第百十九話『人たる者』
アリナ=カーレリッジが瞠目する。彼女の中に眠る始祖の血が脈動する。
この城は彼女にとって、カーレリッジの血にとって余りに過去を想起させ過ぎた。
一歩を踏みつける感触が、扉を一つ越える感覚が、未だ青き若葉であった日々を思い起こさせる。
そうして、その全ての記憶が警告を発していた。けたたましく、騒音を打ち鳴らすように。
――王に傅き、拝謁せよ。
心の音を、歯を食いしばりながら噛み殺す。それでも尚聞こえてきた。
仕方がなかった。今アリナが見ているものは、五百年前の再現だ。
玉座に一人が座し、そうして自身は剣をもって踏み込む。その先に座する者はありとあらゆる名で呼ばれた者。
栄光者。不死者。魔導を知る者。破壊者。――魔の王エレク=レイ=エルピス。
迷宮の名を冠する者。
「ロマニア。懲りないなお前は」
魔王が眼窩に嵌め込まれた黒い双眸で、勢いよく放たれた大淫婦ロマニアの『不断の鎖』を見つめる。
彼はぐるりと自らの腕でそれを絡み取り、玉座に座ったまま勢いよく引き込む。もはや逃げる様子すら無かった。
もう彼は、違うのだ。ただ魔王の姿かたちを保っただけの存在ではない。この城が、玉座が――女神が、彼を引き戻してしまった。
「ここが何処だと思っている。私の最期だ。私が最期まで保持したたった一つの領地だ」
瞬間、詠唱すら必要とせず魔王の魔力が起動する。全身を駆け巡り、世界に干渉し、『不断の鎖』を末端から破壊していく。
魔導は世界に理不尽なる超常の現象――即ち奇跡を認めさせる事が根幹にある。
そうする為に最も大事であるのは、場を自らの魔力と理に馴染ませるという事だ。例えば陣地、例えば結界、例えば――領土。
全世界に魔導を認めさせ証明する事が出来ずとも、自らの領域内でのみ発動する魔導もある。異端礼式と呼ばれる、ごく一部の条件下でのみ使用可能な奇跡。
そこまではいかずとも、自らの領域であれば魔導の出力が強化するのは当然の事だった。五百年前の戦場では、魔導使い達は如何に自らが作り出した領域に相手を引きずり込むかに拘泥したもの。
――そうしてここは魔王の領地だ。
先ほどまでは魔王を呑み込まんばかりだった鎖の束が、無残にも千切れ跳び、ただの魔力に分解されて消え失せる。
「――そうか、やはりか。だから、ここには連れて来たくなかった」
ロマニアが呟くように言った。
そこにはもはや狂気の色合いが弱まり、がちりと歯を噛んでいる。しかし魔王は気にすら留めず頬杖を突いた。
「ロマニア。別に私はお前に思う所はない。私の玉座を守り通してくれたんだろう。流石だ、流石は最古種族の姫君」
そう言ってからすぐに、黒の眼がぐるりと動く。視線に貫かれてやっと、アリナは自分が一歩も動けていなかった事に気づいた。
間合いを測っていたのでも、様子見をしていたのでもなく。ただ意識が固まっていたのだ。その合間に魔導の一つも放たれていれば、呆気なく彼女は絶命していた。
けれど魔王は、言葉を放つのみ。
「アリナ。そう、アリナ=カーレリッジ! 果敢なる戦役の騎士。話す事を許そう。聞きたい事は山ほどあるが、まずは一つだ。――どうしてお前は五百年前のあの日敵に回り、私を殺した?」
どくんと、アリナの心臓が高鳴った。詰問ではなかった。純然たる疑問を問うている口調だ。
玉座は彼に多くのものを齎したが、それでも完全な記憶だけは与えなかったらしい。当然だとアリナは思った。何故ならその記憶を幾つもに分割したのも自分達だからだ。
彼が復活せぬように、二度と眼を開く事ないように、再び彼を殺さなくて良いように。
「……王が、それを仰るのです、か。他ならぬ、貴方が……っ!」
必死に奥歯を噛みしめながら、敵意を零さぬように両手で騎士剣を握る。そうでなくては心の何処かが、血と記憶の断片が、かつての王に傅く事を求めてしまうからだ。
