第百三十一話『我が怨敵』
大騎士教の剣。魔族レリュアードは裂けたように見えるほど唇をつりあげて、笑みを浮かべた。
ここが私有の書斎で良かったと彼は心からそう思った。何時もの温厚そうな雰囲気を保つ事が難しい。それほどに今見たモノは衝撃的だった。
レリュアードが司るものは虚偽に加えてもう一つ、その魔眼。視界を奪い去る事や、一時的に『接続』する事は多少の魔導的な仕掛けがあれば難しい事ではない。
事実、彼には大陸中に幾百もの瞳がある。ありとあらゆる世界を、彼は自室にいながら見通す。
ヴィクトリアの瞳へ接続したのは、あくまで大遠征に際して何が起こるかを見通しておく為だった。大騎士教として、魔族としてどう動くかを決定する上でも迷宮の情報は貴重だ。
けれど、勢力争いなどどうでもよくなるほどの情報がそこには転がっていた。
――迷宮では一人の人間が、眼を開いていたのだ。
とうの昔、五百年も前の昔に棺に入ったはずの一人の王が。
「ふふ、あはははぁっ」
椅子に座りながら口元を手で覆うレリュアードの傍らから、声が響く。
声の主はまだ小さな少女のようだった。
壁に設置された背丈の高い本棚にもたれかかるように、あどけない笑みを浮かべながらお腹を抱えている。黒と白のゴシックロリータスタイルの服装で大いに笑う彼女は、悪意など欠片ももたない少女に見えた。
「本当、面白いわっ。あははははっ!」
「……貴様が何を笑う。イレクト」
反面、レリュアードは口元の笑みを消して少女を見た。
イレクトと、少女はそう呼ばれて顔をあげ、丸い綺麗な瞳に涙まで貯めながら言った。
「だっておかしいもの。あんなに強大だったあいつが、あんなスライムの残り香みたいなちんけな存在に成り下がっているだなんて! 哀れで、愚かで、滑稽だわ。あははっ!」
あどけなく、悪意なんて知る由もなさそうな表情で。悪意に塗れた言葉をイレクトは吐き出す。
レリュアードの視界を盗み見たのだろう。イレクトは再びお腹を抱えて笑う。
「くふふ。レリュアード、貴方はおかしくないの? 貴方と張り合っていた人間の化けの皮が剥がれたのよ。どうせなら、ミンチにしてオークの餌にでもしてやりたかった? あのエ――」
イレクトの恐ろしい所は、その悪意しかない言葉を、全くの悪意なく振り回す所だった。子供が刃の意味を知らずに手にしている姿に近い。
レリュアードは、椅子に座ったままため息をついた。眼前の長い机に無駄に施された装飾の輝きすら、鬱陶しく感じられる。
そこにぽたりと、黒い液体が落ちた。
血だ。
レリュアードの手元からそれは出ていた。
いいや正確には、レリュアードが握る肉片から。
「――ぁ、ぁぁああっ!? ふぉ、の……っ!」
「二度と、貴様の溝の底の滓にも劣る汚らしい口で奴を呼ぼうとするな。不愉快だ。不愉快極まる」
レリュアードが握っていたのは、イレクトの舌だった。それをぐちゅりと握りつぶして机に落とす。しかしそれはすぐに風化をして、塵となって消えて行った。
イレクトは黒い血を軽く吐きながら、すぐに魔力で舌を再生させてレリュアードを睨みつける。
「何よ! 酷い人! 私は貴方の為も思って言ってあげたのに。良い気味じゃない。怨敵が転がり落ちる様ほど痛快な事はないでしょう。嘲笑こそこの世で最も下衆で楽しい事じゃない」
「下衆と認識しながらもそれを楽しむ貴様の奇特な精神性だけは評価しよう」
「やだ、褒められちゃった」
ぽっと頬を染めながら両手で唇を抑えるイレクトの姿に、レリュアードは再びため息を漏らした。最も付き合いたくない魔族の一人だが、それでも付き合う必要があるのが彼の不幸だった。
椅子に深くもたれかかり、机の上に置いた酒瓶を手に取る。グラスを二つ用意した。
「貴様は勘違いをしている。嘲笑も、痛快も不適格でしかない」
「それは一体何の話?」
「奴の話だ」
イレクトが、再び笑いながら言った。少女のような姿でも、あっさりとグラスを手に取って入れられた酒を口にする。
「今更、あのスライムの残り香に用でもあるっていうの?」
