第百十四話『無二の好機』
五百年前もそうであったなと、大淫婦ロマニアは脳裏に記憶を浮かべる。
エレクという人間は、こちらを見ているようで、何もみていない。他人の本心を見据える事が出来ないのだ。それは彼の性格の問題ではなく、機能としての問題だった。
王たる者は、あまねく全てに平等でなくてはならない。不合理であってはならない。苦痛を強いるものであってはならない。一つを愛し、一つに傅き、一つを手に取る者など王ではないのだと。
それが紛れもない彼の理想であった。彼にとって、それこそが全てだったのだとロマニアは知っている。
ロマニアはそれを否定しない。彼がエルフの隠れ里を訪れた時も、彼は当然のように彼女の手を取った。ただ衰え消えゆくばかりだったエルフ達は、間違いなく彼に救われた。
だからこそロマニアもエレクに手を貸したのだ。
しかし今思えばそれは彼がロマニアに、エルフに優しかったのではない。彼は多くのものに同じようにしたのだ。それこそ、王として君臨するものの義務と知っていたからこそ。
素晴らしい。結構な事だ。戴くに申し分は無い。
けれど、問題はあった。
彼が個を見る事が決して無く。全を見るだけの存在であったとするならば。
――彼の考えではなく、彼自身に惹かれ集まって来た者達はどうすれば良い?
ロマニアは唇をゆったりと開いた。
「想定はしていたが、君は本当に何も分かっていなかったようだ。己ですら驚嘆するよ」
「……何がだ、ロマニア」
両腕から不断の鎖がじゃらりと降ろされる。彼女の両腕に絡みついたそれは、まるで生き物のように意志を持って跳ねていた。
そこには敵意はない。しかしはっきりとした感情が浮かんでいた。それを何と呼べば良いのか。憎悪ではない、嫌悪でもない。しかしただの思慕というのなら、やや深い色合いを落としている。
だから、それに名を与えるのであるならば、愛でしかないのだろう。
「生きる者は正しくあらねばならないか。生きる者は理屈をもって動かねばならないか。生きる者は理想を抱かねばならないのか。――己は全て否と答えよう。
己らエルフとて生きて精々が二千と少し。人間に至っては百年も生きれない。世界からすれば瞬きほどの人生で、正しく生きよ、理想を持て。そんな言葉の方が傲慢ではないかエレク。己はエルフの慣習に親しみなど欠片も抱いていない。皆の感情と欲望を肯定する。感情こそ全ての生きる糧だ」
「まて、ロマニア。お前一体何を言って――」
「――己が君を愛しているという事だよ?」
ロマニアの鎖がふらりと揺れた。瞳に濁りを落とし、しかし美麗な輝き伴って一人を映している。
「詰まりだね。誰もが君の考えに共感していたから、共にいたわけじゃない。己のように、君がいるから人類側についた者も多くいた。全ては愛だ、愛だよ君」
「愛、ぃ?」
「そうだ」
怪訝そうに、エレクが言う。ロマニアは手に取るように彼の心情が分かった。
彼には、理解が出来ないのだ。
愛などという『不合理』極まる理由で、決断をする者がいるという事が。愛などという割り切れない感情を、彼は知識としては知っていても決して受け入れられない。
彼は言うだろう、そんなものは狂気だ。
ロマニアは断言する、愛とは狂気だ。
狂気でない愛など存在しない。何故ならば愛には底が無く、自身の全てを捧げるべきものを言う。
狂おしいほどに愛するのも。愛するほどに狂うのも。本質は変わらない。
合理性も、利害も、悲劇すらも擲ってあるのが愛なのだ。
無論、程度の多寡はある。けれど、全ての愛は必ず狂気を内包している。していなければならない。
「知らなかったわけじゃあないだろう。君に憎からぬ想いを抱いていたものは多かった。それを君は受け入れなかった。当時はそれで終わっていた話だ。だがね――」
――己は、終わらせる気はないぞ。
言いながらロマニアは、鎖をくいと引き上げる。それはただふらふらとぶら下げていたものではない。
