第三十二話『宣戦をここに』
「宜しかったのですか?」
従士エアストは夜も更けた邸宅の中、二人の客人を見送った後で自分の主人にそう問いかけた。
いいや客人というには、少々粗暴が過ぎただろうか。
金髪紅眼の属領民は、ある程度予想できたとはいえ大騎士教への敬意や信仰といったものを一切持っていなかった。主人である白騎士ヴィクトリア=ドミニティウスにすら、口調を正そうともしない。
調査の段階で彼女の異常性は察していたものの、あそこまで逸脱しているとは。
だというのに、主人であるヴィクトリアは属領民に幾つもの融通をしてみせた。粗暴な態度を問題とする事はなく、それ所かあちら側が欲しがっていたものまで――。
ヴィクトリアが寛大なのは承知の上だが、しかしここまで融通を見せたのは初めてではないだろうか。それに、そもそもの目的とも食い違う。
応接間のソファに座り込んだまま、ヴィクトリアはやや冷めたお茶に唇をつけてから言った。
「宜しいのですよ、エアスト。何時までも第六層で足踏みされるのは都合が悪い。あの方達には、もう少し奥を見て頂く必要があります」
「左様でしたか」
ヴィクトリアが言うのならば、エアストは反論をしない。彼女の言葉を跳ねのけるような権限はエアストにはなかった。
その代わり、彼女が飲み終えたカップを静かに回収しながら、では、と自分への命令の確認を行った。
「では、エアストに与えられておりました。――あの属領民を捕らえる命令はもう不要という事でしょうか?」
金髪紅眼。シヴィリィ、もしくはエレクと名乗るあの属領民が邸宅に来たならば、御帰り頂く必要はないと、エアストはそう命令を受けていた。
しかしいざその時になってみれば、ヴィクトリアは属領民と正市民の少女も含め、丁重に見送りするように改めてエアストに命じたのだ。
同行していた正市民の少女が問題だったのではないだろう。必要なら、高々一人の正市民の身柄を確保するくらい、四騎士なら容易いことだ。
秩序を是とするヴィクトリアが自身の命令を覆す事は珍しい。だからこそエアストは念を入れるように問いかけた。彼女の主人は、頬に見た者が冷たくなるような、鋭利な笑みを浮かべてから言う。
「――いいえ。調査も、監視も続けなさい。何時捕らえるかは、別に指示を出します」
「……かしこまりました」
エアストは丁重に返答をする。
ヴィクトリアの判断に誤りが起こる事はない。あの属領民が訪ねて来るであろう事も彼女の予想の範疇だった。とすると今日の邂逅で、今再び属領民を泳がせた方が良いという判断に至ったのだ。
だからこそ、第六層の情報すら与え無礼を許した。その理由までは分からないが、エアストにとっては重要な話ではない。必要なのは理由ではなく、ヴィクトリアの指示のみだ。疑問も、考慮もエアストには不要だった。
それにヴィクトリアが時々するぞっとするほどの美麗さと冷徹さを含んだあの横顔。あれは、彼女の血が目を開いている時の顔つきだ。
エアストも血を引き継ぐ者であるからこそ、一定の理解が出来る。
血を継承するとは、力と智恵を継承する事。自らの肉体を、臓器と血管から血液の為に作り直し、血の入れ物となるという事。聖別された血液は、時折生きるように自己を主張する。
エアストですら、時折全く見知らぬ情景を視界に映す事がある、身体が異様な反応を起こす事もあるのだ。
より濃く、そうして四騎士の血を継承したヴィクトリアはその記憶すら受け継いでいるのだとか。五百年前の魔導戦争から、今この時に至るまで。
「ねぇ、エアスト」
「はっ」
エアストはヴィクトリアの声に、頭を下げて応じる。次の命令を待つ、何時もの在り方だった。
「例えば、貴方が敬意を抱いていた人間がいたとします。その方が時を経て、全く違う姿で現れれば、貴方はどう思います?」
「……は?」
思わず、同じ言葉をエアストは繰り返してしまった。
ヴィクトリアとエアストとの間にある会話とは、命令とその確認、報告のみ。言っては何だが、目的の見えない雑談を交わす事は有り得ない。ヴィクトリアとエアストとの関係は、騎士と従士であり、絶対的な命令を通じてのみ関わり合う間柄だ。
