第三十一話『蛇の如き女』
邸宅の玄関に執事や門衛の者はいなかった。門を一つ越えてしまえば、驚くほどの人の目が存在しない。
やはりノーラが言った通り、四騎士の邸宅を襲撃したり侵入を試みたりするものがいないからなのだろう。
それとも――鼻を鳴らす、華の香りと共に漂ってくるもう一つの色合い。濃密な魔力の匂い。ただ濃いだけではない、臓腑まで入り込み血管に浸透しようかとするような重みがあった。
これに、通常の人間は追い散らされてしまうのだろうか。ノーラも少しばかり居心地が悪そうにしている。
けれど反面、俺は懐かしさすら感じていた。どこかで感じた事のある重みだ。やはり白騎士ヴィクトリア、正確にはその始祖と俺は、出会った事があるのだろうか。
装飾のちりばめられた厚い扉を押し開くと、すらりと背の高い女が立っていた。慇懃に頭を下げながら静かに彼女が言う。長くした紫色の髪の毛がぱさりと垂れた。
「お待ちしておりました。お客様」
女は執事やメイドといった服装ではなかった。むしろ武装こそしていないものの、何時でも鎧を身に纏って出向いて行けるような簡素な服装だ。
内部は目が眩むほどに明るい。よほど良い魔力灯を使っているのだろう。ロビーは驚くほど広々としていた。
「……うわぁ」
ノーラが息を飲む様子で言った。
邸宅の内部は、『鳥』に満ち溢れいてた。
大きな翼を重ね合わせ天を向いた鳥の剥製。八枚の翼を有して宙を駆ける鳥型の生物の彫像。嘴を開きながら翼を崩れさせた天鳥の絵画。
材質やテーマ、様式は異なるが、ありとあらゆる鳥がそこには収められている。鳥型の魔物の剥製は、きっと白騎士ヴィクトリアが打ち果たした敵なのだろう。
多種多様な鳥が存在するというのに、それらは一定の秩序をもって配置されている。ふと見ればこちらを威嚇するように、ふと見ればこちらを歓迎するように。
何故、ロビーがこんな有様なのだろう。美術というには少々度が過ぎている。個人の趣味ならともかく、貴人を迎え入れるのに相応しいかと言われれば首を傾げざるをえない。
「――ッ! ……お二人でのお出ででしたか」
紫髪の女は、その端正な顔つきを一瞬驚愕に歪めてノーラを見た。門番からは、俺の名前しか告げられなかったのだろうか。
数秒、彼女の瞳がノーラを見ていたが、すぐに踵を返して館内を案内するように手を開いた。
「失礼を。私は白騎士様の従士を務めております。名前はございません。こちらへどうぞ」
「従士?」
淡々と、最低限の事を告げて彼女は館の中へ俺達を案内した。
背後からノーラが耳元に口を近づけて言う。
「従士ってのは、四騎士に従う傍仕えだよ。言っておくけど、僕なんかよりよっぽどレベルも高いよ。彼らもずっと血統を受け継いでいるはずだから」
血統。この時代でよく聞く言葉だ。四騎士は勿論、彼女らに付き従う従士もまたその血に連なるものだというわけか。
「しかし名前が無いってのはどういう――?」
「私達は、騎士様方にお仕えする役割であり、重要なのはその役割そのものです。個人はさして重要ではありません」
従士の女は振り向かずに、平坦な声で告げる。
「ゆえに名前は不要なのです。不便でしたら、一番目とお呼びください。皆さまからは、そのように呼ばれております」
「……変わってる奴らだ」
第六層の魔女や巨人の世界も不明な点は多かったが。騎士達の世界も今一分からない。まぁ同じ思想の連中が集まり続けると、思想が先鋭化し続けるのは世の常だが。これもまた同じ類のものだろうか。
通されたのは、応接間と思しき一室だった。思しきと言ったのは、俺とシヴィリィが借りている部屋より明らかに広く、ソファや装飾品も贅沢に拵えられたものだったからだが。
驚くほど柔らかなソファに俺とノーラを座らせて、エアストは立ったまま言う。
「暫しお待ちください。白騎士様は、就寝間際だったものですから」
「え……嘘でしょ。ほ、本人が来るの?」
「そりゃ本人じゃなきゃ話にならないだろ」
ノーラが傍らで目を見開いた。貴人の家に通された時、本人ではなく代理の者が出て来るのはよくある事らしい。今までも十分かちこちと固くなっていたノーラだが、余計に背筋をこり固めた様子が見える。