「……貴様は何も学んでいないのだな。五百年前からそのままだ。だから貴様は馬鹿のままだ」
「馬鹿ぁ?」
心外だとばかりに唇を尖らせるイレクトに、レリュアードが言った。自分もまた酒に口をつけながら、魔眼を細める。魔力がちり、と空間に弾けた。
「今の奴がスライムの残り香に過ぎないというのなら、立ち上がったばかりの頃はそれにすら値しなかったはずだ。魔物の残り滓よりも取るに足らない人間。それが奴であり、彼らだった。
――だがそんな奴に私達は負けたではないか」
「負けてないじゃないっ。最後は貴方がちゃぁんと盤面をひっくり返したでしょう。魔族の天賦と言われる貴方が」
魔族の天賦。それはレリュアードに与えられた誉の一つ。魔に属する王の一角であり、それでいて抜きんでた才覚を持つ彼に与えられた二つ名だ。
事実、レリュアードの名は誉に相応しかった。かつて人類が一個の軍となった際、滅びかけた魔族が人類に溶け込み生き残る術を与えた。
――そうして統一されたはずの人類達に、不和の種を植えこんだ。
虚偽を司る彼にとっては、容易い事。
現代において魔族が深く人類圏に溶け込めているのは、紛れもなく彼の功績の一つだった。
しかしイレクトの言葉に、今度はレリュアードが声をあげた。酒を入れたグラスを軽く机に乗せる。
「私が天賦? だから貴様は駄目だ。貴様は何も視ていない。その二つの眼で見ておきながら何もだ」
イレクトの不満げな表情を、笑い飛ばしてレリュアードは言った。
「天賦とは、天才とは、奴の事を言うのだ。私は凡才に過ぎない。凡庸でしかない。
考えてみろイレクト。貴様の言うとるに足らない人間は、かつて東端の小領の領主でしかなかった。そんな人間が人類を、亜人を、忘れ去られた神を結びつける頸木となり我らに敵対した。一度たりとも我らに牙を向けた事の無かった奴らが、我らと敵対しそうして勝利したのだ。
想像もつかない。想像できるはずもない。――間違いなく奴は天才だった」
しみじみと、噛みしめるようにレリュアードが言う。流石のイレクトも、思わず押し黙った。
レリュアードの狡猾さと能力、そうしてある種の傲慢さはイレクトがよく知っている。
しかしよもやかつての怨敵を、ここまで彼が評価しているとは知りもしなかった。
だから、とそう継いで彼は言葉を続ける。
「だから、必ず奴は復活する。必ず奴は我々に再び戦役をしかけてくる。奴本人にすらそれは決して止められない。何故なら、奴が奴であるからだ」
確信に満ちた言葉。彼はこうなる事が、あらかじめ分かっていたとでも言うようだった。何時になく言葉には熱が籠り、殆ど酔わないはずの彼が、酒に酔ったかのように言う。
「イレクト。五百年前のアレはな。勝利でも何でもない。私達は奴に敵わなかった。奴は私達の根幹の悉くを破壊し尽くし、お陰で私達は今でも人類の中で生きざるを得ない。私がやった事と言えば、奴の剣をもぎ、足元を崩し、両腕を引き離し、ようやく首一つを両断できた。それだけだ」
「……今のアレは。貴方がそうまでいう程に強大かしら」
拗ねたように、気分を害したようにイレクトが言う。レリュアードに一矢報いようとしているかのようだった。
しかしレリュアードは酒を再び喉に流し込んで緩く笑って言う。
「ああ。今度こそ殺して見せる。私は凡才だ。だからこそ、五百年かけて用意した。劣っているからこそ、智恵を凝らした。……私は惨めな敗北者であり、奴は偉大な勝利者だ。――だが今度こそ、私が勝利する」
そう、レリュアードは言葉を零しながら。魔性の瞳を見開いて言った。
そこに壮年の、穏やかそうな男はもういなかった。
かつて魔の王が一角と謳われた、魔眼だけがそこにいた。
何時もお読み頂きありがとうございます。
皆さまにお読み頂ける事で、日々更新を続けられております。
本話で第三章『空の姫君』は完結となります。
次章更新までに少々お時間頂くと思いますが、再開時にはお付き合い頂ければ幸いです。
また時折唐突に書きたくなった短編を合間に投稿する事もあるかと思いますので、改めまして今後もよろしくお願い致します。




