第三十六話『困難の価値』
空を覆い尽くす大鳥を見て、俺は冷静に事態を把握していた。
長く伸びながら皺を見せる嘴は老齢と威厳を兼ね揃え、彼の実力を察し取らせる。魔物は本能的に、他者の魔力を食い物にする事を良しとする生物だ。ゆえに、願うにしろ願わないにしろ、その生涯は他者を貪るものになる。
そんな生涯だからこそ、多くの魔物は短命なのだ。
けれどこの大鳥は、『大陸食らい』と呼ばれた魔物は遥かな時を生きてきた事を全身で主張している。
保有する魔力量のレベルはオークの戦士を遥かに超えるだろう。
反面、こちらの戦力は斥候のココノツに、前衛のノーラ、後衛のリカルダ。誰もがレベル一桁の魔力保有量。魔力の面だけで言うならシヴィリィが最もマシだが、それでも『大陸食らい』には到底及ばない。
かつて数多の都市を壊滅させたその有様は、人間など寄せ付けぬ威容に満ち溢れている。
思わず霊体の態勢を変えて、それを睨みつける。
戦力は圧倒的に不利だ。それにシヴィリィの用いれる魔導は相性が悪い。『破壊』は距離が離れれば離れるほど、その効果を摩耗していく。宙を飛ぶ相手には意味が薄かった。
では、どうすべきか。尻尾を巻いて逃げ出すか。それとも、他の手段を取らせるか。一瞬で考えて、結論を出した。
「シヴィリィ」
「……ええ。これ、どうしましょう」
結論は明瞭だ。口を開く。
「こいつが聖女の番鳥なら丁度良い。聖女に繋がる可能性もある。殺すぞ。お前が、お前らが殺すんだ」
「……私達で、ね」
驚愕で目を開いた様にシヴィリィが俺を見た。何だ、俺がやると言いだすとでも思っていたのか。何度も言っているが、俺が彼女の身体を使って暴れ回ればそれだけで魔力を浪費するんだ。ただでさえ魔力を温存したい時に、そんな真似ばかりしていたら非効率極まりない。
それに彼女は自分の足で踏み出す事を選択したのだ。この第六層に踏み入って、それはより顕著になった。
俺はその精神を素晴らしいと思う。感服する。尊敬しよう。
だからこそ彼女は、その困難を悉く自らの脚で踏みつけにしなければならない。理不尽を殺しつくす為に。尊厳を取り戻す為にだ。
俺の存在など、所詮は彼女にとっての補助具に過ぎない。俺が俺の為に戦うように、彼女は彼女の為に戦わねばならないのだ。
勿論、やり方は教えよう。必要なものも、俺が知る術も。しかし最後は彼女の意志一つ。シヴィリィの紅蓮の瞳を見る。その瞳の奥が煌めいていた。
「――分かったわ。やるわよ、やってやるわよッ」
手袋を長い指で伸ばし、呼吸を整えてシヴィリィは言った。
素晴らしい。彼女はやはり、戦いに向かないようで向いている。この世には性質上戦うのに向かない奴がいるが、彼女はそうではなかった。
数秒だけ、シヴィリィの身体を借りる。ココノツには俺の声が届かないのだから、言葉を届かせるにはこうするしかない。
「ココノツ」
「ぴぎゃっ!? な、なんでありましょう!? シ、シヴィリィ殿……?」
ココノツは『大陸食らい』の威容に圧倒されるように数秒目を瞬かせていた。が、声をかければすぐに正気を取り戻す辺り反応は悪くない。
まだ『大陸食らい』はこちらの様子を見ていた。魔力の量は分かっていても、ただ口を開けば良い相手なのか、警戒に値するのかを値踏みしている。アークスライムの時と同じだ。知恵を持つ魔物特有の動きだった。
「神殿に向かって一直線に逃げろ。お前が逃走経路を確保するんだ。斥候の得意分野だろう。安心しろ、俺が見る限りお前は十分に一流だ。だが森に入るなよ。森ごと焼かれるぞ」
「え、ぁ……え。は、はぃ!?」
シヴィリィの金髪を揺蕩わせ、紅の眼を見開く。ココノツは一瞬こそ動揺したようだったが、すぐに駆けだす。今が問答をしている時でないと知っているのだ。
次にリカルダを見た。
「リカルダ。一本、クロスボウを撃ってくれ。こいつは頭が良い。獲物が抵抗してくると分かれば一度は距離を取るはずだ。その間に神殿に向け逃げる。戦うのはそれからだ」
何にしろ、今この場でシヴィリィがコレと戦うのには魔力が足りなさすぎる。コレを貫通するほどの魔力。コレを射ち落とすほどの魔力をシヴィリィは持っていない。
「――本当に、戦われるので?」
「勿論。ありとあらゆる困難は、踏破されるために現れる。それを踏破するのは自分か、それとも他の誰かかという違いだけだ。お前は端から見ているだけかリカルダ?」