このような質問は初めての事だった。エアストが戸惑いから言葉に詰まっていると、ヴィクトリアは更に言葉を重ねた。両手を開いて、宙を見上げている。
「強大で気高く、誰よりも鮮烈で手の届かなかった相手が。もし、自分の手が届くような所に来てしまえば。貴方はどうしますか?」
「……想像し難い事ですが。エアストにとって一度敬意を抱いた相手であれば、その敬意は消えないのではないでしょうか。少し、寂しい想いがあるかもしれませんが」
その回答に、ヴィクトリアは頬をつりあげて笑みを浮かべた。エアストはヴィクトリアが自分の忠誠を測っているのかと思ったが、どうもそうでもないらしい。
彼女の深い笑みが、何を意味しているのかエアストにすら想像がつかなかった。まるで遠い過去を瞳に映しているかのような表情。
「ふふ、けれどエアスト。甘美なものでもあるかもしれませんよ」
「甘美、ですか」
ヴィクトリアはエアストに頷いて、それ以上は言わなかった。薄緑の髪の毛がウェーブを描いて彼女に寄り添う。就寝間際だったというのに、気持ちが昂るかのように指先がくいと動いた。
血の記憶とこれからの事に、ヴィクトリアは想いを馳せていたのだ。
きっとあの方は、迷宮の奥へと更に踏み込むだろう。あの少女と共に、記憶を失ったまま。
そうして壁に突き当たるにしろ、より深部へ降りようとするにしろ。いずれ今日より更に、自分の手を借りようとする時が必ず来る。
何とも甘美ではないか。かつて私を歯牙にもかけなかった相手が、こちらの手を欲しているのだ。
ヴィクトリアは琥珀色の瞳を細くしながら、再び笑みを浮かべた。
――過去に貴方は勝利した。けれど、次に勝利するのは誰でしょうね。
それは甘美な復讐を心の奥底に思い描いているかのような、魔的な笑みだった。
◇◆◇◆
白騎士ヴィクトリアの邸宅から二つほど通りを離れた頃になって。ようやくノーラは呼吸を取り戻して息を吐いた。肩が大きく上下に揺れ動いている。
「……は、ぁ……いき、生きてる」
「そりゃそうだろ。殺されそうならとっとと逃げてるぜ」
「あのさぁ!? そういう事じゃなくてね!?」
ノーラが俺を睨みつけるようにしながら、頬を大いにひくつかせて眦をつりあげた。
どうやら彼女は怒っているらしい。しかし、そこの所の理由が俺にはよくわからない。人の感情の機微に聡いシヴィリィなら察し取る事も出来たのかもしれないが。
片手でノーラの肩を抑え込み、瞳を近づけて言う。
「良いじゃないか。収穫は大きかった。あいつらオレ達の事をとことんまで舐め腐ってるんだ。もし不満があるなら、反抗してみろとよ。まぁ、事実。オレもお前もあいつならねじ伏せられたんだろうが」
ヴィクトリアの琥珀色の双眸を思い返す。彼女は常に笑みを浮かべていたが、それがやけに挑発的だった。
流石にシヴィリィの身体を使っている以上過激な事はしなかったが。それでも、彼女が何を思っていたのかは分かった。
あいつはもしも俺があの場で挑発に乗って手を出せば、その場ですぐに抑え込める自信があったのだ。その自信も、当然のものと言える。
邸宅の方へと振り返り、鼻を鳴らした。ようやく魔力の残り香が、身体からしなくなっていた。
あの庭先からすら感じられていた、濃密な魔力。――あれは間違いなく、ヴィクトリアが発していたものを感じていたのだ。
ノーラやリカルダの魔力を推察出来たように、通常近づけばある程度の魔力量は推し量れるもの。しかしあの女は、館一つ、いいや都市の通りに入ってもその魔力の香りを残し続けていた。
「……というかさ。あの白騎士とどういう関係なわけ。普通白騎士と交流なんて無いでしょ。何、因縁でもあったの」
ノーラは全く気持ちの入っていない様子で言った。恐らくは彼女なりに場を和ませようとした軽口なのだろう。
「いいや、ただ教会で一度会っただけだ。何も関係ない。オレはあいつを知らないよ」
