第百二十九話『堕ちた太陽』
身体に流れる魔力に自分を集中させる。
集中する、集中する、集中する。血管を走る血潮に思いをはせるように、それが自分の体内を管を生やして通っていくと想定する。
想定された幻影の管は、何時しか迷宮から魔力を吸い上げて活発に躍動をしはじめた。
頬が熱い。眦がぼんやりと、しかし火傷をするような熱量で吐息をあげる。
「集中、集中、集中」
シヴィリィは言いながら、繰り返した。彼女の知る集中方法とはそれしかない。しかしそれがトリガーとなり、魔力がより早く、より正確に循環を始めた。
魔力が発露し、外部への流出を待ち望んで咆哮する。かちりと、音が鳴った気がした。自分の身体が魔力の為の器になり、魔導という奇跡を発射する為の射出機となる感覚。
今までは手探りをしながらこの感覚に至っていたシヴィリィだが、今日は当然のようにそこに辿り着いた。グリアボルトらのと邂逅を経て、身体が最短ルートを導き出している。より魔導に適した身体へと変貌する。
しかし、シヴィリィは自問した。
――ここから、何をすればいいんだろう。
エレクは確かにシヴィリィに言った。
一発、ぶちかましてやれ。最高に魔力を貯めてな。
それは良い。しかし、ぶちかましてやれといわれても今一シヴィリィには具体的なイメージが沸かなかった。集中と呟きながらも、頭の上に疑問符が湧いてくる。
今思うと、エレクは大雑把な所が多かった。細かい事が苦手というか。いや違う、今はそんな事を考えている場合ではない。
焦れば焦る程に、余計な言葉が脳裏に浮かんできた。シヴィリィが眉間に皺を寄せたあたりで、ぽつりと言葉が漏れる。
『――陛下は出来る人ですもの。出来ない人に道筋を照らす事が得意ではないの。今も、昔も』
それは辟易したような、ため息でもつくような素振りだった。
シヴィリィの視界に惜しみなく入り込んで、彼女はいた。夜に溶け込む様な青白い髪の毛に、夜を紛れ込ませたような黒瞳。
もはや見間違えるはずもない。先ほどの声は幻聴ではなかった。シヴィリィは嗚咽を必死に噛み殺して眼を見開いた。
第六層、生者の国の支配者。零落聖女カサンドラ=ビューネイ。
彼女は当然のように、シヴィリィの視界の中にいた。彼女は視線に気づくと蕩けそうな唇に指を当てて言う。
『声に出しては駄目でしてよ。わたくしはただの象徴にすぎませんもの。人が王たるために必要な象徴ですわ』
彼女が何を指し示しているのかシヴィリィには察しがつかない。しかしけらけらとおかしそうに笑う彼女は、第六層にいた悲壮極まる聖女とは全くの別人にすら見える。
朗らかで、何処かあどけない少女。カサンドラという人は、よもやこういう人だったのではと思わせる。
『貴方は悪くありませんわ、シヴィリィさん。陛下は太陽なのです。太陽は他者を照らす事はできても、他者を照らす方法をどうして教えられましょう。陛下にとって全ては、出来るから出来る事なのです。
五百年前に、幾度も申し上げましたのに。そういった所だけは治られない。ですが、シヴィリィさん。誤解をしてはいけません。人は出来なくて良いのです。出来ない事が出来るようになる事こそ、この世に生れ落ちた喜びであり、昂ぶりなのですわ。――ですから、完璧である必要などないのですよ』
それはまるで、シヴィリィに言い聞かせるような、説き伏せるような言葉遣いだった。その言葉がやけに胸に染みる。まるで自分の見えない奥底を、指先で撫でられているかのよう。
何時しか、カサンドラはその姿を薄くしたと思えばシヴィリィのすぐ傍にいた。
そうして指輪にそっと手を重ねる。彼女の手はやけに暖かく感じた。まるで魔力の奔流そのものが、そこに宿っているかのよう。
彼女の手に導かれるまま、そっと腕を上げる。
