第百二十四話『世界の亀裂』
耳朶に鋭い音が響いた。魔力が醸し出す音というのは、この世で最も素早く響く。
ありとあらゆる現象に魔力反応はつきものであるからだ。例え無音であるように思えても、魔力反応は敏感に引き起こされているもの。
浮遊城――否、堕ちた城の玉座に座る魔王はその懐かしい魔力の響きに思わず呟いた。
「ガリウスに、グリアボルト……? また喧嘩でもしているのか、奴らは」
何てことない日常の風景をぽつりと零す様子で、魔王は言った。玉座に座り込み眼を細くした姿はよもや浅い眠りについているのではとすら思わせる。
しかしそんな眠たげな眼の前に――苛烈極まる戦場があった。
「『暴風』『結集』『連結』」
大淫婦ロマニアが、三重の詠唱を奏でながら玉座の間に嵐を呼びこむ。
吐息を漏らすような軽やかさだったが、決して容易な事ではない。一つの魔導を成立させながら次の魔導を重ね合わせるのは、二つの思考を同時並行させて走らせるのと同じだ。しかも敵を前にした実践でとなれば、その困難さはおのずと理解できるもの。
これをどれだけ重ね合わせる事が出来るかが、五百年前の魔導使いの戦場だった。重ねる事にのみ意識が囚われれば威力が失われる。威力に集中すれば、重ね合わせる調整が困難になる。
その点、ロマニアはまさしく魔導の名手と言って良かった。不断の鎖を片手で操りながら、片手では三重魔導を用いてみせる有様は魔導使いとして一流の証と呼んで良い。
「――――ふ、ん!」
しかし、相対する二振りの騎士も、やはり一流だった。
ヴィクトリアもアリナも、魔導の技で言うのならばロマニアに及ばない。彼女ほどの緻密さも魔導の構成力も持たない。
しかし、魔導と剣技の組み合わせであるならば彼女らが数段上である。
「剣技――『稲妻断絶』」
アリナの一瞬の詠唱と共に、その姿が掻き消え雷鳴の如き敏捷さで風を斬り散らす。グリアボルトと相対した際、彼女の素早さに追随したのはこれだ。
雷の如き目に留まらぬ豪速で、ただ目の前のものを斬りつける。世界が保存した物理礼式魔導は、人間離れした動きすらも可能とする。
そうしてアリナが前線を支えれば、
「は、ぁあああっ!」
ヴィクトリアが突貫する。少なくとも、剣技において彼女を超越する者は現代に存在しない。ロマニアを殺せるとするならば、彼女の刃がエルフの首筋を断つしかなかった。
白が煌めき、風の合間を縫って大淫婦の肌へと迫る。ごうっと音が鳴り響き、それだけで刃に籠められた魔力の質がどれ程のものか推察できる。
「己を、その程度で捕まえられるとでも? 鉄鎖の渦すら超えられん」
だがその刃は、あっさりとロマニアの不断の鎖に阻まれる。ヴィクトリアはまるで分かっていたかのように刃を引いて、再び間合いを取った。
傍から見れば、一つ一つが凡人では到底届かないほどの攻防だ。僅かな一瞬、視線の一つ、踏み込む速度を取ってすら読み合いが渦巻いている。
けれどそれは、彼女らにとってすれば牽制に過ぎなかった。まだ互いに踏み込みきってはいない。隙を見せるような真似はしない。
ロマニアは二振りの内、一振りでも逃してしまえば次の瞬間には首を刎ねられかねない。必ず二振りを同時に絞め殺せる瞬間を探している。
大騎士らは、安易に片方が討ち取られればそれで終わる事を知っている。その為に互いの刃が重なり合う瞬間を求めている。
彼女らの思惑が、この場での拮抗を生んでいた。
しかしそれもひと時の事。必ずどちらかに天秤は傾き始める。
その圧倒的な光景を、魔王はただ見据えていた。かつての仲間同士の殺戮を、自ら求めて観察する。
「ほう――」
がちりと、歯を鳴らして僅かに笑みを見せた。眼窩が黒い瞳に打ち据えられたかのように歪む。
魔力の流れが変わったことに気づいたからだ。魔力の響きが騒々しい程に打ち鳴らす音を耳にしたからだ。
