第百二十八話『もはや約定は消え果てて』
古来、数多の種族が地上に浮かび上がっては消え、時に生き残りまた消えていく。
今は大陸の覇者たる人類も、長い大陸の歴史の中で見れば泡沫の種族に過ぎないのかもしれない。
その数多ある種族の中で最も古く、神が最初に造り上げたと歴史に刻まれる者ら。
エルフ。
魔を尊び、その神髄に誰よりも近づいた古代種族の姫君が、唇を揺蕩わせながらその魔導を解放する。魔力が眩いほどに輝きを帯び、玉座の間そのものを呑み込みかねないほどの勢いで膨張していく。
「魔導解放――有象無象の区別を無く、己が鎖は一切合切を束縛する。『万物束縛』」
今まで彼女が用いていた『不断の鎖』を彷彿とさせる詠唱。しかしそれとは圧倒的にものが違う。
絶望的なまでの魔力の余波。限定的な空間であるからこそ曲がりくねる道理。
虚空が裂けたように見えた。いいやただ俺がそう誤認させられただけで、実際に起きた現象は別物であるのかもしれない。
古代種族たるエルフがその魔導を解放した際、それを理解できる者は恐らく同種のエルフだけだ。
魔導の質を左右するものは無論、才覚と出力。しかしそれ以外にも必要なファクターがある。
それは積み上げた年月だ。学者が数式や論理を年月とともに積み上げるように、魔導使いは魔導を構成する術式を自分だけに適合させるべく積み上げていく。
他者が十年かける術式を、一年で組み上げる者はいる。他者が百年かかる術式を、十年で組み上げる者もいるだろう。
しかし――エルフが千年以上をかけて組み上げた術式に追いつける人類は、まずいない。
エルフが魔導に秀でる理由はそれだ。彼らがただ長寿であるからこそ。人類の才覚や出力を置き去りに、かけがえのない年月を注ぎ込む事が出来るからだ。
肌がびりびりと痺れを起こす。喉が異様に乾きを覚えた。
「これが己の忠誠。君を縛り付け留め置く事こそ、最も誠実である事だと信じている! さぁ、この世で全ての生物を縛り付ける鎖を知っているかな、君!」
かつて俺とロマニアが出会った頃、彼女が初めて問うた言葉が今繰り返される。
「――第七層の正体は、そういうわけか」
今になって記憶を呼び起こし、嘆息をして納得した。
全ての生物を縛り付ける鎖とは即ち、欲求に他ならない。食欲も、性欲も、睡眠欲も。ありとあらゆる生物は欲求に縛り付けられてこの世に生きている。それが少し知能を持つと、名誉欲、知識欲、物欲とあふれ出てきてますます縛られるようになる。
そうして、ロマニアの鎖はそこを根源として他者の魂へと絡みつくのだ。
「――ッ!」
反射的に、ヴィクトリアが刃を振り上げてロマニアへと飛び掛かる。――素振りを見せた。しかしそれも全て無駄だ。彼女は一歩たりとも前へと進めない。
例えどれ程に自らの律しようと、欲求から逃れられるものはいない。住民達によって狂気が抽出され、誰もが欲求に狂わざるを得ないこの第七層であれば尚更。
――不意に、視線を両手にやる。すでにそこには鎖が絡みついていた。
アリナが目を見開く。
「な、ぁ……馬鹿なッ!」
両手に、両脚に、そうして俺の内部の魂にまで。ヴィクトリアとアリナも同様だ。
何てことはない。この第七層そのものがロマニアにとっての領域だ。第七層の全員が、入った時から鎖を魂にかけられている。
だからこそ誰もが欲求に狂い、だからこそ彼らは欲求を満たす為になんでもする。彼らがどうやって食物を手にしていたのかは、余り想像をしたくない。
全身に鎖が絡みつき、慟哭するように俺の身体を締め付けていた。遅からず俺の身体を粉々にするだけでなく、魔力も魂をも吸収しそのまま存在そのものを吸い尽くすだろう。
「――ロマニア」
魔力の迸りは限りがなく、たった一人のエルフから出力されたものとは思えない。これほど容易に他者に干渉する魔導を扱えるのは彼女だけだ。
かつて騎士として剣を振るったヴィクトリアも、アリナですら拘束されたまま僅かに身動きが出来る程度。このままでは遠からず彼女らも死に絶える。
