第十一話『レベル1』
壁を砕く轟音。瓦礫が弾け飛ぶ様は土砂崩れを彷彿とさせる。
オークが突き出す石の巨剣が、荒々しく大広間の壁を打ち破った。石剣はその刃身だけで人間一人と同じほどの大きさがある。それを片手で軽々と振るい落とすオークの膂力がどれ程のものか、もはや想像するまでも無かった。
濃い緑色の身体は巨剣に相応しいだけの背丈を有し、雷光の如き双眸をぎらぎらと輝かせている。全身から漲る魔力が滲み出していた。
探索者を何度も狩り続け、とうとうクエストからも除外された規格外れのオーク。
口元から鋭い牙を突き出しながら、彼が吠える。
「――ォォォオオッ!」
瞬間、悪鬼は跳んでいた。巨体も振り上げた石剣も意に介さず、床板を踏み抜いて軽快に空を跳ぶ。石剣は真っすぐに俺達に狙いをつけていた。
完全な奇襲。バックアタックでこそないが、こちらの態勢は崩れ切っている。ノーラがククリナイフを持って迎撃するのも、リカルダがクロスボウを構えなおすのも間に合わない。
最悪は、この一振りで全滅する。――瞬きの間、それを拒否する思考が芽生えた。彼女ら全員を生かすにはこれしかない。
亡霊の身体を咄嗟に前に出し、指先に魔力を集中させる。指先が煌めいた。当然ただの魔力光であり、そこに威力はないが一瞬の目晦ましにはなる。
オークの石剣が俺の光を拒絶するように一瞬軌道をずらし、空で俺の霊体へと突き刺さる。痛みはないが、僅かな衝撃が俺を襲った。
「シヴィリィッ!」
奇襲の最中、唯一俺の声が聞こえていたシヴィリィが指先を構えていた。頬をひきつらせながら、整わない声で目を瞑りながら叫ぶ。
「魔導――秘奥『破壊』!」
空を走る閃光。一瞬の沈黙。次の瞬間、宙を跳んだオークの身体が爆音を発しながら弾き飛ばされる。シヴィリィの破壊は、アークスライムの時より威力を落としながらも、巨体の襲撃を防ぎきった。
だが、状況は良くない。最後目を瞑った瞬間に、外してしまった。アレはオークにとっての致命打ではない。
オークは弾き飛ばされながらも受け身をとり大広間に膝を降ろす。その相貌の右半分が砕けていた。肉と骨は破壊され、黒血が一瞬の間を置いて噴き出す。しかし彼は不敵に唸りをあげる。残った左目は強い光を帯びていた。重い口がゆっくり開く。
「油断したわ。混ざり者と餌の匂いで釣られたか。ぐぅあははは、未熟よな」
オークは、人語を解した。即座に、多くの探索者がこれに命を刈り取られた理由を察し取る。
待ち伏せをする探索者の不意を突く選択が出来、巨体をものともしない軽快さを有し、智恵を持つ魔物はもはや狩る為の生物ではない。人間や亜人といった人類種にとっての天敵だ。
もはやこの時点でこのオークは間違いなく、レベル15相当。それは人類種にとって、頂きに近しい。
「っ! ありがとう、助かった」
オークの人語に瞠目しながら、ノーラは棺を乗り越えて前に出る。眼前の脅威がどれほどのものか知っていても、前衛は自分一人だという自負心が彼女を突き動かしている。リカルダも探索者として、そうして傭兵としての心得をよく承知していた。
奇襲を受け逃走が不可能になった瞬間、戦うしかないのだという事を。
「乱暴にしますので、離れていてください――ッ!」
ノーラが前に出る前に、リカルダの矢は射出されている。シヴィリィが魔導を放った瞬間、彼はもうクロスボウを構えなおしていた。一矢が、オークの喉に突き刺さる。二矢目が残った左眼を狙ったが、僅かにずれてオークの頬を抉る。
鋼鉄を誇るオークの身体も、ガーゴイルのように全身が石というわけではない。関節があり動き回る生物である以上、人体同様必ず柔らかい箇所が出て来る。
しかし立て続けに襲撃を受けてもオークは僅かに勢いを失ったのみで、血を口に含みながら醜悪な顔をくしゃりと歪ませて笑う。
「痛覚が鈍くとも、普通なら多少は効くでしょうに」
「舐めるな。餌の分際で生意気よなぁ。久しぶりの餌だ。生で食うてやろう」
乱暴に矢を抜けば、ぷすぷすと音をさせ黒血を蒸発させながらオークの肉が修復されていく。シヴィリィに魔導で破壊された骨や肉は別としても、矢傷程度なら魔力を注ぎ込んで治癒できる。
尖った歯をがしゃりと重ね合わせながら、オークは舌なめずりをして恍惚の瞬間を想像した。しかしその正面に、小柄な戦士が立ちはだかる。
「餌は君の方だよ。魔導――付与『巨躯の剛力』」
細い腕、小さな体躯。しかしその身体に、ガーゴイルすら鎧袖一触にする剛力が宿った。二振りのククリナイフはオークの強固な頸椎をも両断するだろう。
