第三十八話『美しい人』
『大陸食らい』が墜落する。『破壊』は彼の翼の一部を食い尽くした。片翼の一部を失って、飛ぶことが適う鳥はいない。むしろ身体が巨大であるからこそ、翼は常に万全でなくてはならない。
本来なら自己回復程度出来るだろうが、『破壊』で失われた箇所はそう再生などしない。魔導を用いるために必ずあいつは着陸する。
その時点で、奴は凡百の魔物と肩を並べるのだ。俺もよく経験した事だが、何故宙を駆ける魔物が他より圧倒的に脅威なのかと言えば。それは奴らに攻撃が届かないからでしかない。
そうして地に堕ちた鳥は、常に地上の生物の獲物だ。それでも奴なら、ただの人間の攻撃は殆ど意に介さないだろうが。
「魔導――付与『巨躯の剛力』ッ!」
巨人の如き一撃なら、そうはいくまい。
ノーラが飛び跳ねるように接敵し、ククリナイフをびゅぅと勢いをつけて振るう。音が唸り、剛力が風を斬る。たったの十秒だが、ノーラは同族と同じだけの力を手に入れた。
シヴィリィによって傷つけられたのと逆側の片翼を、ノーラの二振りのククリナイフが斬り落とす。大翼を構成する翼膜と、骨が押し切られた。魔物特有の黒い血が、華々しく吹き上がる。
「――ッ、小癪な人間どもが。愚かな巨人の技を使いよるか」
『大陸食らい』は、両翼に傷を負いながらも大嘴を開く。ぎょろりとした瞳が見開き、敵対する人類種を睨みつけている。その威容は禍々しく、地に堕ちて尚衰えない。
「う、っそ!?」
身体を唸らせれば、それだけでノーラが軽く弾き飛ばされる。頬を走る空気は、彼の身体そのものが凶器であるのを告げていた。
肩を上下させるシヴィリィと周囲に向けて、言った。
「怯むなよ。魔力が多かろうが、心臓か首を落とされれば死ぬ。苦しんで嗚咽を吐きながら死ぬ。レベルなんてただの度合いだ。あった方が有利だが、無けりゃ無いだけの戦いをすればいい」
言った瞬間、背後から放たれたクロスボウの矢が『大陸食らい』の瞳に突き刺さる。
大嘴から暴声が響く。周囲を呪いつくすような声。
巨大な瞳はむしろ良い的だ。皮膚は強靭であっても、瞳を固くする事は難しい。
よろしい。素晴らしい。皆やれば出来るんじゃあないか。ココノツが消えてしまったが、仕方ない。あいつには逃げろと言ったのだ。
「シヴィリィ、目を背けるなよ。あいつも機会を狙ってる。相手は幾らでも形勢を逆転できる。その前にねじ伏せろ。相手の出鼻を挫け」
シヴィリィは瞳を見開いたまま頷いた。唇が跳ねるように動く。
「分かってるわ。任せておいて」
血と泥塗れになって言うには格好のつかない台詞だったが。まぁ、構わない。それもまた彼女らしいといえばらしい。
呼吸だけは、もう整っていた。
「引き付けて、引き付けて、殺すんでしょう」
霊体のまま鼻を鳴らす。頬を上げて、その視線の先を共に見た。憶病者が言うようになったじゃあないか。
後は、一瞬『大陸食らい』を上回れるかどうか。両者は、もう間合いだった。
空気が緊迫し、互いに機を探っていた。
心臓の鳴る音が共鳴する。呼吸が、『大陸食らい』と合致する。
一瞬の狭間、奴が大嘴を開いた。魔力の暴威が垣間見える。
「終わるがいいわ。魔導――炎技『業火熱風』」
暴風が、業炎を纏いながら狂いをあげる。先ほどの暴風のように、周囲を巻き込み続けるものではない。ただ目の前の存在を焼き殺し、弾けさせるための凝縮された魔導。
流石魔力をため込んでいただけの事はある。もはや極光に等しい炎の渦は、シヴィリィの身体を骨も残さず焼き尽くすだろう。魔導の音色が、華麗な旋律を奏でている。
どうやら、地に落ちた事で覚悟を決めてしまったらしい。油断も侮りもない、至高の一撃がそこにある。
「――お前も覚悟を決めろよシヴィリィ。これはお前が選んだ戦いなんだ。お前が決着をつけろ。今だけは自分こそが頂点だと傲慢になってみせろ」