恐らくそれは安寧であり安息だろう。そちらの方がどれほど心地よい事か。
しかし、けれども。
「私が、何だ」
「――かつての王は仰られた。王が道を誤られた時、王がその魔導を人類へと向けた時。自身を討てと! 我が愛の為に、己はそれを成す!」
アリナは騎士剣を振り上げる。そうして一瞬呼気を止めたロマニアを置き去りに一足で間合いを詰めた。
眦にはごうごうと唸る感情が滾っている。
最も問われたくない問いを、最も問われたくない相手から突きつけられたのだ。
あの日の光景、感情、記憶がアリナの視界に鮮明に映り込んでくる。
「貴方がッ! 女神の言葉に耳を貸しさえしなければ――ッ!」
「――そうか。我が騎士。つまり、お前は私の敵であり続けるわけだ」
アリナの剣閃は、やはり人類をとうの昔に超越していた。
踏み込む速度は神速そのもの。斬りつける一撃はただの剣撃ではなく、もはやただそれだけで魔導と同質。一挙動で二点を斬りつける芸当すら可能とする。
五百年。人間にとっては余りに長い年月を、カーレリッジの血筋は積み上げてきた。何代も、何代も。その血を濃密に、その武技をより高みへ。始祖たる騎士の在り方を失わぬために。
アリナはヴィクトリアほどの血の濃さがなくとも、紛れもなく大騎士たる素養を収めている。凝縮された魔力は、何者をも切り裂く刃。
――だが悲劇であるのは、かつて始祖たる騎士は四人をもって初めて魔王に膝をつかせたという事だ。
「実に残念だ。所詮、お前は紛い物。かつての騎士ほどではない。お前はただ躾けられた猟狗だ」
ただの一瞬。確かにアリナはその言葉を聞いた。
王は両手の指先を組んだまま、玉座に腰をおろしていた。戦う態勢ですらない。
猟犬。その言葉に血を熱くし、アリナが剣を振り下ろす、その瞬間。
「――狗め。使い走りの狗ならばそれらしく、吠えるだけにしておけ」
同時、アリナの視点が反転し、明滅する。
見えたものは黒だった。黒い魔が間合いを盗む様に近づいて、自らの身体を粗暴に掴み取り。
そうしてあっさりと床板に叩きつけられた。玉座の間の赤い絨毯に血が弾け、衝撃に耐えかねて石造りの床が形を変える。
それでは終わらなかった。魔王は玉座に座ったままアリナの腕を引き込み、その顔を見ながら言う。
「答えろ。お前が知っている事全てを頭に思い浮かべるだけで良い。それだけで十分だ」
アリナは再び、眼を見開いた。痛みによってではない。今、魔王が何をしようとしているか気づいたからだ。
記憶の吸収。相手の知識を、記憶を全て吸い尽くすかつて魔族が用いていた業。人類種には扱えなかったはずの秘技。
アリナが一つの覚悟を決め、剣で自らの首を掻き切ろうとした瞬間だ。
――白い閃光が、室内を走る。
羽根を広げるが如き異様の騎士鎧。真っすぐに添えられた無銘の白剣。ただ体内から漲る高密度の魔力。
「お前は――」
勝利の騎士、ヴィクトリア=ドミニティウスがそこにいた。室内に飛び入り、騎士剣を両手で握り込み、琥珀色の瞳を炯々と光らせている。
彼女が剣を振り下ろす。それは剣撃ではなく、魔力を放ち穿つためのもの。対象も決められずに放たれたそれはただ玉座の間に光と衝撃を振りまく。
それで良かった。それだけで良かった。
「――すまない、感謝する」
アリナがその一瞬に魔王の腕から解き放たれ、再び両脚で地面を踏みつける。ヴィクトリアと並び立つようにしながら、騎士剣を構えていた。
「いえ。それに今は、そのような事を話す場合ではありませんよ」
騎士の二振りが、玉座の間に踏みいでた。まるでかつての再現をするように。かつての滅びの日を振り返るように。
「ヴィクトリアか。お前も狗で、私の敵か?」
魔王の問いかけに、ヴィクトリアが答えた。
「いいえ、誰もが一人の人間です。我が王よ」