指先に強い力が宿る気がした。かつて俺はずっと、こんな事ばかりをしていたものだから。少し勘が戻ってきているのかもしれない。
リカルダが矢を装填するまでの間に、ノーラへあわせて視線を向ける。彼女もまた、立ち竦んでいる様子だった。リカルダ同様、迷いを消せていないのだ。
そうか。傭兵だからこそなのかもしれないが、彼と彼女とは圧倒的な強敵に打ち勝った事がない。立ち向かった事がないのだ。
頬を上げる。ノーラの根本はおおよそ分かっている。そうしてリカルダも、今ので分かった。
俺は説得は苦手だ。共感も同情も俺には欠けている。けれど交渉と、人をただ動かすだけならどうすれば良いかはよく知っていた。いいや誰よりも知っている。
記憶の奥がぐるりと渦巻いた。
「良い条件をやろう。お前ら、レベルが上がらないとか言ってただろう。少し調べてみたんだが。――こいつを殺せばそこの所の仕組みが一つ分かるかもしれない。言わばお前らの道のりに堂々と居座ってやがるのがこいつというわけだ。どうだ、少しはやる気になったか?」
窮地で人を突き動かすものは、時に情熱かもしれない、時に意志かもしれない。けれど確実なのは、その人間に対して魅力的なものを突き付けてやる事だ。窮地において差し出される望外の報酬は、人間に生み出した事もない勇敢さを起こさせる。
それに言った事も、確実ではないが嘘ではない。ノーラやリカルダを観察した上で、レベルの上限を解いてやるには幾つかの道筋が見えていた。その為には格上との戦闘は必須だ。
「――了解しました」
俺の言葉に食いつくのはノーラが先だと思っていたのだが、意外にも先に頷いたのはリカルダだった。彼は装填した矢を宙に向かって打ち放ち、慣れた手つきで矢を再装填し始める。
『大陸食らい』に矢は当たりはしなかったが、ぶわりと両翼を跳ねさせて奴が距離を取る。ぎょろりと瞳が俺達を見据えていた。
「いや、一発で良い。ココノツの後を追ってくれ。ノーラ、お前はリカルダを補助して神殿に向かえ。器用なお前なら森から魔物が出てきても捌けるだろう」
「……分かった。それで、神殿まで行ってどうするのさ」
ノーラがリカルダと共に一歩を離れて頷く。指を鳴らし、シヴィリィに身体を返しながら言った。
「こいつのご主人様はどう考えても聖女だ。なら神殿に向けてブレスはそう吐けないし、結界があれば盾にして立ち回れる。力が足りないなら、他のものを使うのさ。――それから神殿についたら、先に一つ頼みたい」
ノーラに一つを含ませて言ってから、リカルダと共に先に行かせる。『大陸食らい』の視線が一瞬動いたが、それでもすぐにシヴィリィへと向き直った。
やはり。魔物は魔力に敏感だ。それゆえに、こいつが聖女の番鳥なのだとすると、最も警戒するのは魔力を一番持っているシヴィリィのはず。だからこそ、彼女には役割がある。
「……ねぇ、エレク。もしかしなくても」
「お前が、最後尾で逃げるんだシヴィリィ。お前が適任だからな」
「ああ、そうよね。そんな事だろうと思ってたわよ」
シヴィリィは唇を噛むように言いながら、それでも紅蓮の瞳を輝かせていた。
歯をがちりがちりと鳴らしながら、俺を真似るように頬を歪ませている。オークを追い詰めた、あの時のように。人に危険な目を遭わせるのは嫌いな癖に、自分がそれに遭えばあっさり死を覚悟してみせるその意志。
何故だろうな。崖っぷちに立った時だけこいつは、自信の無さが失われるらしい。誰よりも誇り高くなってみせる。
あの時俺はシヴィリィに死ぬような真似をするなと、そう言ったな。撤回しなくてはならない。そんな心配事は、彼女に失礼だ。彼女はもう探索者で、戦士なのだから。
だからかけるべき言葉は、別のものにした。
「レディ。きっと騎士の連中も、都市統括官の奴だって、お前が第六層で何かをしでかすなんて思ってないぜ。精々、苦し紛れに引っ掻き回してどこかで死ぬと思ってやがる。少し調べものでもしてくれば十分だ」
「――そんな時は、鼻っ柱をへし折ってやれば良いんでしょう?」
何という皮肉だろう。シヴィリィという儚さすら感じさせる少女は、苛烈な戦場にあって、夥しいほどの輝きを身に纏っていた。
「そうだ。何、何時も通りだシヴィリィ。どん底だったお前には、スライムもゴブリンも、コボルドもオークも全部格上だった。そいつらはもう倒しただろう。――今日も同じ事して、奴らの鼻を明かしてやれ」




