第百九話『魔導解放』
その眦は、紛れもない英雄のものだった。
切れ長のエルフの瞳は本来の穏やかさを圧し殺し、戦意に満ちた色合いを溢れさせている。
眼光は、それ一つが重圧の塊だ。古代の英雄は、ただ見るだけで人の心に枷を付けられると言う。
ヴィクトリアは人間としての本能が警鐘を鳴らすのを聞いた。
――動くな。近づくな。関わるな。視るな。
アレは、触れてはならないものだ。戦ってはならないものだ。
現実から隔絶した迷宮という地においてすら、エルフの英雄ゲイルは異質そのものと言って良い存在感を有していた。
余りに、魔的だ。
けれど、それで引くのならばもはや騎士ではない。
魔を狩る騎士を名乗るならば、自らもまた隔絶した魔でなくてはならない。
ヴィクトリアは舞踏会にでも赴くような軽やかな足取りで、彼の異界に入った。バアルギルドの面々が、それに続く。
「――なるほど、そういうわけですか」
瞬間、視界が暗闇に消えた。視力を失ったのではない。ただただ、この異界が暗闇に包まれているのだ。昼もまだ迎えていないというのに、まるで夜闇の如く帳が落ちている。
ヴィクトリアは感心したように頷きながら、横なぎに騎士剣を振り抜く。すぐに音が鳴って、複数の矢が撃ち落とされた。
ゲイルのものではない。陣を張っていたエルフ兵達が射かけたものだ。
「ああ、いや援護はいらねぇぜ。矢を無駄にすんな」
どうせ、矢を射かける意味はないと、ゲイルは言外に告げていた。
「そっちも。どうせ他の連中は俺の相手になるまいぜ。どうして連れて来た」
「彼らには、彼らの役目があるものです」
「へぇ、そうかい」
ゲイルが軽い口を叩き、ヴィクトリアがそれを美麗な顔つきで受け流す。それは一見すれば、親しみすら籠っていそうな様子であったが。
肌がひりつくほどの緊張を周囲は感じていた。
気を抜けば呼気すらも口から出て行かなくなってしまいそう。極限の緊張の中では、人間の肺は本当に詰まるのだ。
その中心地にありながら実に淡々と、男と女。二人の英雄は告げた。全く、同じ言葉だった。
「――では、決着を」
一瞬の、静寂の後。ヴィクトリアが一歩進む。
二人の間は、まだ十分にあった。広場の中心地にあるゲイルと、広場に数歩踏み入ったばかりのヴィクトリア。
しかしそれが、彼女らにとっての間合いなのだ。
凡人が、呼気を挟む暇すら無かった。
ゲイルの光弓ウルが、闇夜を切り裂くが如く三の矢を正射する。余計な動作を欠片も生じさせない、一挙動で全て完結させられるそれ。
発される光弾は、速度も相まってもはや矢というよりも敵に食いかかる魔の牙に等しかった。常人であれば、瞬きをする間に全てが終わる。
「は、ぁああ――ッ!」
しかしそれに相対するは、大騎士筆頭たるヴィクトリア。秘宝、秘技、特攻礼式。そういった余計なものを取り除いた純粋な武技において彼女より秀でる者などいない。
人類の頂点。その一角がここにいる。
手元の動作は見えすらもしない。矢を斬り伏せる一合、二合、三合――瞬時に十四合。
傍から見ればそれは、ただ何かが高速で動いているだけにしか思えなかった。
光矢による線が描かれたかと思えば、もう一本の白い円がそれを打ち落とす。今一体それがどれだけ続いているものか。何秒が経過した、いいやそれとも一秒も経っていないのか。
時間感覚が曖昧になり、空間が泥のように感じられる。呼吸をする事すら億劫だ。
弓と剣の英雄による攻防が生む拮抗は、いっそ永遠なのではなかろうかとすら思われる。
けれどこの世に永遠のものなどないように、両者の拮抗もいずれは崩れて行く。
――矢が番えられる刹那の間。確かにヴィクトリアが前進を始めていた。
無論、近づけば近づくほどに光矢は鋭さを増す。それにゲイルの矢は一撃一撃が異様に重い。肉を超えて骨に響いてくる、必殺の重みだ。