彼女の瞳がぎろりと俺を向く。
「あのね。分かるかな。四騎士に会えるのって普通有り得ないから。パレードとか凱旋式で見るのがやっとなんだよ。僕らなんてすぐ牢獄送りに出来る相手だからね?」
「ご安心を。白騎士様は慈悲深いお方です。余程の粗相がなければ問題はございません」
エアストがこほん、と喉を一度鳴らし。立ったまま俺達に向け言う。
「失礼ですが、先にご用件をお伺いしても? 私で分かる事であれば事前にお答え致します」
「ええ、と。それは……」
ノーラが言葉に詰まってしまったので、率直に俺の方から言う。
「行ってみたんだが、迷宮の第六層は随分変わった世界だろう。この前の詫び替わりに、そこの情報が欲しい。後、そうだな」
唇に指を置いて、一拍を置いてから告げた。
「色々と、オレ達に生きづらい世界だ。統治する側がどう思ってるのか文句を言いに来たくらいか? どうだノーラ。他にあるか?」
「ぶっ!?」
ノーラが隣で噴き出しながら、前のめりになって俺の首筋を掴んでくる。ふるふると手元が震えながら、目元を大きく歪ませて頬がひくついていた。
ノーラはずっと泰然とした態度をとる事が多かったが、何だ急に面白い奴になったな。
「君、もしかして僕と心中しようとしてる? 流石にもうちょっと手段を考えてくれない?」
「どうやってオレはもう一回死ぬんだ?」
がんがんと俺の首を勢いよく振り回すノーラを後目に、こほんと、エアストが言った。
門番と同じく、直立した態勢が殆ど変わらない。しかしまだやや人間味は残っている辺り、彼らほど不気味ではなかった。
「第六層の情報については、申し訳ありませんが私の権限ではお答えできません。二つ目につきましては、全てを見る者と、一つしか見ない者の違いというべきでしょう」
「……統治者と市民では見えるものが違うって言いたいのか?」
「仰る通りです」
エアストの話し方と所作は慇懃だ。俺が見る限り、属領民に対するものとしては最も礼を尽くしていると言えるかもしれない。
しかし、それは決して人間扱いではなかった。きっとそれは、属領民だからとか正市民だからとかそういう区切りではないのだろう。
エアストは、最初から人を見て話しをしていないのだ。
「この大地は大騎士教と四騎士様を旗とし、各国の統治を任じられた公主が統治しております。そうして万民が平穏に暮らせるために、秩序と法を定められている。一部その法を窮屈と思う者もいるでしょう。
しかし、秩序と法があるからこそ我々は魔物や獣のように無暗に殺し合う事をしない。この秩序こそが、世界を保っているのです」
ふむ、とひじ掛けに肘を突いて、頬を支えながら応じる。
「聞いた話なんだが。地位や血統で魔導の制限をして、職業や生き方も管理されてるらしいじゃないか。それも必要な事だって? 理想も追えなそうだがな」
エアストは間髪を入れずに頷いた。
「はい。万民に力がどうして必要でしょうか。血統を継いだ者による永久統治こそ、万民の平穏のためと大騎士教は唱えています。皆が理想を追い求める事が、万民の平和を崩すかもしれないのですよ」
「……なるほど、なるほど」
そういう思想か。
二度、頷く。ノーラがぴくりと肩を跳ねさせていたのが分かった。彼女が何も言わない所を見るに、大騎士教の教えに準じた言葉であるのは間違いないのだろう。
秩序と法による民衆の管理。力を制限する事による、永久統治の実現。それが彼らの柱か。
「ご納得を頂けましたか?」
エアストが視線を俺に向けて言った。金髪を傾け、頬を緩めて言う。
「まぁ、分かったさ。これ以上は無駄だろう、白騎士を呼んでくれ」
「無駄……?」
エアストが眉をぴくりと上げた。端正な顔つきが僅かに崩れる。
肩を竦めて頷く。ノーラが一瞬俺の腕を引っ張ったが、少し身体が傾くだけだった。
「お前の言いたい事は分かった。けれどオレはそれが良いとは思えない。そうなれば話は終わりだろう?」
