第百二十話『魔王と大淫婦』
玉座の間。魔王と対峙するは二振りの大騎士。勝利のヴィクトリアと戦役のアリナ。
共に到底万全とは言えない、ヴィクトリアに至ってはすでに英雄ゲイルと一戦を交えたばかりだ。
けれど、だからといって退く選択肢など彼女らにはない。二振りの大騎士は、勝利を義務付けられた人類にとっての最後の奇跡。唯一無二の暴力装置。
ヴィクトリアが白剣を腰元に構えたまま、玉座から身動きをしない魔王と対峙する。
「そうか、そうか。つまりお前も敵か。雄壮なる勝利の騎士」
「残念です、我が王。このような形で貴方と相まみえるとは」
心の奥底からの、真実の言葉だった。そこには諦念も、悲哀も含まれている。
自分の判断は誤りだったのか。今度こそ共に在れるというのは勘違いだったのか。それとも、まだ全ては過程に過ぎないのか。
そんな想いの全てを、ヴィクトリアは後ろ髪を引かれながらも断絶する。
同じ事が百度あれば、百度同じ判断をするだろう。人生における決断とは、そういうものだ。ならば今成すべきは迷いではなく、次の決断。
この場において、必ずや勝利する事。
「アリナ。魔導行使は出来ますね」
「無論だ。その為にここにいる」
ただの一言で、二振りの大騎士の意志が噛み合う。反りが合う二人ではなかったが、それでも戦場での呼吸は互いに弁えていた。
二振りが、呼吸を合わせたまま自らを睥睨する魔王へ踏み入らんとした瞬間だ。
――巨大な鎖が、数多の鎖が、二振りの周囲を覆い囲う。
「誰に断って、陛下に謁見を成そうとしているのだね、君たち?」
大淫婦ロマニア=バイロン。魔王を追走していたはずの彼女が、事ここに至ってその『不断の鎖』を悠々たる振舞いで騎士へと向ける。
魔王に対し想う所があれど、彼女が誰の味方であるのかは変わらない。
それこそ、五百年も前から。
「ッ!」
白い線が円を描いて宙を走る。ヴィクトリアが剣を腰元から抜き放ち、そのまま鎖を跳ね飛ばしたのだ。アリナとて同様に動いていた。
時に躱し、時に叩き伏せ。嵐の如き鎖の雨を見事に地に伏させていく。
一度捕まれば終わりだと血の記憶が告げていた。これはそういう類の魔導なのだ。
二人が鎖の領域から間合いを取り、再び剣を構えなおす。流石と言うべきか、そこにはかすり傷の一つもついていなかった。
「ロマニア=バイロンッ! 貴君はこれが正当だと言うのか。王の言葉を忘れたとでもッ!」
「王がおられる。王が決められた。これ以上に明瞭な答えが何処にある?」
「それが、かの女神の暴論に耳を貸された結果だとしてもか」
アリナの咆哮の如き言葉が、玉座のすぐ傍に立つロマニアに突き刺さる。
美麗なロマニアの眼が透き通って見えた。神が芸術として造り上げたと言っても過言ではない唇が、ゆっくりと跳ねる。
「だから、どうしたんだ。だから、なんだというんだ? アリナ。君の言わんとする所は理解しよう。けれど結論は決して変わらない。――それに己が信じられないのはむしろ君らだよ。よもや、王を裏切ろうとは」
ロマニアは、苦虫を噛み潰すような素振りで言った。
整えられた顔つきが悲哀に沈んでいく。彼女がそれだけ感情を露わにする時点で、骨髄に至るほどの情動を自分達に抱いているのがヴィクトリアには分かった。
しかし、だ。ヴィクトリアは一歩を前に出て、白剣を再び構えて言う。
「私達の目的は、大陸に生きる者達を守る事であったはずです。建前であれ、理想であれ、それこそが何より希求したものでありました。魔物に食らわれた同胞を、家族を取り戻す為と。
――魔物を大陸より駆逐して尚、大陸を二分する大戦を引き起こす必要が何処にあったのです。一度始まれば、大勢が死んだでしょう。数多の文明が途絶えたでしょう」
それは、決して王の望むものなどではなかった。そう言葉にして告げられさえした。
それこそが、朧気な記憶の中で明瞭に輝く至上の記憶。だからこそ成さねばならなかった。だからこそ遂げねばならなかった。例え決して望むものでなかったとしても。
それは性格も意志も異なる四人の大騎士らが、唯一共有する記憶であり記録だ。
けれどロマニアはそれを聞いて、反論するのではなく大きく吐息を漏らした。
不機嫌そうに、不愉快そうに。形の良い眉を上げて、言う。
「ありがとう。実に人間らしい傲慢な言いぶりだ。不愉快でたまらない。そのような事を君らが言えるのは、君らが人間であったからだ。君らが亜人では無かったからだ。まぁ、それでも君らは奴らと比べればマシな方だがな」