それを幾度も打ち落とせるのは、ヴィクトリアが同等の重みを有するからに他ならない。
しかし、何と原始的な闘争だろうか。
魔導の道を修め、形は違えど五百年の間研鑽を積み上げてきた二振りの英雄が、その武具を用いて相手の血を、肉を、魂を四散させるという最も純粋な殺害方法を選択した事は全くの皮肉としか言いようがなかった。
相手をただ、刺し貫き殺す。両者は間違いなく、それしか頭に入れていない。それが最も効率的な殺し方なのだ。
「くっ、ははは!」
その息が止まりそうな攻防の天秤は、ヴィクトリアに傾いているかのように見えた。騎士は、弓士の連射を食い止めているように見えた。
けれども、忘れてはいけなかった。ここは、ゲイルの有する魔導陣地。
彼の領域だ。
ゲイルは光弓ウルを構えたまま、中空で脚を伸ばす。
「変わらねぇな。本当なら、てめぇがこれで終わってくれる程度である事を願ってたんだ。ただ魔導を持て余しただけの餓鬼であって欲しかった」
ゲイルは、感嘆しように息を吐いた。
その言葉は今代のヴィクトリアに対する惜しみない賞賛であり、明白な死刑宣告だった。
ヴィクトリアが更に一歩を踏み出すまでの間に、ゲイルは光弓を強く引いた。そこに矢は番えられていない。
しかしそれは彼の冗談などではなかった。目を見張るほどの、尋常ではない魔力の渦が、そこに在った。
騎士剣が、今までと違い大きく構えられる。殆ど跳ぶようにヴィクトリアは身体を躍動させた。彼女の中に即座に生まれた焦燥が、そのような行動を取らせたのだ。
「ゲイル――!」
「――全盛のてめぇでも間に合うかよ。俺の矢を超えられる奴はいねぇ」
矢とは、時に素早さの象徴となる。
矢と見まごう俊敏さ。過ぎる月日は飛ぶ矢のように早い。光すらも、時に矢の如き素早さと讃えられる。
故にこそ、魔力によって鋳造され、魔導の名を与えられた矢は、ありとあらゆる速度を超越する。光弓ウルは、その為の射出機でしかない。
ゲイルの手元には、全てから隔絶された魔力の矢が顕現していた。魔力が衝撃の余波を生み、鋭い空気は容易く頬を切り裂いていく。
魔導陣地という場、迷宮からの魔力供給、全ての条件がその矢を一つの究極に押し上げている。
ゲイルは堂々たる振舞いで言った。
「我は雄壮なる王の家臣。ゲイル=グラッセ! 立ちはだかる全てを射殺そう!」
本来の意味で言うならば、魔導とはある者の願望から始まったものだ。
火を起こしたい、鍵を開けたい、強い力が欲しい。それを一つの方程式に落とし込み、願いを叶える事を容易としたものが魔導である。
けれど、願望とは時に他者を排除する。万人に共通する願望があれば、ただ個人にのみ依拠する願望もあるのだ。
根源的に、その者のみの願いでしかなく。故にその者にしか扱えぬ魔導。願望を解放し、この世界を塗り潰さんとする異様。
それこそが、
「魔導解放――」
ゲイルは願う。何者よりも素早く、何者よりも鋭く。
獲物を逃がさぬための、狩人の理想。
万物を貫く、究極の一。闇夜に天から下り、神速を持って貫く英雄が一矢。
「――『神鳴矢』」
神話を彷彿とさせる誉れの姿。ゲイルが雄々しき名乗りと共に放った矢は、稲妻が炸裂するが如く周囲の空間を弾き飛ばして敵へと向かう。
その飛沫から零れ出る魔力ですら、人間が撃たれれば即死に値する魔力の塊。
余りに眩く、余りに脅威。稲妻を押し留められるものなど、この世に存在しない。
絶大なる光が――視界を貫いた。
それはもはや、攻撃と呼ぶことすら憚られる。ただただ、神の怒号が駆け巡っただけに過ぎない。
そうしてその標的たるヴィクトリアは――。
「――が、ァあッ!?」
――神鳴矢が、一切の猶予なくその体躯を食らっていた。