第百二十六話『責任』
シヴィリィの両手が力強くエレクの腕を掴む。しかしエレクからしてみれば、さして驚嘆すべきものでもない。これよりもっと強大なものを知っている。これより更に鋭い意志を知っている。
この少女が有する意志など、五百年前の英雄達に比べればどれほどにか弱いものか。そう、そのはずだ。
「何を、訳の分からない事を」
「分からないのは私の方だけどね!」
けれどエレクはシヴィリィの両腕を振り払えなかった。黒い瞳がゆったりと開き、彼女の紅蓮の瞳を見る。
そこに宿る感情の意味を、どういうわけか知ってしまっている気がした。精神が揺れ動き、眼が跳ねる。
「――『爆散』!」
エレクのその一瞬の揺れ動きに、シヴィリィは詠唱を成した。溢れかえった魔力が暴発するように震え動き、空間全てを唸らせる。
零距離での魔力の爆散は、当然に相手だけではなく自分にも返礼を用意した。
両手が血だらけになるのを感じながら、シヴィリィはエレクへと接敵する。指輪を光輝かせ、魔力を必死にコントロールしながら叫んだ。
「目を覚ましなさいって言ってるでしょう――がぁッ! この馬鹿エレク!」
それは他愛も無さすぎる一撃だ。軽く腰を入れただけの一振りが、エレクの胸を軽く打った。それは不意打ちにも値しない。ただ魔力を込めて、一打を放っただけだ。殺傷力など欠片もなかった。
それも致し方がない。シヴィリィ自身、今は全身が激痛に苛まれているのだ。
破壊されていく血肉が、そのまま再生されていく。しかしそれは決して無痛などではない。魔力が渦巻きながら永遠に終わらぬ苦しみを味わっているようなもの。
その中で、瞳を見開きながら一打を放った事自体が驚嘆と言えるかもしれなかった。
けれどそんな一打だったからこそ、エレクも不意に受けた。もしこれがヴィクトリアやアリナの如き剣撃であったのなら、彼は反射的にねじ伏せていただろう。
「――は、ぁ?」
余りの弱弱しい一撃に、エレクが眼を明滅させて声を出す。
彼が意識を取り戻してから、初めて見せた動揺だったかもしれない。その一瞬、確かに感じたからだ。シヴィリィの魔力の内、その指輪からあふれ出るように。
言葉が、聞こえた。
『――酷い陛下。また、女の子を泣かせているのですね』
その声が、誰のものか。エレクは勿論、殆ど意識を掠れさせたシヴィリィすらも察し取った。
第六層で聞いた声。ただ一つの紛れもなく、一人の英傑であった者の声。
そうして聞こえてはいけないはずの声だった。
エレクの足が、腕が止まる。その瞬間、今一度シヴィリィが動いた。
『早く、さぁ』
「ぁ、ぐっ! ――『破、壊』!」
牽制も騙しもない、真っすぐな体当たり。自分の身体を彼に当てるのと同時、シヴィリィが詠唱を終えた。魔力コントロールも酷いもの、体当たりとは言え自分が負うダメージの方が大きいだろう。
それでも、その魔力は真っすぐに魔王を貫いた。
まるでシヴィリィの想いを、そのまま表すかのように。
◇◆◇◆
素直に痛い。俺の身体は魔力で構成されているというのに、その魔力がばちりばちりと一部切断されている。どこのどいつの仕業か知らんが、犯人を見つけたら問いただしてやる。
視界には大きな天井。知らない、ものではないな。玉座の間か。どうして俺は天井を見上げて寝ころんでいるのだ。
少なくとも玉座に座った辺りまでは記憶があるんだが。何でこんな有様になっているんだ。随分と魔力も浪費されている。身体の一部が消え失せそうだ。
「――ア、ぁあああっ!」
ぼうっとしていた俺の視界に剣が降って来た。俺の首をそのまま砕け散らすような軌道で、一切の迷いもなく。
「はぁ!?」
咄嗟に何故か胸元にいたシヴィリィを抱え込み、その場から転がり避ける。刃の余波に頬が切れ、魔力が零れ落ちた。
俺に斬りかかって来たのは――アリナ=カーレリッジ。戦役の騎士か。その赤い頭髪と、特徴的な眼は五百年経っても見忘れもしない。