すでに、部屋全体を取り囲んでいた。逃げ場などないように。今度こそ二度と何処へも離れていかないように。
ただ己だけを、見てもらうために。
しかしエレクは、笑みを浮かべながら言った。
「――俺がお前に何も手を打たないと思ったのか。そりゃあ、甘いだろ」
ロマニアの眼が見開く。
瞬間、破壊の色合いが、中空を僅かに走っていた。
◇◆◇◆
「――浮遊城は地に落ちる! 総員進軍せよッ! ここが貴君らの舞台だッ!」
絶対不落。地を睥睨し続けるが故の浮遊城。
それが魔力を大いに吐き出しながら悲鳴をあげた。それは探索者にとっては何ものにも代えがたい好機であり、守衛達にとっては余りに受け入れがたい衝撃だ。
その差異が、突撃にも大いに影響した。
まるで酒に酔っているかのような勢いを有した探索者達が、エルフの矢雨に向かって突進する。
もはや彼らの足取りを押し留める手立ては無かった。
探索者という者は多かれ少なかれ、願望を持っている。偉くなりたい、賞賛されたい、英雄になりたい。そんな想いを秘めながらも、何時もは現実に押しつぶされる。
しかし今この一瞬、浮遊城の墜落を見て彼らは思ってしまったのだ。
自分も、英雄になれるかもしれない。
そうなればもはや止まれない。止まる事は出来ない。彼ら本人ですら。
「――狼狽えるなァッ! ロマニア様がいる以上、城は陥落しない! 前を向け、矢を放て! ここはもうどん詰まり。あんたらは何処に逃げる気だい!」
ただ敵勢も、ただで崩れてくれるほど弱体ではなかった。
『鬼子』グリアボルトだけは、炯々と瞳を光らせ、肩を唸らせて声を張る。こんな戦を、状況を幾度も呑み込んできたかのような振舞いだ。
「ふ、ぅ――ッ!」
そうして、その殺意も力量も探索者より頭一つ以上跳びぬけている。探索者は高くともレベル10前後に過ぎないというのに、彼女は間違いなく――40以上の魔力量を未だ有しているのだ。
グリアボルトの拳が空を撃ち抜く度、赤い血が迸って大地を汚す。エルフの援護は弱まれど、彼女一人で一つの壁を築いている。
「ち、ぃっ!」
アリナが兜の中で思わず舌を打った。予想はしていた。グリアボルトが戦線を押し留めるのは当然だ。しかしそれでも、その事実が彼女の胸を掻きむしる。
ヴィクトリアが作り出した唯一無二の好機。これを切っ掛けに、この第七層すらも落とせるかもしれない。それは今だけしか出来ないかもしれない。
人類が迷宮に苦しめられる日々を、終わらせる事が出来るかもしれないのだ。
しかし、その為にはグリアボルトという壁を超えなければならなかった。アリナでは相性が悪い。例え彼女を滅したとして、その後浮遊城を墜とすだけの魔力はあるか。ロマニアをくだせるのか。ヴィクトリアが無事であればその分戦力が回せるが――。
一秒もない間に、アリナの思考が激しく宣う。しかしその間にも、場は動いた。
「通しやしないよっ!」
「ぴぎゃっ!?」
殆ど気配がしなかった空間を、グリアボルトの一打が襲う。それは何てことのない空振りのように見せながら、二人分の人影を思い切り弾き飛ばした。
珍しい、気配を完全隠蔽する魔導だ。そこから現れたのは二人の属領民。
双角を生やして槍を持った探索者、それと。
「言っただろうシヴィリィ。あんたはあたしが殺してやるよ。ここから先に進ませるもんかい」
「……私は別に、そんなに拘ってないんだけど」
金髪紅眼。シヴィリィ=ノールアート。浮遊城の陥落を見て、誰よりも先に一歩をと考えたらしかった。
しかし相手がグリアボルトだったのは不幸だった。彼女はもうシヴィリィの魔力の色をよくよく覚えてしまっている。それでは隠蔽できるものも出来なくなるだろう。
勢いを伴ったはずの軍勢が、足を止められた。そう思った瞬間だ。
「――いいよ。先にいきなよシヴィリィ。あそこにいるんだろう彼は」
ノーラが、ククリナイフを抜き出して言った。奇妙なまでにそのナイフが輝いて見えていた。




