンドラは君らにとって何者だ?」
「……? 聖女は、そのまま聖女にございます。五百年前から、女神と共に戦った聖者でしょう」
女神。罪過の者らの中に、偽女神と呼ばれているのがいたのを覚えているがそれか?
一瞬記憶に語り掛けるが、すぐに諦める。カサンドラもそうだったが、女神とやらもさっぱり思い出せない。不思議だった。共に戦った魔女や巨人、他の連中の事は朧気には思い出せるし、思い出せずとも共に在ったのだろうという実感はある。
けれど、聖女や女神といった存在にはそれがないのだ。肉体が欠けているからだろうか。その所為で聖女が俺の敵に回るのか、味方に回るのかすら想像がつかない。
一度唇を唸らせてから神殿を瞳で見て言う。
「――ではその聖女が、私の大切な人物を預かっている。今から無理やりにでもそれを奪うつもりだ。君らは、それに手を貸すか?」
エウレアは一瞬瞳を大きくした。少なくともこの第六層では、聖女は彼女らにとっての信仰対象であったはず。果たしてどう動くか、そこがはっきりと読めない。だからこそ、探るように言ったのだ。
だが共に傅くガリウスが、言う。
「聞かれるなど、王らしくもありません。どうか一言、お命じあれ」
なるほど。眉間に皺を寄せそうになった。彼らは何だかんだといって、まだ五百年前に囚われているらしい。仕方ないかもしれないが。
何をやっているのか。俺など忘れてしまっても構わなかったというのに。大事なのは、その後に造られる世界であって俺が彼らに命じる、命じないという話ではないのだ。
しかし、今一時それが必要だというのなら。言おう。
神殿を指さすようにしながら、肩を上げた。
「では、諸君らに命じる。私に続き、神殿へと駆け上れ。結界を突破せよ」
途端に、魔女と巨人の呼応が聞こえた。五百年ぶりの熱量を、頬で感じていた。