第百十七話『君はそこにいた』
陽光が夕暮れに溶け落ちる。
『無尽』ゲイルは、驚くほどの冷静さで浮遊城が落ちゆく姿を見ていた。
広場からはみ出るように半身を唸らせれば、失われた右半身を感じる気がした。自らの魔力が塵のように消えていき、世界に紛れて逸失する。
もはや光弓ウルを唸らせる事すら出来まい。彼の身体は完全にヴィクトリアによって打ち砕かれた。
しかしどこまでも、彼は冷静だった。もしかすれば何時かこんな日が来ると分かっていたのかもしれなかった。
浮遊城が落ちる事も、自らが消えゆく事も。長命だからこそエルフは、その終わりをしっかりと見つめている。高々百年も満たぬ時間、死の実感から逃げ延びれば良い人間とは違うのだ。
「どうしててめぇがそんな顔をするかね。勝ったんだろ、てめぇは」
煙草の煙でも吐き出すような素振りで、ゲイルが言った。
「……分かりません。ですが、人なぞ自分の心すらよくわからないものなのですよ」
「違いねぇ」
勝利の騎士ヴィクトリアが、倒れ伏したゲイルのすぐ傍に佇んでいた。身体に刺した矢から血を吐き出しつつ、嗚咽を漏らしてそれを引き抜く。すぐに魔力で止血をしたが、意識を保っていられるのが不思議だった。
彼女の周囲には血と死体ばかりだ。
果敢に挑みかかって来たエルフ達の死体。
彼女の贄となって自ら首を斬った者の死体。
そうして、もうすぐ死体となるエルフの英雄。
「人間だけじゃねぇ……。エルフだろうが、誰だろうが。自分で決めた約束事すら破っちまうもんだ」
「ゲイル、貴方は」
「変な事を考えるじゃねぇよ。ヴィクトリア」
失くした半身を愛おしむ様にしながら、ゲイルが微笑を浮かべた。しかしもう顔そのものが失われはじめていた。
「俺はてめぇらが嫌いさ。裏切り者で、自分が今立ってる大地が誰によって齎されたかもわかっちゃいねぇ愚か者だ」
相変わらずの口の悪さ。しかしヴィクトリアは反論しなかった。
どのような要因があり過去があろうと、かつて地上の英雄であった彼らが迷宮に押し込められているのは確か。かつての王が、貶められているのも確か。
過程を明確に知らずとも、この結果だけを見れば何かがあったのだと分かる。
だからヴィクトリアは、何も言わない。代わりに、ゲイルが口を開いた。
「……言っただろ、泣きそうな顔をしてるんじゃねぇ。てめぇがどんな気持ちでいようが知った事じゃあねぇが、勝者は笑え。敗れた相手が報われるのは、そこに勝者がいるからだ。まるで敗者のような顔をして、俺の前にたってるんじゃねぇよ」
「すみません」
そんな微かな問答の間にも、ゲイルの身体は消えていく。そこにあるのは死なのだろうが、それともただ魔力が消え失せていくだけのこれは、現象に過ぎないのだろうか。
酷いため息をついてから、ゲイルが言う。
「行けよ、大騎士。戦うんだろう、ロマニア様と。そうして、王と」
「――ええ、必要であるならば」
その言葉だけは断固として、ヴィクトリアは言った。嘘はなく、また淀みもない。ただ、真実だけを告げる声。
ゲイルは眩しいものでも見るような様子で零した。
「そうかい、好きにしろよ、ヴィクトリア。どう転ぼうが、自分の納得できるようにするのが一番だ。――俺は、出来やしなかった」
ゲイルは、ただそれだけを言って。塵となって消えていった。
その真意を聞き出す事すらできない。
かつてのエルフの英雄が、まるで無に帰してしまったかのよう。ヴィクトリアは瞼を数秒だけ閉じてから、踵を返して浮遊城を見上げた。
広場を覆い尽くすのは、空に君臨し続けた第七層の主。誰一人の侵入を許さない、清廉なる姫君だ。大分部の魔力は使い果たした。それでも身体は動く、両手両足共にだ。
ならば動かなければならなかった。大騎士として果たすべき役目があるのならば、今ここなのだ。
それに、ゲイルの口ぶりを聞くに――やはりここには王がいる。
勝利の騎士としての記憶が、余りに懐かしい感触に震えすら起こした。
「……久しぶりの、帰城ですね」
ぽつりと、唇が呟いた。
◇◆◇◆
