第三十七話『今を抗え』
手袋が指先に吸い付く。魔力が全身を循環する。シヴィリィは目元を上げて中空を見た。
化物がそこにいる。『大陸食らい』と語られる大鳥は、嘴だけでシヴィリィの体長ほどの大きさを持っていた。その視線は酷く昏い。
ゴブリンやコボルドのような性急さが無かった。オークのような果敢さも無い。ただ冷徹に、獲物を見下ろす目。瞳が確かな知識の色合いを有していた。
瞳がシヴィリィを見下して語っている。小娘が、何をする気なのだと。
シヴィリィが指を構える。頬を歪めるようにして歯を鳴らす。黒と紅の魔術服が、スカートをはためかしながら空気を呑み込んだ。
思う。
――よくも、上段から私を見下したな。
確かに敵は圧倒的に格上だ。無謀だろう。愚か者に見えるだろう。しかし、そうだったとしても。
報復して、見返してやる。絶対に。
熱された泥のような血液が、シヴィリィの紅眼へ注がれる。
「シヴィリィ。魔導の無駄撃ちはするなよ。魔力は極力抑えて、後に残せ。下手に警戒されすぎればあいつも全力を出してくる。それは神殿の前まで取っておくんだ。今撃ってもまぁ当たらない。大丈夫、必ずあいつが動きを止める時が来る」
エレクが囁く言葉に、シヴィリィはすぐ頷いた。よくよく理解していた事だからだ。
人間だって同じだ。例え剣を持っていても、相手を甘く見れば靴で蹴り上げるか、拳で弄ぶか。態々手入れが必要になる武器を抜く事はない。甘くみせる事なら、シヴィリィは大得意だった。
『大陸食らい』が、大きな翼をゆるりと跳ねさせ、勢いをつけて振るう。彼の身から僅かに魔力が漏れ出し、空が暴風を形作って唸りをあげた。
「見計らえよ。引き付けてから壊す。全てに通じるやり方だ。目を絶対に閉じるな」
シヴィリィは指に魔力を集中させながら、構えて喉を鳴らす。瞳を見開いたまま、瞬き一つをしなかった。喉に強風が突きあたる。纏めたはずの髪の毛が跳ね飛び、肩口が真空の刃に斬り払われた。血が大いに噴き出す。
「まだだ、待て」
指先は震えてはいなかった。ただ何時その時が来てもいいように、瞳だけを強く見開く。頬が血を垂らしても、拭うことすら忘れている。
暴風の塊が周囲の木々をなぎ倒し、厳めしい音を響かせる。樹木が軋み、跳ね飛ぶ音。長年地面に住むついた根が狂いをあげてへし折れる音。これが、『大陸食らい』が数多の都市を沈めた鳴き声。
その音の合間に差し込むように、エレクが言った。
「まだだ。まだ――行け」
間髪無く、シヴィリィが指を鳴らす。
「魔導――秘奥『破壊』」
瞬間、暴風がひび割れる。硝子の如く、『破壊』は有象無象の区別をなく、一切合切を破壊する。
暴風が奇怪な悲鳴をあげ、その場で砕け散り周囲に土煙と木々の欠片を弾き飛ばす。それらはシヴィリィの身体に幾つかの傷を作ったが、気に留める前に彼女は脚を駆けさせていた。
土煙は、今一瞬だけ造り上げた視界の壁。しかし敵はやろうと思えばすぐに再び暴風を発生させられるのだ。今はただ、相手に良いようにされながら逃げるのがシヴィリィの役割だった。
「良いぞ。あいつ間を取りやがった。焦り過ぎるな、狙い打つ時は必ず止まれよ」
「え、え。分かったわッ!」
返事をして逃走しながら、シヴィリィは頬を揺らめかせる。
苦しくはあるが、怖さは無かった。いいやむしろ、思い浮かんでくるのは全く別のもの。不意に、視界が揺れ動く。
――瞳の中、時折自分が知らない視界と記憶が映り込んでくる。その視界の主も、また自分と同じような道を走っていた。
それが誰の視界か。問いかける必要もない。こうなったのは、エレクと出会ってからだ。
彼は魂で自分は肉体だから、もしかすると肉体的な記憶は自分に受け継がされているのかもしれないとシヴィリィは思っていた。
その視界、その記憶はいつもぼんやりとしているけれど、浮かび上がってくるのはシヴィリィが同じ経験をしていた時だけだ。エレクにも、こんな風に走って逃げ回った事があるのだろうか。
「シヴィリィッ!」
エレクに呼ばれて、ふっと自らの視界を取り戻しシヴィリィは脚を止める。くるりと振り返り、今一度手を構えた。
暴風が迫ってくる。迫ってくる。迫ってくる。
しかし、そのタイミングはもう覚えた。エレクに教えられたことで、忘れた事はない。一つ、二つ、三つ。
「――『破壊』」
暴風の嵐が爆散するように弾け飛び、世界に砕け散って跳ね飛んでいく。片腕に枝の一本が鋭く突き刺さったが、シヴィリィは悲鳴をあげなかった。
だって少なくとも肉体に宿った記憶の中で、視界の中で。エレクは常に不敵な笑みすら浮かべていたのだ。泣き言など見た覚えがない。
だからシヴィリィも、肩を震わせる激痛に目元を歪めながら、ぎこちなく頬に笑みを浮かべる。
それに不覚な事に苦しくとも思ってしまうのだ。嬉しいと。
――今私は、困難に立ち向かうことが出来るのだから。
かつて、地面を這いつくばり立ち上がる事すら出来なかった時。何度思った事だろう。
冤罪をかけられた子供を助けてあげたかった。
虐められていた同胞に手を差し伸べてあげたかった。
