第四十話『救済と慈愛の聖女』
視界が暗転し、次には激しく明滅する。魔力が動揺したかのように脈動していた。
俺の霊体そのものがねじ切られそうな衝撃の末に、がちりという音がした。瞬間、視界に一つの光景が広がる。
荘厳な光に満ちた広間だ。天井は高く、魔導紋の施された柱が連なっていた。見覚えがある。これは俺達が儀式に使っていた聖殿だ。
紋章の刻まれた柱は一つの領域を示しており、これを進むごとに人は一つ異境を踏み抜く意図を込めていたはず。要は、柱の機能をしている門と言い換えた方が良いかもしれない。
儀式性を込めた聖殿は、どこかしら幻想的な風景に思えた。まるで五百年前と、全く同じ光景。
大理石が敷き詰められた床は冷たい。いいや、この建物自体が、冷たい思想に支配されているかのように暖かみを感じさせないのだ。
そこで気づく。今俺が感じているのは霊体の感触ではなかった。まるで肉体があるような感覚。しかしその肉体自体は当然俺のものではない。
「――ここは。エレク?」
大理石の床を踏んだシヴィリィが、俺を呼ぶ。声を出してみるが聞こえた様子はない。
そうか。俺は彼女の光景と感触を魔力の経路を通してみているだけなのだ。実際にそこにいるわけではない。
先ほどの魔力の衝撃の意味が分かった。シヴィリィは結界を破った瞬間、強制的に『瞬間転移』させられたのだ。彼女の体質の事は一旦差し置くとしても、結界破りの対策に魔導を重ねて掛けておくことはそう珍しい事ではなかった。
その為に彼女は単独で転移させられた。だが俺と彼女の間の契約が強制的な分離を拒み、その感覚だけを一時的に共有させているのだろう。
「え、ええ。どこなのよここ。ノーラ、リカルダ! ココノツ?」
シヴィリィが名前を呼ぶが、声は空しく響くばかり。いずれも大理石に吸い込まれていく。
視界が上下左右に振り回される。自分の感覚とは別に視界が動くというのは、奇妙な気分だ。しかしすぐに、その視線は一か所に固定された。
幾つもの門の先。聖殿の最奥に拵えられた椅子があった。真っ白な布に覆われた大きな椅子は、一人の少女の為に存在している。
彼女は椅子に腰かけたまま、ゆったりと口を開いた。
「――哀れな子。可哀そうな子。こんな所まで、来なければならなかったなんて」
瞠目する。俺とシヴィリィの感覚が一致した。
おかしな少女だった。怖い少女だった。聖殿の中、清らかすぎる魂と魔力の輝きを有しているのに。声だけが歪な色合いに満ちている。人の心を一飲みにしてしまいそうな、狂おしい雰囲気。
確かに生きているはずなのに、死んだようにその存在が静かだ。青白い髪の毛と僧衣。それにこの場が、彼女がどういった存在であるのかを肌に伝えこんでくる。
「ようこそ。わたくしの神殿へ。ええ、歓迎致しますわ」
迷宮を作り出し、王権を持ち込んだ罪過の者。第六層の主。
零落した聖女、カサンドラ=ビューネル。その瞳が、真っすぐにシヴィリィの紅蓮の瞳を貫いていた。
どくりと、心臓が唸る。魂が揺さぶられた想いになる。勝利の騎士たるヴィクトリアと出会った時と同じだ。本能が何事かを告げようとしている。しかし、それが何かが分からない。
シヴィリィの緊張が解けないのを見ると、カサンドラはくすりと蕩けるような笑顔を浮かべた。男女を問わず、見る者が引きずり込まれてしまいそうな笑みだった。
「貴方が、聖女カサンドラ……?」
「緊張はなさらずとも宜しいのですよ。ゆっくりと落ち着いてから、貴方の願いを聞きましょう」
シヴィリィはただでさえ動揺して声を震わせていたのに、カサンドラの言葉に呆気にとられたように唇を開く。
願いとは、一体何の話だ。
カサンドラは長い睫毛を上げて、言う。
「わたくしの神殿に来る方は、願いを持った方ばかり。今も昔も、いずれの方も身命を賭して辿り着かれる。ですからわたくしは、苦難と結界を超えて辿り着いた方の願いを叶えるのです」
消え入りそうな、それでいて耳に残る声でカサンドラが続ける。シヴィリィが気押されたように踵を鳴らし、幾度か瞬きを繰り返した。
