第二十九話『君が世界を拒むのならば』
月光が地面に落ちる中、唸るほどの勢いを持ってノーラはククリナイフを振るった。銀光が美麗な曲線を描き、一直線に獲物を追跡する。相手の足元から、空間をすくい上げるように閃光が走った。
脇腹を穿つための一線に迷いはない。右腕には渾身の力が込められ、ノーラの瞳には相手の臓腑を斬り落とす未来が見えていた。彼女が幾度も経験した対人戦の感覚から導き出される未来予測。
――しかしそれは、幾度目か分からない奇怪なナイフの輝きに止められる。
ぎぃん、と音が鳴り響いた。刃と刃を合流させて、相手の力を利用して跳ね飛ばす。恐らくこれがこいつの得意技なのだとノーラは思った。
それは本来、一瞬でもタイミングが狂えば相手の力に押し流されてしまう危険を孕んでいる。だというのに、こいつは。
だがこちらも終わりではない。
「――ッ」
右腕のククリナイフが払われて、しかしノーラは呼気一つ吸い込む事なく真っすぐに左手を突き出した。元より右腕は囮だ。ノーラは欠片たりとも相手を舐めてはいなかった。嫌いだが、それと侮りは別の話。
足を前に出して勢いを殺さぬまま、左手のククリナイフを相手の胸元に突き入れる。――のを咄嗟に止めて、ノーラは反射的に一歩飛びのいた。
すでに相手がこちらの突きを抑え込むために腕を上げていたのが見えていた。
「――おお」
相手の金髪が艶やかに夜を撫でる。紅の眼が頷くように瞬いて、笑みを浮かべていた。
ノーラが思わず歯がみする。今の一瞬の邂逅でこちらは随分と神経をすり減らしたというのに。紅眼の悪魔は、楽しそうに笑うのだ。
それがまた、ノーラの心を抉った。こちらの必死が、あちらのお遊びか。
がちりと歯を鳴らして眉間に皺を寄せ、呼吸を一つ。右脚を前に出して、構える。あわせて右腕を前に突き出し、左手を僅かに下げた。
今の攻防ですでに力量は理解した。やはり自分から攻めても容易には勝てない。相手は待ってからの一手を得意としている。だが逆を言えば、こちらが待てば勝機はある。
「随分怖い顔をしながら戦うんだなお前」
「うっさい」
そんな他愛のない言葉と同時に、刃が飛んできた。エレクもまたノーラと同じ構えを取り、前に突き出した右手でナイフを小刻みに繰り出す。最も隙が少ない攻め方だ。
だが、受けに回った時の様子から見ればずっと単調な攻め。ノーラは思わず目元を緩め、すぐに引き締める。これならば。
呼吸を押しとどめたまま、ノーラはククリナイフで相手のナイフを捌き、そのまま大きく下に跳ねのけた。武器勝負にするようではあるが、こちらは大振りに拵えたククリナイフであちらは軽作業用のナイフでしかない。十分優位が取れる。
エレクの手からナイフが勢いよく跳ね飛び、地面に転がる音がした。ノーラが目を見開く。明確な勝機に備えさせていた左腕を鋭く振るい、相手の首筋へと――。
――その前に、相手の身体が自分に密着していた。ナイフの技を競うのは早々に取りやめて、組み付いたままノーラを引きずり転がす。
「ぁ、ぐっ!?」
したたかに背中を打ち付け喉を鳴らす。小柄なノーラは、体格で抑えつけられれば敵わない。呼吸を取り戻した時には、首筋に冷たい感触が横たわっていた。紅の瞳がノーラのすぐ傍にある。
「ナイフの技比べはオレの負けか。だがま、卑怯なのもいいだろ」
エレクが手元のナイフを、ノーラの首筋に押し付けていた。無論、斬りつけるような真似はしないが。だがその冷たさがノーラに奇妙なまでの感情を抱かせる。
エレクに押し倒されたまま思わず、ノーラは脱力した。地面の砂臭さが、今は心地よくすら感じる。
「……ちょっとまて。何で泣くんだよ」
「君には、分からないよ」
大粒が、ノーラの瞳から零れ落ちていた。
惨めだった。どうして自分は、こうもままならないのか。どれほど足掻いても、四騎士の血統は超えられない。天賦の才も与えられない。必死に技術に縋りついてきたが、体術一つでねじ伏せられる。
「何だよ。お前ならこの態勢からでも切り返せただろ」
「良いんだ、もう」
「ん?」
エレクが怪訝に、そうして何故か強く眉間に皺を寄せて言う。けれどノーラには気にならなかった。
全身が脱力し、ククリナイフを手放した。
「ここで頑張っても、頑張らなくても同じだろう。無駄な事は、したくないんだ」
シヴィリィと話をした事で、感情が引きずり出されていたのだろう。その感情が今、根こそぎ崩れ落ちてしまった。普段のノーラなら幾らなんでもこうはならなかった。
反面エレクはノーラの様子を見て、紅の瞳を驚いたかのように見開き声を無くしている。
こいつにも、動揺するという事があるのか。ノーラはそう思ったが、けれどそれは動揺というよりもっと別の感情にも感じられた。
ぽつりと、何か思い出すようにエレクが言う。
「――魔物さえ追い出せば、そんな言葉は聞かなくなると思ってたんだがなぁ」
エレクが目を細めた。ナイフを地面に置いて、どこか遠くを見るように呟く。
何故だろうか。ノーラにはその瞳が酷く悲し気なものに思えた。
「オレはな。区切りをつけるのは良い事だと思ってる。どうしようもない事は幾らでもあるし、違う道を歩き出す事だって必要だ。だが投げ出すなよ。それは諦めてるんじゃなく、視線を逸らしてるだけだぜ」
視線を逸らしていると、皮肉にもエレクはシヴィリィに近しい事を宣った。
