第百二十三話『何者にも成れぬのなら』
鬼の胸元に突き刺さったククリナイフが、魔力を収束して光輝く。風が唸りをあげ、魔力の鼓動を音にするべく土を巻き上げ周囲に散らした。
一瞬の極光が、その場を制圧する。
「っ、う!?」
ククリナイフを操るノーラすら、知らず目を細める。瞳には驚愕の色が走っていた。
魔力の奔流の正体は、シヴィリィから受け渡されたモノの暴発だ。
第六層から帰還した際にシヴィリィは魔導具や神秘といった代物はそう持ち帰らなかった。報酬と言えるものは精々が指輪に――巨人と魔女の祝福程度か。
巨人将軍ガリウスが、魔女侯エウレアがせめてもの助力にと残した魔力の紙片が彼女には宿っていた。しかしそれは所詮、祈りに近しいものに違いないのだが。
ノーラが譲り受けたモノとは、その祝福の一部をククリナイフにしみ込ませただけ。いいや、正確には加工しておいたといった方が良いだろうか。ややも輝きを増したククリナイフは、魔力の底上げになるとは思っていたが。
こんな事になるとは、聞いていない。
もはやナイフに振り回されるようにしながらノーラは歯を食いしばった。
「……馬鹿な」
しかしより深刻だったのは、鬼子グリアボルトの方だった。
胸に刺さったナイフなどものの数ではない。不意を突かれたとはいえ、彼女の鋼鉄の肉体はナイフ一本で死ねるほど柔ではないのだ。
彼女が驚愕したものは、魔力そのもの。刃に纏われた魔力の渦にだ。
反射的に、視界に草原の光景が映った。握り込み振り上げた拳が止まる。
「ガリ、ウス――? いや、そんなはずが」
かつての同輩の名を、鬼の唇が呟いた。初めてグリアボルトと拮抗して力比べを成した巨人の将。魔力の紙片を感じ取っただけではない。まるでそこに、魂があるかのような気配。
同時――。
――グリアボルトの姿がノーラの前から掻き消える。
「が、ぁあッ!?」
魔力の奔流に吹き飛ばされるように、その体躯が建物の壁二つを貫通した。まるでそれこそ、巨人の一撃を受けたかの如く。
「っ、ぐ…………何だい、そいつは」
思わず、衝撃に吹き飛ばされて仰向けに寝転んだグリアボルトがぽつりとが零した。全身には痺れがある。ただ魔力の奔流に吹き飛ばされたというものでは無かった。
この身体の痺れを、グリアボルトは知っていた。かつて受け、かつて感じた響き。
決して現代の探索者が振るって良い力ではない。グリアボルトは眉間に皺を寄せながら放り投げるように言った。
「……そんな所で何しでかしてるんだい、ガリウス。今更そいつらの味方面ってわけでもないだろう」
記憶なぞ投げ捨てて、ただ戦役を続ける事を望んでいた癖に。聖女の優しい嘘の中で、永遠に命を捧げ続ける事を選んだ癖に。
どうしてその魂の一部を、探索者共の役に立てている。
グリアボルトはゆらりと、幽鬼の如き振舞で立ち上がる。
「あんたがそっち側につこうが、誰も許しやしないよ。あたしらも、あいつらも。誰一人、五百年変われなかったんだ。それがどうして今更変われる!」
がちりと、尖り切った犬歯を噛みしめながら失った左眼窩すらも見開かん勢いでグリアボルトが言った。
傷ついた鬼の咆哮は、誰に向けられるでもなく周囲の空間を睥睨する。
「――何の話か、知らないけどさ」
答えたのはかつての同輩ではなく、相対したノーラだ。今グリアボルトが吹き飛んだ意味も、ナイフから零れだす魔力の意味も掴みかねている。
何故このような事になったのか、シヴィリィも一体何をしでかしてくれたのだ。
そんな事を胸中で愚痴りながらも、ノーラはグリアボルトを見据えた。
「人は変われるよ。只人でも、鬼人でも、巨人だろうと。その気があるなら、一秒の先にだって変われる。変われないのは何時だって、ただ自分がそう願っていないからさ」
「言うねぇ、お嬢ちゃん。じゃあこう言い直そうか」
