第三十話『難物は次の難物のために』
夜の街を、足音を鳴らしながら歩く。ノーラがすぐ後ろを不審げについて来ていた。二人分の足音が静かな夜に響き渡る。
目元を細め、眉間に皺を寄せる。呼気がただただ熱かった。
属領民と正市民という区切りを聞いた時から、少々の違和感はあった。しかしまぁ、貴族と平民という程度の差異は俺の時代にもあったものだ。
それがある種合理的で、必要な身分制度だというのなら肯定もしよう。それに世界や国家という巨大な怪物は、時にひずみを生み出す事もある。
シヴィリィに与えられた境遇は、それなのかと思っていた。彼女はひずみに落とされてしまっているのだと。
けれどもし、この世界そのものが大いに歪んでしまっているのなら。俺が知っている世界は何時どこですり替わったのだろう。
それにまだ疑問は尽きない。
――どうして俺はあの迷宮の中で横たわっていたのだ? どうして俺は、罪過の者も四騎士も知らない?
もしそれが五百年前に起きた事ならば、俺は知っているはずだ。記憶を喪失しても、そうも強大な者達の事を忘れるものだろうか。
歯をぎりぎりと鳴らす、呼吸が無意識に荒くなった。どちらにしろ、すべき事は一つに集約されている。第六層の攻略も、この世界の成り立ちも。全ては情報を得なければ始まらない。
「ねぇ。これどこに向かってるわけ。僕結構、傷心だと思うんだけど。いい感じに慰められて良い奴じゃないかな?」
「オレは合理的なのが好きでな、遠回りは好きじゃないんだ。気に食わないが、一番てっとりばやい奴の所に行くことにした」
「てっとり早い奴?」
ノーラの手を引いたまま、片腕で通りの正面を指さす。
迷宮に繋がるクロムウェル大通りを横切りもう一本の大通りに入れば、その先は探索者向きの商店や宿屋、酒屋といったものが見えなくなり住宅街になる。この迷宮都市を構成している人間達の住宅だ。派手さはないが、煉瓦を積み上げた堅牢な造りになっている。
更にそこから奥へと進めば、大規模な邸宅の並ぶ通りになる。名家や貴族に連なる者、もしくは高貴な血筋を迎える為の邸宅だろう。
先ほどシヴィリィと別れた後に――あの女がどこに邸宅を借りているかは調べを終えていた。何せこちらは亡霊だ。姿が見えない事ほど、調査に打ってつけの能力はない。
「白騎士ヴィクトリアがこの先の邸宅にいる。四騎士は世界を作ってる側なんだ。直接文句言いに行ってやろう。欲しい情報もある」
「はぁ!?」
「ん?」
ノーラが俺の手を両手で引いて思い切り押しとどめて来る。
小柄な彼女の体重ではよろける事こそなかったが、思わず歩みが止まった。振り返ればノーラの頬がわなわなとひくついている。
「何言ってるの!? いや、何言ってんの!? うん……何言ってんの!?」
「何度も繰り返すな。俺が見た所警備は案外緩いぞ。門番が二人立ってるだけだ。侵入は簡単に出来る」
「うん、だろうね。だって四騎士の邸宅を襲撃する人間なんていないからね?」
「襲撃じゃない。ただ話を聞きにいくだけだ。約束はしてないが、詫びなら何時でもすると言ってたからな」
「分かった僕が悪かった。話を変えようか。約束もしないで唐突に家に侵入する事を何て言うか知ってるかな? 襲撃って言うんだよ? 良かったね一つ賢くなったね?」
「感性の違いだな」
ずるずるとノーラを片手で引きずりながら、前に進む。
勿論、俺も彼女が危惧している事は分かる。四騎士は少なくともこの周辺各国の統治者に準ずると言って良い。
つまり彼女らに直接かかわる事は、属領民であるシヴィリィは勿論、正市民のノーラにとっても相応のリスクを背負う。統治者の機嫌を損ねた者は、多くの場合罪を問われるのが常だ。
しかし俺個人の感覚だが。あのヴィクトリアという女は気味の悪い人間だがそういった類ではない。ある意味統治者とは真逆の実直さすら感じる。言葉を反故にするような器用さは持ち合わせていないだろう。
それにどちらにしろ第六層の探索は手ぶらでは進まない。一度は会っておきたかったし、その場合どうせならシヴィリィではなく俺の方が都合が良かった。
あの女をシヴィリィに会わせるのはよろしくない。それにシヴィリィが寝ている今なら、手段を選ぶ必要がなくなる。
「侵入なんてしたら二人揃って死ぬよ。本当に断頭台行きになってもおかしくないからね!?」
「いや、だからそれならオレ一人で行く。そっちの方がやり易い」
「それは違うでしょ」
ノーラは先ほど泣きわめいて感情の箍が外れでもしたのか、元々あった固さのようなものが失われていた。感情豊かになったものの、やや合理性が抜けて支離滅裂になっている。どうしたんだこいつ。