だから、だろうか。ノーラの血が沸騰するように熱くなる。目元が力を取り戻した。もはやこらえ切れるはずもない。
揃いも揃ってこの二人は、自分の激情を逆なでする。
「――ふざけるなよ。二人揃って、上から目線でお説教かい? 僕が、何も考えてないお人形とでも思ってるのかッ!? 良いよね。迷宮探索は順調で、世界に乗り越えられないものはないって顔してさ。それで何だい、次は僕の頑張りが足りないって? 僕がどれほど足掻いたかも知らないでッ!」
いてもいなくても変わらない、お前の上位互換はどこにでもいるのだと、そう断じられる相手の事など彼らには分からないだろう。いいやそんな困難すら乗り切れるのだと、信じ込んでいるのかもしれない。
エレクは、ノーラの慟哭に言葉を挟まなかった。紅蓮の瞳を大きくしたまま、茫然とした様子だった。けれどそれを心地よいと思う余裕すらノーラにはない。
「レベルはもう限界で、血統が無ければ魔導だって限られてる。諦めた方が良いなんて最初から分かってるさ。でもさ……それでも夢を見て、諦めきれなくて……縋りつくしかない人間だっているんだよ……っ」
「……」
四騎士に連なる血統か、三大国の名家にでも生まれなければこの世界での末路は決まっている。商売をしたり学者になったり出来る者は、必要な血筋を持った正市民だけ。
他の劣等が夢を見ようと思えば、例え限界があると分かっていても探索者か冒険者になるしかない。庶民の見られる夢など、精々がそれだけなのだ。
もしも傭兵すら止めて故郷に戻れば――例え正市民のノーラであっても貴族らに家畜のように管理されるだけ。
シヴィリィの事を子供らしいと感じたノーラだったが、今この時ばかりは癇癪を起した子供のような振る舞いを見せていた。
エレクはノーラの言葉を最後まで聞き終えて、ゆっくり立ち上がる。金髪が跳ね、そうしてぽつりぽつりと言葉を漏らす。自信に満ちた彼には珍しく、酷く寂しそうな声だった。
「……五百年前はな、お前みたいな事を言う奴ばかりだったんだ。けど仕方なかった。敵の魔物連中は強かったし、レベルを上げる前に殺される奴らの方がずっと多かったからよ。投げ出したくなったって仕方ない。
だから、そんな事を言わなくてよくなるような世界に俺達はしたはずなんだが。そうか、五百年で駄目になったのか」
五百年前と、余りに遠い時の呟きに、ノーラは何を聞いたのか一瞬分からなかった。
その時代はまさしく、人類種と魔物が世の覇権を巡っていた時代で。四人の大騎士が魔物の大勢力をくだした魔導戦争の頃で。まさしく歴史の中の物語だ。
だというのに目の前の人物は、まるでそれを見知ったように語る。彼は、一体いつから亡霊のままなのだ。もしも五百年前の人間で、それでいてエレクとそう名乗るのならば。
しかしノーラが思考を取り戻す前に、彼は言う。
「ノーラ。謝罪をしよう、お前は間違っていない。お前が諦めず足掻き続け、歯を食いしばってなお立ち上がったというのに。それでも世界がお前を抑えつけるのなら。他の道も見いだせない世界なら。
――それは世界が間違っている」
何故なら、オレが目指した世界はそんなものではなかったからだ。エレクがそう付け加えるのを聞いて、ノーラは視線が狂おしくブレるのを感じた。
金髪紅眼の彼女が、高々属領民に過ぎない彼女の姿が。
まるで世界を指図し睥睨する、王のように振舞っている。
怖いものを、見た気がした。見てはならないものを、見ている気がする。
「何を、言って……」
「誰か知らないが好き勝手をやってくれる。なぁ、ノーラ。気に食わねぇよな」
「ッ!?」
紅蓮の瞳が、じろりとノーラを貫く。心臓が跳ね打つのが分かった。魅了とは違う、けれど相手を圧倒する気配がそこにある。
「どうしたい? お前が地べたに這いつくばってもまだ諦めないのなら。お前は復讐をすべきだ。いいや、しなくてはならない」
「復讐って……誰にさ」
息が切れそうになるのを必死に抑え込む。皮肉すらいえず、言葉を返すのがノーラにとって精一杯だった。
エレクはノーラを真っすぐに見つめ、手を伸ばすようにして言った。
「勿論、世界そのものに。レベルの上限も、魔導の制限も、管理も。五百年前には無かったものを作った奴らがいるんだ。復讐をしないなんて嘘だろう?」
実に猟奇的な笑みを、エレクが浮かべた。戦う時と同じような、自分の勝利を信じて疑わない笑み。
ノーラはその笑みが嫌いだ。自分が世界の中心だと宣うような言葉が嫌いだ。世界は自分の匙加減だとでもいうような傲慢さが大嫌いだ。彼の言う事は戯言同然で、信じるに値しない。詐欺師が俯いた人間に声をかけるのと何が違う。
だけれ、ども。――それに縋りついてでも、諦めきれぬものを持つ人間もいるのだ。
それに、不覚にも。シヴィリィが言った事を、思い出してしまった。彼は、彼女にとっての救いなのだと。では、自分にとっては?
ノーラが、嗚咽を漏らすように聞いた。涙が瞳を覆っている所為か、視界が曇っている。
「ねぇ。ならさ、ぁ。諦めなければ。諦めさえしなければ、僕はまだ、強くなれるかな」
エレクは金髪を夜闇に溶け込ませ、ノーラの手を掴み込みながら言う。
「――お前は何者にでもなれる。当然だ。そんな世界じゃないと生き返る甲斐がない」