「人の一生は、不幸によって彩られる。幸福とは、ただの幸運に過ぎません。境遇に恵まれず、泣きながら死した赤子がどれほどいたでしょう。環境に恵まれず、泥を啜りながら生きる人々がどれほどいたでしょう。才能に恵まれず、踏み潰された方がどれほどいたでしょう。
貴方が幸福になれないのは、貴方の責任ではありません。貴方が不幸になってしまったのは、貴方が恵まれなかっただけ。決して、貴方は悪くない」
思わず、身が震える。恐ろしい事だった。カサンドラの言葉は、耳聞こえが良いだけの甘言とも言える。人を堕落させるための妄言とも考えられる。
しかし、だというのに。カサンドラの瞳は何一つ彼女が嘘をついていない事を告げている。彼女は、どこまでも本心でこれを語っている。
「わたくしは聖女カサンドラ。さぁ――貴方の願いを、叶えましょう。誰の為でもなく、貴方の救済の為に」
視界がブレる。カサンドラの言葉が沁みつくように心に絡みついてくる。これは、俺の感情ではない。シヴィリィの感情そのものだ。
元来、救済とは平等ではない。この世が有限である限り、救われる者と救われない者が現れるのは当然だ。特定の誰かを救う事は、他の誰かを救わない事。ある側面から見れば、救済とは差別を意味すると言っても良いかもしれない。
他の誰かは手を差し伸べられるのに、自分には与えられない。
他の誰かは認められているのに、自分は上手くいかない。
それら一切の悲しみに寄り添うように、カサンドラは言うのだ。
「貴方の願いを、聞かせてくださる?」
蕩ける笑顔を浮かべたカサンドラを見て、思う。
かつて彼女と不死の軍団が地上に顕現した時、その為に世界が滅びかけたと聞く。それを俺は、不死の軍団が大陸を跋扈したためだと理解していた。
けれど、違った。
滅びは彼女、カサンドラそのものだ。彼女の有り余る救済と慈愛は、万民を引きずり込んで自らのものとする。きっとあの魔女と巨人の有様すらも、彼女の救済の果て。
シヴィリィががちりと歯を何度も嚙んだのが分かった。彼女が何と答えるのか、全く予想がつかなかった。その感情は、混沌としながら嗚咽を吐いている。
金髪が、傾いた。
「……聞かせて欲しい事があるの。ここから遠くない街で、エウレアと巨人のガリウスに会ったわ。二人とも。ううん、それ以外の人も皆ずっとずっと戦争をしてるって言ってた」
「覚えております。お二人とも、私に願われた方たちですもの。他の方も、皆一緒に」
カサンドラは身体と比べて大きな椅子に座ったまま、とても悲し気な表情を浮かべる。はたと見ただけで、周囲の人間が立ち竦んで涙を零してしまいそうな魅力があった。
「戦い、戦い。戦い続けたいと願われたのです。例え、信頼し愛し合う者達と殺し合う事になったとしても。それがあの方達の幸福だったのだから――」
「――違うッ! そんな事はない!」
シヴィリィが、両腕を強く握りしめながら叫ぶように言った。身体の中の魔力は枯れ切り、立っているだけでやっとだろうに。彼女は毅然と刺し貫く様子でカサンドラに紅蓮を向けた。
「少なくとも、エウレアはそう。戦争がしたいんじゃなかった。殺し合いがしたいんじゃなかった!」
――私も彼も皆も、嬉しかったわ。戦えば戦うだけ、皆が私達を認めてくれる。
――嫌われ者の私達に許された幸せなんて、これしかなかったんだもの。
「皆、認められたかっただけよ。そりゃあ、どうしようもならない事だってあるわ。英雄になりたくても、なれないことはある。欲しいものが手に入らない事だってある。でも、それでも。幸せを見つけることは出来る。
――永遠に死にながら殺し合うのが、家族と友人を憎悪しながら戦い続けるのが救いだなんて、絶対に違うッ!」
シヴィリィが、咆哮するように言った。聖殿に、彼女の声だけが響き渡っていた。
ゆっくりと響き渡るシヴィリィの声を受けて、カサンドラが瞳を一つ大きくする。
そうして蕩ける笑みを浮かべながら、言うのだ。
「――他の幸せの形もある。それは今が幸せな者のみが語る言葉ではないの?」