流石にノーラにこうも騒がれてしまっては易々と侵入というわけにはいかないだろう。というか彼女の体格でも片腕に縋りつかれてしまえば殆ど身動きが取れない。
吐息を漏らしてノーラに向き合い、指を一本立てて言った。
「こうしようノーラ。とりあえず正面から行く。それで駄目だったら次の手だ。いいな?」
「……まぁそれなら」
侵入よりかはマシと思ったのだろう。ノーラは渋々といった形で頷き、掴んだ手の力を緩めた。
しかし普通に考えれば属領民の上、金髪紅眼のシヴィリィが相手にされるわけがない。彼女がどんな扱いを受けているかは幾度も実感済みだ。断られた上で、改めてノーラと交渉して侵入を試みれば良い。
ふと見上げれば、それは巨大な邸宅だった。弓を象った紋章が門に刻まれ、周囲を覆う壁は人間の背丈を遥かに超す大きさに造られている。しかして邸宅は、その壁の中に造られた庭園を超えた先に鎮座していた。外からでは全体像を把握するのすら困難だ。
ここが本拠でもないだろうに。彼女の一時の宿のために、これだけの建物が作られているのだ。あの女の権力の象徴というべきか。
門番はたった二人。しかし夜分であっても決して怠惰な態度はとっていなかった。
二人とも奇妙なほどに真っすぐに立ち、腰元には剣を備え、槍を手元に有している。本当に人間かと疑ってしまう程、欠片も動こうとしない。
いいやより奇妙だったのは、彼らがシヴィリィの姿を見て尚一度も瞳の色を変えなかった所かもしれない。門番の一人がこちらをぎょろりと見て、言う。
「お約束がおありでしょうか?」
「無いな。だが詫びをするというから来た」
ノーラに片腕を取られたまま、胸を張って言う。彼女が俺の腕を抑え続けているのは、断られれば俺がその場で侵入を試みようとしているのが読まれたのかもしれない。
しかし門番は俺の不躾な言葉に不快な表情を一切見せず、もう一人の門番を見た。そいつが次に言う。
「失礼ですが、お名前を」
眉を顰める。ノーラもまた、一歩を引いていた。
俺が言うのも何だが、不審だ。夜分に約束もなく訪れた相手に淡々と応じる門番達。普通はもう少し怪訝そうにしたり、警戒の色を滲ませてもおかしくない。
違和感があった。丁度、あの女を見ていた時に感じたものと同じ。秩序が人間の姿を取っていたのがあの女なら、この二人は門番という役割を与えられた人形のようにすら見えた。
「……エレクだ」
「ちょっとッ!?」
シヴィリィの名は名乗らなかった。下手に彼女の名前を名乗ってしまうと、後で問題になった時の対処に困る。ノーラが手を引いたが、門番はゆっくり俺の名前を受け取って再び元の直立へと戻っていく。彼らは直立の姿勢のまま、口だけを動かした。
「その御姿とお名前は、お伺いしております。どうぞ、お通りを」
「え?」
声を出したのはノーラだった。門番が鉄で出来た門を二人同時に押し開き、ぎぃ、と重い音がして庭園への道が開かれる。道案内はいないが、好きに通れという事だろうか。
しかしだとしても、これは。
眦を下げて表情を硬くし、門番に視線だけを渡して庭園へと踏み出す。心臓が僅かに鳴っていた。
中の庭園は一通りの体裁が整えられている。華の香りが鼻孔を突き、柔らかなものを感じさせた。この都市は迷宮の為に発展と開発を繰り返した所為か、草花の香りが余りに少ない。開拓されきった土と鉄、そうして潮の匂いが大半を占めている。この庭園からは久しぶりに自然の香りを感じられた。
庭園の道を歩く最中、背後からノーラが声をかけてくる。
「……君、本当に白騎士と知り合ってたの? 四騎士筆頭だよ。どこでそんな面識――」
「――ノーラ」
俺は彼女の言葉を食い取るように、喉を鳴らして言った。目元を細める。
「気を付けろよ。オレはあの女には会ったが、名乗ってはないからな」
「――え?」
振り返りはしなかった。冷たい呼吸を喉に通していた。
「理由は分からないがオレかシヴィリィを探った後で、門番に入れるように指示してたわけだ。ただ詫び一つのためにそんな真似をする奴はいない。あの女、オレが来ると分かってたな」
詰まり、何事か目的があって。俺とシヴィリィは探られていたのだ。俺自身の名前など、殆ど名乗ってすらいないはず。
それをどこで仕入れて、どうして招き入れた。
ため息を一つ漏らす。第六層ですら難物だというのに、その前にまだ難物を片付けなくてはいけないとは。しかしある意味、必要なもの全てを片付けてしまうチャンスでもある。
巨大な邸宅を、ふいと見上げる。月が煌々と、不気味な灯りを夜に輝かせていた。