第百十八話『王者の心』
ロマニアが『不断の鎖』を振り回し、それが束ねられ大蛇となって口を開く。鉄の匂いが鼻孔を突き、同時に城の一部を食い荒らしていった。
捕らえるというよりも、もはや俺を殺さんばかりの勢いだ。どうやら随分と恨みを買ってしまったようだった。俺は間違った事を言った覚えはないのだが。
しかしどうすべきか。逃げ延びる事は出来ても、完全にこの鎖を破壊し尽くす事は難しい。かと言ってこのままではじり貧なのは確か。
過去にも似たような事はあったはずだが、どうやって抑え込んだのだったか。中庭を靴の底で叩き、一息をついた頃合いだ。
――空気を沸騰させるほどの殺意を感じた。
首筋を貫く所か、俺の全身を頭の先から切り裂かんとするほどの視線。咄嗟に振りむけば、そこに在るのは騎士剣を掲げた朱色の鎧。
「は、ぁあああ――ッ!」
戦役の騎士。
不覚だった。まさかこうも近づかれるまで気づかなかったとは。ロマニアに気を取られ過ぎたか。魔力の薄い身でまともに相対するのは不味い。
すぅっと呼気を吸う。身体を半回転させ、騎士剣を半身で避けながら騎士の腕を叩く。
いっそ篭手ごと叩き潰すくらいの勢いだったが、抗魔の術式でもかけてあるのか。さほどの効果はなさそうだ。
「何故、貴君が。貴様が蘇っている――ッ!」
戦役の騎士は、振り抜いた剣を一回転させるようにして構えなおし、僅かに間を取ってから言った。
そういえば、そうか。魔力で実体化した俺の身体は彼女にも見えている。騎士たる彼女が、俺の身体に見覚えがあってもおかしくはない。
しかし、
「悪いんだが、俺はお前を余り覚えちゃあいない。それに暇でもないんだ」
「は、ぁ……!?」
そんな無駄話をしている間にも、ロマニアの鎖が今度は鞭となって空を打つ。大騎士と絡み合ってくれればと思ったがこちらしか眼中にないか。
そういえば昔から一つ物事の集中するとそれにしか頭が働かない奴だったな。とはいえロマニアと戦役の騎士、二人を相手にして捌き切れるほど俺も余裕がない。
「――貴様、貴様ァッ! 己がどのような想いでッ!」
戦役の騎士が騎士剣を大きく振り上げる。こうならば、出来る事は一つだ。
中庭を強く蹴るようにしながら、ロマニアが砕いた城の壁から再び城内に入り込む。幸い見知った城だ。どこをどう動けば逃げ切れるか位は身体が覚えてくれている。
化物クラスの女二人を敵に回しても暫くは逃げ切れるはず。あくまで暫くは、だが。その内に策を考えるしかない。
飛び跳ねて城内へと逃げ込めば、すぐに背後から怒号と衝撃音が聞こえてきた。
しかし過去の俺も、もう少し仲間にする女は選んだ方が良かったな。今から五百年前に戻って忠告してやりたい。その所為でお前は後々苦労する事になるんだと。
「……まぁ、とはいえ昔も同じ事をした記憶があるが」
頭を回す為に、知らず軽口を叩く。押し黙っているよりも、こちらの方が思考が明瞭になった。
そうだ。昔、五百年前も同じような事があった。城内には敵が入り込み、俺を追う連中がいた。俺は――そうだ玉座にいた。
咄嗟に、それの存在を思い出す。城ならば当然あるべきはずのものなのに、ロマニアも殆ど触れはしなかったそれ。
しかしあそこならば、俺が勝手を知る場所だ。特別な脱出経路も作っていたはず。逃走中には絶好の場所だろう。
脚を駆けさせて、右に曲がる。次に階段、次は左。
敵に攻め込まれても良いように、玉座は常にすぐに辿り着かない場所にある。とはいえ、城内に敵が入り込んでいる事自体がもはや滅亡の証なのだが。
そうだ。あの時はまさしく、滅亡の憂き目にあっていた。だというのに奇妙に落ち着いていたような、そんな記憶があった。
数分も経たない内、記憶の中にあった玉座の間へと辿り着く。重厚で堅い木で出来た扉がそこに鎮座し、決して開かぬように閉ざされている。