ただ明白なのは、彼女が敵という事だけだ。
この世界の秩序を肯定して、そうして作り出す側である彼女ら。今の俺達の味方とは到底言えまい。
迷宮にも迷宮の外にも、敵対勢力の多い事だ。ここまで敵だらけなのは何時以来だろうか。
指先から拳を握る。呼吸を整えた。かと言って、目を逸らせる問題ではない。かつて俺達が造り上げた世界は、五百年の間に儚く崩れ落ちてしまった。
多くの記憶は失われ、多くの事を忘れてしまったけれど。あの日思い描いた夢だけは、今も忘れていない。それが今日この日に失われているのならば、俺は再び戦わなくてはならない。
それが俺の、生きる意味だったのだから。
これより正しく、迷宮を通じた戦争を始めるのだ。こちらの味方は、たった数名だけだが。何、戦争には慣れている。
「必要なものはもう貰った、一先ずはこれで良い。それでノーラ、オレ達は明日からも第六層に潜るが」
夜も遅いが、今から寝れば朝から再び挑戦できるだろう。もう足踏みをしている状況ではなくなった。ノーラを見て、改めて問う。
「――お前は、オレ達のギルドに入るのか」
ノーラは一瞬目を開いて。苦笑をするように応じる。くつくつと喉を鳴らす様子は、とてもおかしいものを見ているとでも言うようだった。
「相変わらず自信満々なんだね。ギルドが出来るのは絶対なんだ。
でも……それはシヴィリィに答えようかな。最初に僕を勧誘してくれたのは、君じゃなくてシヴィリィだからね。筋が通らない事は嫌いなんだ」
「そうだな。そうしてくれ」
ここで断ると言わない以上、その回答は決まったようなものだったが。
しかしこれはノーラがシヴィリィに対して、一定の敬意を払っている証左でもある。ならばそれは、無視すべきではないだろう。
結局、思わぬ方向に物事が転がったものだと思った。俺ならノーラが離脱すると言うのなら、それをそのまま受け入れてしまっていただろう。彼女が抱えたものも、世界がどういったものであったかも知らないまま。それで良いと思って見送った。
そうしなかった結果、また別の道筋が俺の目の前に浮かんできている。
非合理的で、上手いやり方とは言えないのかもしれないが。シヴィリィが指し示す先も、悪くはないのかもしれなかった。うん。俺らしい結論ではないが、これはこれで悪くない。
夜の街を歩く中で、頬を緩める。ふと、声がした。
『ええ。そうね、良かったわ』
シヴィリィの声だった。酒に酔って目を閉じてしまっていたはずだが。元から酒の眠りは浅いもの。案外、すぐに目が覚めてしまったらしい。
起きたのかと、そう返答をしようとした瞬間、畳みかけるようにシヴィリィが言う。
『ねぇ、エレク。――所でどうしてノーラと手を繋いでいるの? あんなに仲が悪かったのに』
ふと手元を見る。そういえばそもそも腕を引っ張られたり、ノーラが身体を固くしていたものだから。そのまま腕を引いて連れて来たのだった。
いやそれは、と言う暇もなく、更にシヴィリィが言う。
『それとどうして――あの女の人とまた会っていたの?』
おっと予想とかけ離れて大分早くから起きていたなこいつ。ヴィクトリアと出会っていたのも知っていたのか。
何であろう。何一つ負い目に感じる必要はないはずなのだが。とはいえシヴィリィの身体であの女に宣戦布告らしきものをしてしまったのは確かであって。それにノーラに対しても好きにものを言ってしまってはいるわけで。
何となく、言葉に詰まってしまった。
『エレク』
「……何かな」
シヴィリィの言葉が、奇妙な感情に震えている気がした。何せ身体自体は同じなものだから、その振動が俺にも伝わってくる。思わず唾を飲んだ。
『貴方もしかして私の身体で女の子口説いてる?』
「そんな事はしてない!?」
「えっ、誰と話してるの!? シヴィリィ!?」
第六層、再挑戦前夜。
シヴィリィへの説明にノーラと共に時間を費やす事になり、次の日は朝ではなく昼からの挑戦になった。決して、俺は悪い事をしたわけではないのだが。
おかしい。