……いいや違う。忘れていたはずだ。だというのにどういうわけか、今ばかりは記憶が彼女の事をよく思い出している。名前は勿論、姿すらも。
「……随分物騒な事をしてくれるな。ええ、おい。以前みたいに砂に沈めてやろうかアリナ」
「……以前己に何をしたのだ貴君は」
両腕でシヴィリィを抱えながら起き上がり、両脚で地面を抑えて彼女に言う。
玉座の間全体を見渡せば、アリナとロマニアだけではなく勝利の騎士ヴィクトリアまで脚を踏み入れていた。
どういう状況だこれは。何が起こったら五百年前の英雄が三人も揃い踏みになる。
「シヴィリィ。おいシヴィリィ。説明してくれ、何が起こってこうなってる。酷い騒ぎだ」
「……貴方が全部悪いのだけれど」
シヴィリィが息絶え絶えになりながら、血の色を悪くして答えた。掠れた声はやけに聞き取り辛い。彼女の姿を見ていると、やけに胸が痛んだ。
直感が、これが俺の為に受けた傷なのだと告げていた。だがそれもどういうわけなのか、理由が分からない。
「でもいいわ。名前を呼んでくれたから、許すわ」
シヴィリィが胸元から、俺の頬に触れながらそう言った。
「……まぁ、許してくれるのなら喜んでおくよ、レディ」
そんな他愛もない様子が、神経に触れてしまったのか。眼前のアリナがぐいと剣を振り上げた。
周囲を見渡す。不思議だった。ロマニアにも、アリナにもそうしてヴィクトリアにも不思議な緊張と動揺が見て取れる。
俺が知っている彼女らは、こんな感情を露わにしないものだったが。
そんな中で一番に進み出たのはロマニアだった。
「陛下。その器を気に入りでもしたのかな。それならば己は構わない。見るに、その娘は属領民。己らの内、誰かの血を引いている者だろう。迫害されし者、軽蔑を受けし者だ。
その娘を生かしておきたいのなら、己は何も言わない」
けれど、とロマニアは言葉を続けた。
「――他の者らは、己が殺すぞ。例え君の気持ちが変わっても、五百年前の君の言葉は変わらない。己らはあの頃の君にこそ従ったのだ」
「……ロマニア、お前は」
「君」
俺の言葉を遮るような素振りで、ロマニアが言う。くすりと笑うように、エルフとしての美貌を存分に湛えて彼女は言った。
「――今の君は、己の王か。それともその娘の助言者に過ぎないのか。どちらかな。己の味方か、敵か」
どうやらロマニアは、俺が意識を取り戻した事に気づいているらしい。
彼女の前でどんな素振りをしていたかは今一覚えにないが。それでもそう問われるならば、俺の答えは一つしかない。
「……そうだな。今更お前の王だ何だというつもりはないよ。俺は所詮失敗しただけだ。今ここにこうしているのも、俺というよりもシヴィリィの意志だからな」
「え、私!?」
そうとも。あの日、あの時。あんな事をしでかしておいて。王様面というのは余りに都合が良すぎる話だ。
なればこそ、言うべき事がある。やるべき事がある。
――しまったな、全部忘れたままでいれば楽だった。ただ肉体を手に入れて、適当な人生を謳歌すればそれで終わりだったはずなんだが。
けれどこれが、思い出してしまった以上責任というものがある。それだけは目を背けてはいけない。
大きく、ため息を吐いた。シヴィリィと、二振りの大騎士。そうしてロマニアを見る。
「全ては俺の責任だロマニア。お前達を五百年ここに縛り付けたのも、五百年前女神に誑かされた俺の問題さ。お前が今ここで退くなら、最後には俺が全部責任を被ってやる。お前がもう退けないなら、俺がここで止めてやる」
どうする、とそう問いかけた。
馬鹿げた話だった。やけに迷宮に心が傾くと思ってみれば、そりゃあそうだ。五百年前の決着がここには眠っていたのだ。
だからこそ俺は、シヴィリィに付き従ったのかもしれない。
ロマニアは、その長い耳をつんっと伸ばし。そうしてから呼吸をする様子で言った。
「ほう。責任を、取ってくれるのか――?」