それは、もうオークの時のような真似を俺はしないという意味だった。
シヴィリィが俺に助けて欲しいのではなく力を得たいのなら。自分で一線を乗り越えなくてはならない。誇り高くありたいのであれば、勝利の美酒も、敗北の苦渋も全て自分で呑み込む覚悟をしなくてはならない。
その結果がどれほど無残であったとしても、受け入れて胸を張る事こそがこの世の全てだ。理想を叶えるためにはそうあらねばならない。
シヴィリィは俺の言葉に頷いて、指先を震わせながら胸を張る。
「勿論よ。――私を誰だと思っているの。貴方の教え子なんだから」
きっとそれが、彼女の最大の強がりの言葉だったのだ。自信なんてまるで無く、それでも歯を震わせて言って見せた。
『大陸食らい』の魔力の凝縮が、終わる。業火が来る、来る、来る。
俺もまた覚悟を決めた。もしこれでシヴィリィが死んでしまったのなら、それはもう仕方がない。彼女が覚悟をしたのなら、俺は受け入れよう。契約済みの俺もまた魔力を失い消えるだろう。到底合理とは言えないが、そんな気分になっていた。
シヴィリィは頬が熱に焼かれても、瞳を閉じず呪文も詠唱しなかった。喉を焼かれる痛みは呼吸すら許されなくなる。それでも尚唱えない。
――今だ。炎はもう間近にあり、彼女の首に手を掛けている。ここしかないというタイミング。
だが、それでも彼女は唇を閉じたまま。何も、言わない。炎は、更に近づいてくる。
「――」
吐息を漏らす。何をしている、とは言わない。ただ、駄目だったかと思っただけだった。発声機能をやられたか。それとも、最後の最後でタイミングを逸したか。
少なくとも、俺が思う機は過ぎてしまった。
今の彼女の技量では、それでも勝利に届くかは分からなかったが。
機会を逸した今、もはやその先にあるのは――。視界の内側に、彼女の最期が見えていた。
シヴィリィの聴覚が失われてしまう前に口を開こうとした。同時だ。彼女の唇が先に開いた。
「魔導――付与『破壊』」
遅い。遅すぎる。呪文が炎を壊しつくす前に、シヴィリィが死んでしまうタイミングだ。
しかし同時に、耳を疑った。シヴィリィが唱えたソレは。俺が彼女に教えたものではなく。
思い出した。かつて、それこそ俺が使っていた魔導――。何故それを、彼女が。問いかける暇もない。彼女の左腕が黒く変色し、魔導を漲らせる。破壊の音色を含んだ左腕。
「――ッ、ァ、ガァアアアア゛ッ!」
シヴィリィが、破壊そのものと化した腕を振るい上げ、業火に向けて振り下ろした。腕は、触れるものを有象無象の区別なく、破壊し続ける。一直線に、『破壊』が閃光となって輝き、業火を破壊し尽くしていく。
かつての戦争時に幾度もみた光景だった。
魔物との戦争時、人類は魔導こそ用いていたが、レベルは魔物と比べれば圧倒的に貧弱だ。強大な魔力で守られた魔物の皮膚は、当時の人類の魔力では貫通しきれなかった。
そういった固さや防壁を破壊する為に生み出した『破壊』も、距離を開ければその威力を低減していく。
はっきりと追い詰められていく中で、戦時だからこそ産み落とされた狂った魔導論理があった。
――離れれば威力が弱まるのであれば。それこそ零距離で撃てば良いのですな。その為には、射出用の魔導を身体に宿すのが最も良いのです。
一切の低減なく伝えられる『破壊』は、強靭な魔物を悉く破壊した。しかしそれは同時に、破壊そのものを自分の身体に入れるという事で。
「シヴィリィッ!」
何故俺すら記憶を失っていた魔導理論をシヴィリィが知っている。自分で生み出した? それとも俺の記憶が混じったか? だがそれなら、その理論がイカれている事も分かっているはず。
だと、いうのに。こいつは、頭のネジがないのか? 合理性を知らないのか?