きっと私に手を差し伸べてくれる人なんて誰もいないけれど、それでも、理不尽な不幸に手を差し伸べられる人間になりたかった。
だから、痛みが何なのだ。苦しみが何なのだ。戦えない事が、どれほど口惜しいか。立ち上がれない事が、どれほど自分を傷つける事か。
「ッ――『破壊』!」
破壊の渦が、暴風を三度屈服させる。直撃を受けていないだけで、シヴィリィは全く無事とは言い難い有様だった。
擦り傷は至る所に出来ていたし、片腕は痛み以上に痺れを覚え始めている。けれどその紅眼だけが炯々と輝いている。立ち止まっている暇はないと、そう告げていた。
――それにきっと私は、エレクのようになりたいのだ。
今の自分は理不尽を壊す事も、抗う事も簡単には出来なくて。自分勝手に周囲を振り回す事しか出来ない。けれどエレクは違う。こんな化物鳥を相手に、立ち向かう勇気を奮い立たせてくれる。ココノツもノーラも、リカルダだってそれに従った。
それを何と呼ぶのかは分からないけれど。彼のように、誰かを助け奮い立たせられる人になりたい。そんな想いが、シヴィリィの胸の内に宿っていた。
けれど、今の彼女はただ駆けるだけで満身創痍。遥かに格上の相手から、逃げ延びたとすら言い難い。命を賭けた行いに美しさは見えず、無様な戦いぶりと言える。いいや第六層に来た時から、彼女は必死に足掻き続けていただけだったのかもしれない。
けれど全てが無謀の極致であっても、それを踏破した先に見えるものはある。なら醜くとも、足掻くのだ。シヴィリィの視界の先に、壮大な神殿の一角が映っていた。
「よくやった、シヴィリィ。お前はよくやったぞ。――リカルダッ!」
足がもつれかけた先で、エレクが叫ぶように言った。
◇◆◇◆
『大陸食らい』と、そう呼ばれて随分と長い年月が経っていた。もはや元の名など覚えてもいない。それくらい遠くの出来事だった。
遠い出来事と言えば、今日の事もそう。時折分霊の視界を使って外で暴れ回る事もあったが、基本的に迷宮の中は退屈なばかりだった。
愚かな魔女と巨人が互いに殺し合いをしているのを見ているくらいしかやる事がない。
まぁ、かつて自分達を地の果てにまで追い詰めた彼の軍勢が、自滅を続ける姿を見るのは愉快でもあるのだが。
魔女侯と称された女も、将軍と呼ばれた巨人も、見る影もなく力を失った。あれほどの輝かしい連中が、生贄のように殺され続けている。
もはやこの第六層という一つの世界において、『大陸食らい』を追い詰める者は誰もいなかったと言って良い。無論、聖女を数えなければだが。
けれど今日、何故か神殿に近づく探索者共がいた。ここの所めっきり神殿に近寄る者などいなかったのに。
長きに渡り停滞を続けるこの世界での珍事に、思わず『大陸食らい』はにたりと笑った。
しかし、実物を見てみれば期待は落胆にすり替わる。精々ゴブリンやオーク如きと変わらぬ魔力しか持たない人類種達。これなら魔女や巨人の軍勢の方がまだ手ごわい。
抵抗こそしてくるようだが、どれほどまじまじと観察しても、こちらを狙い打てるような奴らには思えなかった。
「――カッカ」
一人の女が、見捨てられたのか取り残される。髪色が似ていても、アレとは似つかない愚図らしかった。
しかし、戯れに風を起こしてみれば魔力の扱い方を知っているのか何とか凌いでいる。これは予想外に面白かった。
どうせ死んでしまうのに、必死に抗いながら逃げ惑う姿は楽しい。暇つぶしに泳がせてみれば、よろめきながらも逃げていく。
しかし、その行先は聖女の神殿。思わず『大陸食らい』は嘲笑を漏らした。
結界は許された者以外全てを跳ねのける、もはや封印に近しい存在だ。そこに向かって逃げる事そのものが愚図だった。
「愚かよなぁ。人類種は愚かになったものよ」
どれだけ足掻きもがいても、その先が行き止まりと気づいていない。魔女と巨人と同じ愚かしさ。いずれ全て滅んでしまうのに、偽りの逃げ道に逃げ込み続けている。
だが、一時の玩具にはなった。ならばそれで十分だ。
後は燃やし尽くすだけ。森ごとあぶりだすように焼いてしまえば、奴の仲間も死ぬだろう。
『大陸食らい』は魔導を発揮せんと、翼を振るって地上に近づく。遠く離れてしまえば魔導の威力は下がる。もう相手の力量のおおよそは把握した、どうせなら戯れに骨も残さず殺してやろう。
嘴を醜く歪ませながら、大きく開く。
その、瞬間だった。
音が聞こえた。
「――ォォオオオッ!」
耳にしたは、巨人の大音声。神殿のすぐ傍から。
不味い。『大陸食らい』は咄嗟に瞠目して嘴を閉じる。
巨人と魔女は、聖女が魔力を吸い上げるための道具。それに手をつける事を彼は許されていない。だからこそ、退屈な日々を過ごしていたのだ。
神殿の近くに何故巨人が。まさか探索者に手を貸した? 馬鹿な。
一瞬の事だった。『大陸食らい』の意識から、完全にひ弱な探索者の事が消え去る。注目すべきはそんなものではなく、異常な巨人の存在だった。アレが聖女に歯向かったならば、それは見逃しがたい事だ。
それ故にただ一瞬だけ、動きが止まった。
――しかしそれは、彼女が狙いすますために作られた一瞬だ。
「待ってたわ。――『破壊』」
破壊の音色が、中空に漂った。