最古種族たるエルフの姫君は悠然とした口ぶりで、地獄の底からこみ上げてくる呪詛を吐く。
けれどヴィクトリアとアリナは、それがどういう意味か理解が及ばない。奴らよりマシとはどういう意味か。彼女らの記憶には該当しない言葉だった。
しかし聞いた瞬間、眩暈がした。
聞いてはならないと、血ではない何かが告げるような。全く別種の警告を頭蓋に纏わりつく何かが発しているかのような。
ロマニアは、王との約定を破らぬよう言葉を整えながら言った。
「……そういえば君らは、戦場働きばかりだったな。では聞こう。内地の連中が己らに対し何と言っていたか知っているのか? スレピド、グレマール、ポルアが。その領民が何と言ったか」
その名は、三大国を作り上げた者の名だった。それぞれが大国スレピド、魔国グレマール、商国ポルアの始祖だ。無論ヴィクトリア達が知らないはずがない。
しかし、どうしてここで彼らの名が出て来るのかが分からなかった。彼らは唯一の王亡き後、それぞれの領地にて公国を作り上げ、大陸の安定化に寄与したものらだ。
栄誉と栄光を、掴んだ者の名。歴史に刻まれた名。
「貴方は、一体何を――」
ヴィクトリアとアリナの茫然とした表情に、ロマニアは一つを知ったらしかった。
「――ハ、ハハハ! アハハハ!」
本当に愉快でたまらないという風に、笑う。眦に涙すら貯めて、それが嘲笑なのか、それとも別の感情の発露であるのかロマニアにすら分からない。
続けて彼女は、吐き捨てるように言った。
「そうか、知らないのか。――奴らは、戦場にいた君ら以外の人間はな。己らを魔物とそう変わりはないと評していたぞ。戦が済んだなら、奴隷か二等市民にすべきだと、それが大陸の安定化のためには必要だとな。流石、属領民などという唾棄すべき制度作った連中だ」
「――ッ!」
目を見開いたのはアリナだった。騎士剣を握る両手に無用な力が籠る。ロマニアを見つめる瞳が僅かに揺れ動いた。
――属領民という実質上の二等市民制度が作られたのだ。そこに何かしらの思惑があったのは想像がつく。そこに悪意が紛れ込んでいたのだろう事も理解出来る。もしかすれば、そういう言説が当時にもあったのかもしれない。
確かに王ならば、いいや彼だからこそ、それを聞いたが為に女神の囁きに傾いてしまってもおかしくはない。
けれど、
「……それが為に、彼ら全てを殺してしまえと?」
「そうだな。そうすべきだった。やはり王は正しかった。今の惨状を見れば己もそう思うよ――」
「――ロマニア。それは」
ヴィクトリアが、口を挟みかけた瞬間だ。彼女はすぐに言葉を失ってしまった。
ロマニアの大きな瞳から、涙が流れていたからだ。エルフが涙を流すなど、百年の間でもそうある事ではない。思わずヴィクトリアの唇が押し留まる。
「……見てみろアリナ、ヴィクトリア。五百年だ、五百年彼らは変われなかったじゃあないか! 何人の魔女が火刑に処された! 何人の巨人が毒を飲まされた! 何人のエルフが情欲の奴隷にされた! 何人が狩猟の遊び道具にされた!
己たちは痛みを感じないのか? 嘲られても何も感じず、侮蔑されても笑顔である事が出来、尊厳など持ってもいないとでもいうのか? 同じものを食べ、同じ感情を持ち、同じ大地を歩く隣人ではないとでもいうのか!」
ロマニアの魔力が、空気を震わせて咆哮をあげていた。
もはや彼女の言葉、表情、仕草の一つ一つが彼女の憤りであり、悲しみであり、絶望であり、生涯そのものだった。
「分かり合う事など不可能だ、君ら。五百年間もの間、彼らは己らを隣人として見てはこなかった、墓は暴き立て男は殺し女は犯した、文化も宗教も踏みにじられた。
もはや、どちらかが滅びなければならない。己は彼らの血と肉で大陸が埋まるまで、地獄の底から呪詛を吐き続けてやろう! ――我らの王よ、どうかそうせよと己にお命じください」
ロマニアがただ一人、王に視線を配った。
人間でありながら魔の頂きに立ち、亜人に戴かれ、この迷宮の主人である者。
彼は眼窩に埋め込まれた黒い瞳を開きながら言った。頬杖を突いて、実にくだらないとでも言うように。
「五百年前に命じたはずだぞロマニア。――微塵の躊躇もなく皆殺しにしろ。ただの一人も残さずに。私が守るべき民は、もう残っていないのだから」
魔王が、そう命じた。
「――仰せのままに、我が王」
大淫婦は、そう応じた。
もはやそこに、かつて大陸を制した王と姫君の姿はありはしなかった。