「――ァァアアアッ゛」
シヴィリィは左腕を存分に振るって、右腕はそのまま焼かれながら、業火の海を壊していた。
そうして最後に、もう一つ振り払い。それを壊しきる。
「――馬鹿な。何故愚かな貴様らが、それを」
その呟きを漏らしたのは、俺ではなく『大陸食らい』だった。残った片目が瞠目し、痙攣するように戦慄いている。
当然だろう。渾身の魔導を防がれたのだ。その上シヴィリィは肌を焼かれながらも、立っていた。
「私も。あの人たちも、愚かなんかじゃない。ふざけるな」
シヴィリィは、業火の海の果てに『大陸食らい』に接敵して言った。腕がもう振るわれている。
何て無茶、何て無謀。
俺の思想とは全く相いれない、合理性の欠片もない。
以前の俺なら、一笑に付していた光景だ。
しかし俺はその姿をあろうことか――美しいと、思ってしまった。
「愚か者よ。貴様ら人類も、魔女も、巨人も! 最初から騙されていたのも知らずにな!」
「その愚か者に貴方は殺されるのよ。ざまぁ見ろッ!」
破壊に塗れた左腕をシヴィリィが掲げる。左腕は、魔力によって黒く変色しきっていた。
しかしもう、魔力が無い。業火の海を突き破っただけで、彼女は十分困難を踏破しきったのだ。魔力は彼女から力を失わせ、前に進む事すらできなくなる。途端に身体が硬直したかのようだった。
シヴィリィが眼を見開く。倒れ伏してしまわなかったのが奇跡だ。
「――やはり、愚かよ」
『大陸食らい』もまた魔力を浪費し、疲弊しながらも、再び大嘴を開いた。残存魔力を、シヴィリィを殺す為に集約し――。
刹那、彼の首を何かが勢いよく穿った。
「が、ぁ!?」
彼が残った巨大な瞳が見開き、嗚咽をあげる。黒血が噴き出し、魔力がそこから吐き出されていく。
「な、ぁ、ぁッ!?」
気配もなく、姿も見えない。けれどそれは確かに『大陸食らい』の首を刺し貫き、そうしてそのまま槍で肉を屠った。
魔力が、霧散していく。炎が失われ、再び射出されたクロスボウの矢が残った瞳に突き刺さる。
「ふざける、な。我が、このような……。このような場所で、貴様ら如きにッ!? 我を、誰だと……!」
嗚咽をあげる。まだ死なない。まだ死んでいない。しかし次には魔力を再び蓄えた断頭台が、来た。
「――『巨躯の剛力』」
断末魔が響き渡る。
『大陸食らい』の首は、彼が愚かだと罵った巨人の力の一端で、断ち切られた。
黒血が盛大に吐き出され。炯々とした輝きすら放ちながら、化け物は死んでいく。
シヴィリィが茫然とその場に立ち竦み、今魔物の首を断ち切ったノーラすら、目を瞬かせていた。ただ一人だけ、あっけらかんと声を出す奴がいた。
「いやぁ」
ココノツは姿を現しながら、『大陸食らい』から槍を引き抜いて言う。
「どうであります。槍一本分の働きはしたでありましょう!」
胸を張って堂々と、シヴィリィに笑いかけていた。一瞬の後、弛緩した吐息がシヴィリィから漏れ出る。
その合間も、数秒が経っても、大鳥『大陸食らい』はもう動かない。
紛い物でない勝利が、そこにあった。