意外と言うべきか。遠征団の一員の中で、最も早く浮遊城へと足を踏み入れたのは戦役の騎士アリナだった。ヴィクトリアは暫しの間、魔力の回復に努めねばならなかった為だろう。
くんっとアリナが鼻を鳴らす。随分と懐かしい匂いがした。僅かについてきた手勢の者らに感づかれないように軽く首を上向けた。
どういうわけか涙が出そうだった。
匂い、いいや城内の様子のどれか一つを取っても、朧気な記憶が鋭利な刃となってアリナの心臓を八つ裂きにする。
一つ一つが喜びであり、悲しみだった。肌に感じる魔力すらも懐かしい。
ああ、そうか。とすぐにアリナは得心する。ここは自分の記憶の情景そのものなのだ。五百年前に、アリナ=カーレリッジが確かに生きていた頃がここにある。
「……アリナ様。奇妙です、見張りが一人もいません」
アリナが強烈な郷愁に心奪われている最中、手勢の一人が言う。言われてみれば確かに、多少はいるであろうはずのエルフ兵が誰もいない。
逃げた? いいや、そのような事があるだろうか。
彼ら、彼女らは五百年前に屈従ではなく、逃亡ではなく、迷宮にて息を潜める事を選んだ者達だ。そんな者達が、浮遊城が落ちたからといえ易々と逃げるとは思えない。むしろ死こそを誉と感じるかもしれなかった。
では、何故。
――その答えはすぐに音となって宙に飛び出してきた。
城の一角が、崩れ落ちる音。魔力が吹き飛ぶ音。
宙に無数の鎖が浮きながら躍動するのが見えた。それはもはや大蛇のように重ねってうねりをあげ、次には数え切れぬほどの複数に別れて大地に突き刺さる。
大淫婦ロマニアの『不断の鎖』。不意に、アリナは目を瞬かせる。同じような光景を何処かで見た覚えがあった。
その鎖は、間違いなく一つの獲物を追っていて。その獲物は城の中庭に着地しながら――黒い髪の毛を見せていた。
「な、ぁ――っ!」
アリナが思わず、騎士鎧を身に着けたままたたらを踏んだ。
周囲の手勢はそれを、彼女が魔導に警戒したためだと思ったが、実際には違う。
アリナは中庭の一角に、見てはいけないものを見てしまった。
記憶の中にしかありえないはずの存在を見つけてしまった。
馬鹿な、あり得ない。アリナが必死に否定をする。いるはずがない。
あの人は、迷宮に落ち延びた他の英雄達は違う。確かに五百年前のあの日に命を失い、身体さえ失ったはず。
――他でもない大騎士の手によって。
だからアリナは、最初それを自らの幻覚だと思い込んだ。郷愁に懐古の情が呼び覚まされた故に、昔あった光景を思い起こしてしまったのだと。
けれどそこにある幻覚は、流暢な言葉遣いで言った。
「ロマニア。良い加減にしてくれ。もう気は済んだだろう。こんな事何の意味も価値もない。最も合理的じゃあないね」
「ああ。――合理的な愛なぞ真の愛ではない」
ロマニアの声が、響く。手勢が一斉に表情を歪めた。
大淫婦の存在はそのものが『誘惑』だ。彼女の言葉を聞くだけで、彼女の姿を見るだけで、その精神は揺さぶられる。
それでも彼らが意識を押し留められたのは、魔力の保有量だけでなくその精神においても一流の探索者であったからだ。
「アリナ様ッ。ご指示を――千載一遇の好機です!」
前に一歩でた女戦士が言う。腕には盾と剣が構えられていた。
何せ敵の首魁たるロマニアが、態々城壁近くまで飛び出てきてくれたのだ。これ以上の事はない。今であれば最も被害が少なく事を収められるかもしれなかった。
だから、女戦士の言葉は何一つ間違ってはいない。
ただ、ただ。
余りにタイミングが悪すぎた。
「は、はは…………はははは」
アリナの声が余りに聞こえてこないので、咄嗟に女戦士は振り向く。
兜の所為で表情こそ読み取れなかったが、聞こえてくる音はまるで笑い声のような。それでいてどこまでも虚ろな気配があった。
周囲の探索者達が、一頻り困惑した後に、アリナは笑いながらため息を吐いて、言った。
「ふ、ぅ――――貴君らは手を出すな。己が殺す。完膚なきまでに」
アリナは、ロマニアではなく。
中庭に佇む男を見ながら言った。