それを見ると同時、シヴィリィの肩に手を置く。
彼女は息を荒げながら汗を頬から垂らし必死に呼吸を整えていた。迷宮の壁を崩すのと、オークに穿ったので合計二発。幾らコントロールを補助する魔導具を身に着けていても、基礎が疎かな彼女では短時間での連発は体力と精神がもたない。
しかし彼女の瞳は折れていなかった。紅蓮が炯々と光続けている。
「よく狙えよシヴィリィ。今のお前に、ノーラとオークの合間を縫って魔導を当てるなんて真似は不可能だ。彼女の魔導が切れる瞬間を狙え」
本当はこのオークが敵ならば、俺が相手をしてやるのが合理だ。彼女が生存し俺の目的を達成するためには、それが正しい術だというのは明白。けれど彼女は、自ら指を構えた。汗を垂らし、息を荒げながら。
「は、ぁ――っ!」
ノーラが二振りのククリナイフを扱いながら、オークとの間合いを詰め続ける。一振りを回せば、次の一振り。回転演舞のように、彼女はオークの肉を血を剥ぎ取っていく。魔導が与える力は人類種の常識を飛び越えて彼女を強靭な戦士としていた。
しかし、それでもオークは尚立ちはだかる。
「混ざり者は、所詮混ざり者よ。わしと違い、紛い物の力でしかないわ。嬲り者にしてくれよう」
「――僕をその名で呼ぶな」
オークは回転しながら間合いを詰め続けるノーラに対し、石剣で相対しながらも無理に攻めようとしなかった。もしこれがただのオークなら、道中のガーゴイル同様迷いなくノーラに突貫しその身体を斬り裂かれているはずだ。
傷は与えている。しかしそのどれもが、即座に魔力で修復できる程度のもの。強く踏み込んでしまえば、逆にノーラが絶命する。
八秒が経過した。ガーゴイルと相対した時よりややも早く、ノーラの魔力が急速に失われていくのを感じる。やはり彼女の疲労も完全に抜けきってはいない。オークが歪んだ醜悪な笑みを浮かべる。石剣を振り上げながら、ノーラへと迫った。
魔導で作られたものではない純正の剛力が宙を斬り裂く。
しかしその一瞬を、ノーラは待っていたのだ。
剣を振り上げれば、必ず下半身が開く。ノーラは最後の魔力を振り絞り、オークの両膝を砕いた。そうなればもはやオークは身動きが取れない。後は上半身に――待機していた火力が集中する。
「――――フゥッ」
「『破壊』」
破壊の閃光と、頭蓋を穿つクロスボウの矢が同時に射出される。
規格外であれど、これで死ぬ。前衛と後衛の連携は噛み合い、彼らはレベル以上の事をした。格上相手に尽くせるだけの手を尽くした。それを認めよう。
その上で俺はシヴィリィに囁いた。彼女の頬はびっしょりとした汗に塗れている。魔力の大部分を使い果たした証だ。
「替われシヴィリィ――潮時だ」
紅蓮の瞳が、見開く。視線の先でオークが牙を剥きながら――詠唱をした。
「魔導――火術『火球』」
炎が、破壊の鼓動と矢を呑み込んでいく。炎は矢を燃やし尽くしながらも、しかしすぐに絶叫をあげた。破壊を前に、その身を構築し続けられる魔導は存在しない。有象無象を問わず破壊する無二の魔導。
しかし、欠点はある。それは対象より先に触れるものがあれば、先にそちらを破壊してしまう点。魔力を増大させれば次から次へと破壊を続けるが、シヴィリィの魔力では限度がある。
炎が砕かれ、破壊されて崩壊する。後に残ったのは、魔力を使い果たしたノーラと、前衛という盾を失った後衛たち。
このオークは間違いなく傑物だ。しかしただ迷宮で生まれたにしては、他の魔物と差異がありすぎる。生まれる階層を間違えたか。それともアークスライムの時のように仕掛けをした者がいるのか。
ここで殺して、その魔力に聞くしかない。シヴィリィの身体に強く触れる。その身体を借りようとして――シヴィリィが首を横に振って拒絶した。当然、身体は本来彼女のもの。彼女が本気で拒絶をすれば、亡霊がつけ入る隙はない。
「ごめん、待って」
思わず、シヴィリィの顔を見た。心境は分からないでもない。彼女が意志を折り曲げるのが嫌いなのは承知の上だ。だが結局、この世には意志だけではどうにもならない事がある。
偉大な正義も、無垢な理想も、完璧な信仰も。たった一滴の不条理に押し潰される事がある。
「思いついたの」
しかし、俺を見たシヴィリィの瞳は全く汚れていなかった。世の不条理など、吹き飛ばすような清らかさで言う。
「――私、勝ってみせるわ。思い知らせてやる。だから、私に手を貸してエレク」
レベル1に上がったばかり。経験はアークスライムの魔力の残り香を吸った程度。
その少女は、遥か格上のオークを睥睨する様子で口元を引き締めた。