再び、グリアボルトが拳を構えた。呼気を吐き、吸い。身体に流れる痺れを落としながら言った。
「――あたしは変われない。それはあの方を裏切る事になる」
火傷するほどの憎悪の煙を吐きながら、グリアボルトは目つきを強めた。指先に魔力を込める。目の前に見えるはただの探索者とはいえ、先人の力を借り受けている。
なればこそ、次の一手で念入りに打ち殺す。
相対して、ノーラがククリナイフを構えた。巨人の祝福を授けられた、小柄なナイフは皮肉なまでに輝いている。
「そう、じゃあ仕方ない」
「そうだ、仕方ない。仕方ない事さ。世の中、そんな事ばかりだ。うんざりする」
それで、呼吸合わせは終わった。互いに互いの事しかもう瞳に映っていなかった。
ノーラの銀が美麗な線を描き、音も残さずに空間を奪い取る。その技巧は弛まぬ鍛錬の果てにあるもの。
反面グリアボルトは豪快だ。まるで拳一つで世界を砕き散らすかのように。一直線に敵へと向かう。
きっと彼女と相対した誰も彼もが言うだろう。
間合いなど意味がない。読み合いなど虚しい。殺し合いなど成立しない。
それこそが、鬼子グリアボルト。
彼女の腕に渦巻かれる魔力が、ぐにゃりと距離を歪める。
縮地。間合いを殺し、暴力をそのまま敵に打ち込む魔技。
それはある種、彼女が全力を振るった証。
しかし言えば焦燥でもあった。思いも寄らなかったかつての同輩の気配に、グリアボルトはこの戦いを早く終わらせる事を選んだのだ。
正しくはある。勝負事はどんな紛れが起こるかは分からない。実力差があるならば、早々に片付けてしまうのが一番だ。
――けれどやはり、まだグリアボルトはノーラを甘く見積もっていた。
魔力を行使しても魔導には結実させず、放ったのはただの拳一つ。
ノーラが、がちりと歯を鳴らした。彼女は瞬きの一つも許されない。空気の色を、音を感じた。目で拾い、耳で拾う。どうせ鬼の一撃を、見てから判断するなどというのは不可能だ。
ならば、見る前に判断しなければならない。
風はどう動く、空間はどう歪む。ただの一度も目を離さず、ただの一度も気を許さぬ。
不思議だった。グリアボルトにため込んだ魔力を突き放ってやったはずであったのに、自身の指先にまで魔力が噴き上がってくる。
そんな過集中と、魔力の発露が一つの道を呼び起こした。
――目の端に、空間の歪みが見えた。
宙を切り裂くように、距離すら奪い取って牙を見せるグリアボルトの衝撃。あるはずの空間を捻じ曲げてしまうイカサマ。
「ッ、ぅ!」
その出鼻を見た瞬間、ノーラは極端に身体を低くして避ける。いいや、彼女自身はそれが避ける為の予備動作などと知り得ない。ただ脊髄が、感じ取るままに反応を起こしていた。
そうして身を低くしたままの小さな体が、銀を纏いながらぐいと線を描いた。無理な駆動をした所為で背骨が軋み、腕はへし折れんばかりに嗚咽をあげる。だが構わなかった。
ノーラにとって、痛みは怖くない。死ぬのだってまるで怖くない。
怖いのは、自分が何者にもなれぬかもしれないという事だけ。自分がただ、時間だけを貪って骨となって死んで行ってしまうかもしれない事だけ。
だってそうだろう。もしもこの人生が一切の結実を齎さず、ただ生まれ骨になるだけの生涯だったとするならば。
――日々続く苦痛も、耐えがたいほどの劣等感も、噛みしめた屈辱も、涙したくなる恥辱も、血に伏した敗北すらも、何の為にあったのか分からない。
「――ぁ、がぁああああ!」
もし何者かに成れるのなら。この場で死んでしまったって構わない。胸を焼け焦がすほどの英雄願望の果てが、このノーラという少女の正体だ。だから今もなお、こんな無謀を成してしまっている。
地を這うように駆けるその有様は土に塗れ驚くほどに無様で、美麗とは到底言えない様子だったが。
――まるで地の底から宙を穿つような軌道を持って、刃は鬼の首に向け疾駆した。