俺がそう言うと、空気の色彩が一段下がった気がした。エアストは今までの慇懃な様子は動かさないまま、しかし声を冷徹にして言う。
その瞳が、ぐにゃりと歪んだ。決して言葉に出来ない感情が、彼女の瞳を覆い尽くしている。
「――耳を疑います。つまり貴方は、大騎士教を否定されているのですか?」
闘争の本質は、どのようなものか。それは非常に原始的なものだ。今も昔も変わりはない、絶対の原則。
――お前は、こちら側か。それともあちら側か。
たったそれだけだ。それだけの為に、俺達は闘争を続け、魔物とも戦い続けてきた。
指を鳴らして、ノーラを片腕で抑え込みながら言う。
「はっは――当たり前だろ。どうして自分に都合の良くない教えを信仰する必要があるんだ? 信仰ってのはそういうもんだろ」
誰もが理想も追えない世界を素晴らしいなんて胸が張れるほど、俺は厚顔無恥じゃあない。エアストが、態勢を変えた。両脚を僅かに開き、すぐにでも動けるように頭を下げる。
冷静な顔つきだけは変わらなかったが、瞳が大いに歪んでいる。一つの感情が俺に突き刺さった。
ああ、こいつ。俺を殺す気か。
魔力を集中させ、指を今一度鳴らした。
その瞬間だ。声がした。秩序だっていて、それでいてこちらの魂を掴み取ってくるような声。扉が押し開くのとほぼ同時にそれはした。
「――こんばんは」
白騎士、ヴィクトリア=ドミニティウスが声を発する。それだけでエアストも、またノーラも動きを硬直させた。
ただそこにいるだけで、世界の中心にあるのではないかと思わせるほどの熱量。周囲を睥睨する存在感が、ヴィクトリアにはあった。
「夜分に訪ねられるのは、初めての事ですね。魅力的なお誘いを、ありがとうございます。――レディ?」
こちらを絡みとってくるような、蛇を彷彿とさせる視線。
ヴィクトリアは流石に鎧姿ではなく、薄緑の髪色と調和するような寝室用の衣服を身に纏っていた。客人に会うと言うより、まるで親しい友人にでも出会うような装いだった。
相変わらず、この女に出会うと心臓が強く鳴る。俺の記憶には一切存在しないのに、魂に張り付くようにこの女の存在が意識を奪い取っていく。
「……白騎士様。この者は……」
「エアスト」
その一言で、エアストは頭を下げて後ろに一歩退いた。彼女らの間にある関係性がどういうものか、この光景が示している。
ノーラもまた、大いに歯をかみ合わせて騎士を見ていた。気圧されているかのようだ。
ヴィクトリアは真っすぐに俺を見た。深い琥珀色に、一人の姿が映る。
「面白いお話を、されていましたね」
恐ろしいほどに整然と、しかして宣告のようにヴィクトリアは言う。
表情こそ笑っているが、その底にある感情は到底掴み切れない。
「私共の教えが、気に入りませんか?」
周囲を睥睨し、圧倒し、呑み込んでしまうヴィクトリアの一言。
眦を上げて言う。
「気に入る要素があるか? 世界の平穏のためにお前たちは大人しくしていろ、という言葉が通るのは統治者が必要なものを与えた時だけだぜ。オレも楽な世界は良いが、楽しくないのなら話は別だ」
ノーラが傍らで、凍り付いた様に固くなった。視線が硬直し、頬に汗をかいているのが見える。しかし反面、ヴィクトリアは安穏としたものだった。
彼女はエアストに茶を用意させながら、笑みを浮かべたまま言う。はっきりと、それでいてとても楽しそうに唇をあげた。
「それなら、貴方が力を手に入れるしかないでしょうね。力無き声は、えてして無力です。――どうぞ。お好きになさってください。貴方が私共の敵に回ろうと、私は構いません」
「へぇ」
やはりヴィクトリアは、実直な女だった。その声に欺瞞はない。不信もない。ただ自身の世界と力を信じているが故に、絶対的な自信を持って言うのだ。ある意味感心すらする。
そうして宣戦布告でもするかのように、ヴィクトリアは続けた。
「もう暫くすれば迷宮探索において、力を示す機会も巡ってきます。幾らでも挑戦なさってください。幾らでもねじ伏せてさしあげますよ。――貴方が、絶望して私共の教えに縋りついてくるまで」
それは哀れな鳥を呑み込んでしまう、蛇のような笑みだった。