その扉に触れようとして、気づいた。
そういえば、記憶を取り戻そうと思うのならば最も早く来るべき場所であるにも関わらず。まるで避けるようにしていたのは何故だろうか。
扉が不思議に重い。まるで魔導で固定化されているかのよう。しかし魔力は一切感じない。
ゆるりと、扉を押し開けた。瞬きの間の事であったのに、妙に時間がかかったように思える。
「昔のまま、か。装飾も、玉座も」
見た目に代わる所は一切ない。埃すら積もっている様子は無かった。
違いは、ただ誰もいないだけ。あの頃は人が絶えなかったこの玉座の間は、今は孤独で空白に耐えている。
五百年の時を刻んだというのに、この場だけはありとあらゆる時の流れから取り残されているかのようだ。
「ふ、む」
何だろうか。心がざわつく。内臓の裏側がひっくり返された気分だ。決して見るはずがないものを、眼にしている気分だった。
空気は深刻そうに静寂を保ち。そうして厳粛に、ただ一つの椅子が俺を迎えている。
不意に声を思い出していた。かつてこの玉座に座する前。俺に声をかけた奴がいたな。
そいつは人間ではなかった。亜人でもなかった。だがこの世で初めて、俺を導いた奴だった。
――エレク。ありたいように在れ。そうでなくてどうしてこの世にいる価値がある?
そうだ。そんな声だったな。
しかしあいつは何処にいったのだろう。五百年経ったからと言って消えてしまうような奴じゃあない。
何せ、あいつは。
――臆病な心など、足蹴にして踏みにじってしまえば良い。王者の心に宿らせるものではない。
自分の事を、女神と名乗っていたのだから。
――お前は完璧な王になるんだ。誰にも傅くな。誰もを顧みるな。私以外の者はな。
奴の声を思い出しながら、玉座に腰かけた。背後にはロマニアと戦役の騎士が迫っているのだから、逃げるべきだ。本来その為にここにきたのだ。
けれども、どういうわけかそんな気分が心から消え去っていた。
頬杖を突きながら、玉座の間の入り口を見ていた。
やはりだ。
こんな場面がかつてもあった。あの時、扉から入って来たのは四人だった。そうだ、奴らは皆――騎士鎧を身に着けていたな。
――雄壮なる勝利の騎士、ヴィクトリア=ドミニティウス。
――果敢なる戦役の騎士、アリナ=カーレリッジ。
――叡智深き落陽の騎士、ローズ=レイナル。
――正義たる天秤の騎士、シヴィル=ラフォン。
こうして実感する事で。ようやく記憶が明瞭になってくる。
ああ、そういう事か。
あいつらが俺の最期か。彼女らと出会った瞬間、魂が慟哭を起こしたのもよくわかる。何せ一度殺されていたのだから。
玉座に腰かけたまま、ため息すらつきそうになった。
かつては手勢の騎士に裏切られ、五百年が経てば共にあった戦友は人類の敵となって大陸を荒らし回る。数百年もの間、かつての仲間同士で相争って文明を衰退させているわけだ。
悲劇を越えて、もはや喜劇にでもなりそうな有様だった。
誰も彼も演劇の筋書きのように踊りやがって。まるでこいつら全員が、人類の敵にでもなったかのようなもの――。
「……待てよ」
思わず、呟く。
人類の敵、そう人類の敵だ。瞼に映るのは一つの姿。
――人類の大敵たる魔族。大騎士教の剣、レリュアード。
何故あいつらが生きていて、そうして人類に深く食い込んでいるのか。不思議で仕方がなかったが。
まさか、これはあいつらが。
そんな思考が脳裏を走った瞬間だ。轟音が、玉座の間の前まで迫りきた。
かつて四騎士が俺の前に辿り着いた様に。かつて敵が俺の首を取りに来たように。
彼女らは来た。
姫君ロマニア=バイロン。戦役の騎士アリナ=カーレリッジ。
懐かしい。まるで過去の想い出に浸っている気分だ。
だからこそ、昔を思い出した口調で言った。
「――来ると良い、諸君。今は良い気分だ。私の女神を思い出した」