誰も彼も、ロマニアに食われその糧となって死に絶える。全ての欲望を食い、全てを縛り付ける大いなる淫婦。魔族から恐れ忌み嫌われたロマニアの魔名。
「エレ、ク。これ……!?」
「不安そうにするなシヴィリィ。お前は大丈夫さ。俺の言った通りに頼む」
無論、シヴィリィにも鎖は這い寄る。すでに鎖は絡みついてすらいる。
けれど、こいつらは所詮欲求と魔力、そうして魂に群がる羽虫のようなもの。ならばより強い光があれば、そちらへと群がってくれる。
そうして俺には、ただ一つだけ誇れる点がある。
――俺は誰よりも欲深い。だからこそ、玉座などというものを一度は掴み取れたのだ。
俺の両手にはあの頃の武具はない。頼るべき仲間もいない。付き従ってくれる部下もいない。ただ、背後には盾となって守るべきシヴィリィがいる。
それだけで何と素晴らしい事か。存在を賭けてやる意味は十分にある。魔力の出力を、後先すら考えずに引き上げていた。
「……君、は。どこまでも癇に障る事をしてくれるな……! どうして、そのような!」
「一度は死んだ身だ。……それに死は悲しみではない。いずれ人は死ぬ。自分自身が捧げるもののために死ぬ事こそ、幸せというものだロマニア」
「君のその身勝手さの為に、何万という同胞が殉死者にさせられたと思っている! 君が、君があのような場で死にさえしなければ……っ!」
全身を締め付ける鎖が強く、全身の骨を砕くかの如く俺の存在を絡め取ってくる。もはやこの場全員を絡みとるよりも、俺ただ一人を殺す為だけにロマニアの意識は向けられている気すらした。
それも仕方がない。彼女に恨まれる事は幾らでもやった。俺は彼女の想いを踏みにじったのだ。
「そうだロマニア。俺は誰より身勝手で傲慢な自信がある。王なぞというのは俺にしか出来ないと思っていた。俺以上に聡い者も、強い者もいないと信じていた」
「ならば――!」
頬から血が弾け飛ぶ。魔力を失うという現象を、俺の身体は外部からの傷であると認識しているのだ。喉が裂け、呼吸をするのすら激痛を伴う。
「――そんなだから、俺は失敗した。世の中全て合理で回ると思い込んだ人間が、最後にはそのツケを払わされて死んだだけだ。もしも俺が死ななければ、その後何をしたか今なら想像がつく。俺はあれ以上玉座に座っているべきではなかった」
もしもあのまま居座っていれば、戦役における合理に溺れる余り誰もが志を叫べる世界という初志はいずれ消え去り、きっと俺は民達に俺と同じ思想を求めただろう。そこに恐怖というナイフを突きつけ、利得という金貨を手渡して。
そうして再び誰もが自分の身分を弁えて暮らす統制時代に逆戻りだ。
「ロマニア、悪いが。お前の期待には沿えそうにない」
ロマニアが俺に何を求めているのか。何を欲しているのか。それは魔力を通して痛いほどに理解させられている。
それこそ血肉を裂く勢いで。ぐちゃりと内臓が攪拌され、喉に嗚咽と血なまぐささが込み上がってくる。魔力しかない俺の身体が持つ、死の明確なイメージ。
彼女に魔力を吸い上げられて、もうすぐそこに死が迫っている。
その間際、僅かに鎖が弱まった。
ロマニアが、震える声で言う。彼女は顔を伏せたまま俺に見せなかった。
「己との……約束はどうなる。約束しただろう。いずれエルフの正式な国家を作る。共に手を携えて、大陸をより繁栄させようと、誓ったではない、か……!」
それは慟哭でも、咆哮でもなかった。
ただただロマニアという個人の、悲哀であり滂沱であった。
彼女がこの五百年、何を想い何を信じて生きていたのか。それが集約されたかのような、一言。
そんな彼女に対し言葉を弄すような卑劣さを、俺は持ち合わせていなかった。
「……すまない、果たせそうにない。怨んでくれ」
「――ッ!」
俺の魂を締め付ける鎖が大きく音を立てて、俺そのものを食い荒らしていく。