先ほどと同じように、アリナがロマニアの魔導を斬り払う、そうしてヴィクトリアが前に突き進む構えに入る。そこまでは、同じ。
「――『疾風怒濤』」
次の瞬間、身を守る構えに入ったロマニアを置き去りに、ヴィクトリアは魔王の眼前にいた。
ロマニアのあからさまな、しまったという表情。しかし魔王は、憤るでもなくただ片腕を前へと突き出した。
手の平そのものが魔力の塊。指先が煌めき、空間が痙攣を起こしながら膨大な魔力と魔力の重なりに嗚咽を漏らす。
ぎぃん、という歪な音が鳴り響いたと瞬間に、魔王は振り上げた手でヴィクトリアの刃を掴み取っていた。
「奇襲が上手くなったな。搦め手は苦手だったと思ったが」
「ええ。弱い者は強くなる為にどんな手でも覚えるものです」
ヴィクトリアは刃の重みを感じ取りながら、吐息を漏らした。ここにいるのは未だ亡霊に過ぎないというのに、かつてそこにいた者の姿を思い出してしまったからだ。
まるで火山の間欠泉の如き、周囲の魔力を奪いつくして燃え上がる魔の根源。敗北など欠片も知らなかったはずの魔の王。
刃を掴み取られた瞬間、当然にヴィクトリアは死を覚悟した。しかし意外にも彼はあっさりと刃を手放して言う。
「ヴィクトリア、もう一度聞こう。もう一度だけ聞こう」
唇が、驚くほど滑らかに動いた。立ち上がっているのはヴィクトリアであるにも関わらず、座っている彼に見下ろされている気分になる。
気圧されて床を強く踏みつけながらヴィクトリアは声を聞いた。
「お前は私の敵か、味方か」
どくんと、ヴィクトリアの心臓が跳ね飛ぶ。
その問いかけは、彼からの誘いに他ならなかった。一度その命を手にかけておきながら、それでも尚この場で傅くならば許すとそう言っている。
ヴィクトリアにとって、酷く甘美な言葉だった。酩酊しそうな気分になる。かつて五百年前の頃、こうも自分だけを見て言葉をかけてもらった事はなかった。
ああ、もしも。もしも五百年前。彼の首を取る前にこう問いかけられていれば。自分は今頃迷宮を彷徨う騎士の一人だっただろうと、ヴィクトリアは思った。己を捧げる相手を、己の意志で決められる事は何よりも勝る悦びだ。
けれど、言う。白い刃を再び構える。
「ええ、敵です陛下。人は何時だって過ちを犯す、重要なのはその場で立ち止まらない事だと、陛下が仰ったではないですか。気に入らぬ者、思慮に値しない者など山ほどもいる。それら全てを殺して回る気であるならば、貴方は間違いなく人類の敵です。貴方の王国は墓場になる」
「私はそれで構わない。この世界が墓場に相応しいのなら、全員の棺を引いてやろう」
まるで笑うようにそう言って、魔王は指先を動かした。それが自分を殺す為の指先だと、ヴィクトリアは知っている。剣で相対できるものかは分からない。
それでもこれこそが彼の真意に沿うと、ヴィクトリアは信じていた。魔王となる以前の彼は決してこのような事は言わなかった。
もはや止められはしないだろう。ならば、後は決断を。
断固たる決断を。
呼気を一つ、魔王と大騎士が互いの殺意を交わし合おうとした瞬間だ。
――玉座の間の扉が勢いよく開く。その場の空間に亀裂が入り、ひび割れていくかのように破壊された。
戦場に似つかわしくない少女がそこにいた。僅かな武具と、血にまみれた黒色のドレス。しかし彼女を何より彩るのは、その鮮烈な紅蓮の瞳と、神々しい黄金の頭髪。
一瞬時が止まったように思われた。その場の誰もが、その闖入者に意識を奪われる。
彼女は言った。
「――エレク! 何をやっているのよ。人を散々待たせておいて」
魔王の名を軽々しく呼んで、彼女は玉座の間へと踏み込んでくる。
誰もが呆気にとられる中、魔王エレクが言った。
「――誰だお前は、小娘」
瞬間。
ばちりと、世界に亀裂が入った。