『わたくしは本体ではなくただの象徴。しかし物を教える事は出来ましょう。詠唱を、シヴィリィさん』
何を彼女が唱えろと導くのか、それは明瞭に頭に浮かび上がってきた。
『貴方は真っ白。何者にでも染まれるのですわ。それは、わたくしにも陛下にも真似できない』
ゆっくりと言葉を、唱える。
「――私、は」
普段の言葉遣いとは違うと分かった。声の一つ、呼吸の一つに魔力が乗っている。これもまた聖女によって導かれたのだ。面白い程、全身に漲る魔力が勢いよく奔流となって外に出力されていく。
その、瞬間。僅かな合間だったが。
確かにシヴィリィは聞いた気がした。
『……ごめんなさいね。わたくし達の不出来を、貴方達に押し付けてしまって』
そんな言葉が、聞こえた。
しかしそれに応ずる暇もなく指輪は輝き、魔力は炸裂を続けながらシヴィリィを後押しする。
目の前では、『万物束縛』が宙を覆いながらエレクの身体を貪っていた。
「ならば、そんな有様であるならば……ッ! 二度と息を吹き返せぬようにしてやろう!」
エルフの呼吸は溶岩よりも熱く、灼熱を有している。今や彼女の魔力は沸騰せんばかり。城一つでも拘束出来てしまいそうな魔力が周囲を飲みつくしてた。
鎖はただの拘束具から、敵を食い殺す獰猛な獣へと姿を変える。
反応するようにシヴィリィの唇が、跳ねる。
「私は、有象無象の区別をなく。全てを零落させる」
かつて聖女が語ったように、英雄の足跡をなぞるように。
咆哮するように、言う。
「――秘奥『万物零落』」
熱により沸騰する玉座の間が、凍てつく吹雪を呑み込んだかの如く冷却される。
この場にあらん限りの出力で吐き出された魔力は余りの眩さに眼球さえ溶かしそうだった。空間が嗚咽をあげ、魔導に組み伏せられていく。
万物の性質が、溶け落ちる。全ての魔導が、消え失せていく。
ロマニアの驚愕も、二振りの騎士の瞠目をも呑み込んで。ただの一瞬、確かに『万物束縛』は消失した。
それだけで、十分だった。
「素晴らしい、素晴らしいぞ。流石だシヴィリィ」
ただの一瞬、他の魔導が掻き消えたならば。彼女と経路が接続された唯一の王が場に君臨する。他に邪魔する魔力がなく、未だ実体化した肉体が残っているならば。
彼に敗北という文字は無い。
虚空に黒が線を描き、彼の右手に魔力が集約される。それは他の魔が打ち消されたこの場においては、十分すぎるほどの出力を伴っていた。
黒がシヴィリィに背を押されるが如く疾駆する。それはまさしく、魔王ではない、かつての彼の一閃。
ロマニアのすぐ傍に、魔が迫った。同時に詠唱が完了する。
「術式結合――秘奥『破壊』」
ぎゅるり、ぎゅるりと回転する魔力が吸い込まれるようにロマニアの胸へと突き刺さった。
彼女の核を破壊せんがため、彼女の中に存在する魔力を打ち砕かんがため。破壊の魔力は有象無象を巻き込んで世界に亀裂を走らせた。
我に破壊出来ぬものなど無しと、そう叫ぶが如く。破壊の根源がエルフの姫君を破砕する。
「――ハ、ハ……」
瞬間、ロマニアは笑った。
それは嘲笑でもなく、哄笑でもなく。ただただ、漏れ出るような笑み。かつて皮肉屋だったエルフが、不敵に浮かべる笑みだった。
「……変わらないな、ぁ。君は。本当に……己の、憧れの、まま……」
エルフの震える手が、ゆっくりゆっくりと上がり、自身を貫いた者の頬に触れた。
「……ロマニア、お前は」
「何も、言わないでくれ……。何もだ、何も言わず……」
その口元から黒い血が零れ落ちる。彼女が魔に属する証が、周囲に飛び散っていた。
ロマニアがぽつりと、惜しげもない笑みを浮かべながら言う。
「何も言わず――ここで己と死んでくれ」
瞬間、エレクの全身に再び鉄鎖が巻き付いた。




