第百八話『我が盟友』
第七層に用意された屋敷の一角。大騎士が居宅とし、指揮所とする場。
勝利の騎士ヴィクトリア=ドミニティウスは意外さを露わにした表情で、前線から帰ったアリナを出迎えた。
正直を言って彼女の性格ならば、最悪粉砕を覚悟で突貫してしまうかとも危惧していたくらいだ。
けれども帰還したアリナは、普段からは想像もつかない程の冷静さを保っていた。淡々と被害を報告し、事態を周知し、その上で全てを受け入れている。
ヴィクトリアが知るアリナはこういった冷静さを持たない。彼女は良くも悪くも激情の人だった。後先を顧みず剣を振るう事が出来る、出来てしまう。
意外と言えば、もう一つ。彼女がシヴィリィを傍らに連れていた事だ。
確かに彼女が連れまわしているのは分かっていたが、それでも指揮所にまで連れて来るのは意外だ。シヴィリィは所詮、一人の属領民に過ぎないというのに。
「――浮遊城を墜とす?」
だから、シヴィリィが言い出した事はヴィクトリアにとって全く思慮の外の事だった。
普段は計算され尽くした指先の動きが僅かにぶれ、唇を触る。シヴィリィが発した言葉をじっくりと噛みほぐしていた。
「ええ、そうです。まずはあれを墜としましょう」
シヴィリィは立て続けに、ヴィクトリアにそう言い放つ。
それは気狂いの言葉にも似ていた。
元来、城というものは攻城の果てに落とすものだ。それを攻めもせずに墜とすと宣うシヴィリィの言葉は、妄想に囚われた果ての狂気にも見える。
シヴィリィはヴィクトリアの怪訝な表情に怯む事なく、前のめりになって机に両手を乗せた。
「何て言えばいいのかしら。つまり浮遊城はあれ単体じゃないの。この都市全部が、浮遊城と繋がってるのよ」
「この都市全てが……?」
思わず、ヴィクトリアは生返事で言った。シヴィリィが言わんとする事を今一掴みかねている。
アリナが二人の間に入り込むようにして、椅子に座り込みながら言う。
「詰まりだヴィクトリア。あの浮遊城は、何もあれ単体で存在出来ているわけではないと彼女は言う。ただただ、この都市を含めてロマニアが過去を再現しているだけなのだとな。己も信じられん。だが、ある意味筋は通る。第六層を思い出してみろ」
「――そういう意味ですか。確かに、思い当たる節はありますね」
そこまで聞いてようやくヴィクトリアにも、物事の道筋が理解出来た。
第六層、零落の聖女カサンドラもまた魔女と巨人が望む通りの戦場を再現していた。彼らは彼らの栄光の時代を繰り返すように、迷宮において一つの戦場を再現し続けていたのだ。
ならば、確かにこの第七層においてロマニアが同じ事をしていてもおかしくはない。
ヴィクトリアは頬に手を置きながら、自らの記憶を呼び起こす。
否、自らではない。勝利の騎士ヴィクトリア=ドミニティウスという連綿と紡がれてきた存在の記憶を辿った。
かつて浮遊城は魔族によって用いられたが、それは陥落させた後、人類勢力においても使用された。敵勢力のものとはいえより進歩した技術は取り入れるべきであったし、何よりエレクが望んだのだ。
ただあるだけで敵に攻め寄せられる事を拒み、それでいて自らは中空から射撃や魔導によって迎撃を可能とする。これこそが城砦としての理想形だと。
だからこそ、浮遊城が存在した場所を主要都市の一角とし――『希望』という名を都市に与えていた。
「……希望の国とは、そういう意味ですか。しかし、貴方が言いたい事はそれだけではないのでしょう」
ヴィクトリアは、シヴィリィに手を向けて言葉を促した。
本来ならば――エレクを欠いた彼女の言葉を聞く気はヴィクトリアにはさほどなかった。彼への手がかりになったとして、彼女単体にはヴィクトリアは一定以上の興味はない。
この時彼女の言葉を聞く気になったのは、興味本位や彼女の言葉に正当性を感じたから、などというものではなかった。
ただ、僅かに。シヴィリィという人から彼の匂いを感じたからだ。雰囲気、と言い換えても良いかもしれない。
人類種の王であり、魔の王であったものの雰囲気。
それは、事故のようなものであったとしても、彼の器として選ばれた故なのだろうか。それとも彼女の資質なのか。
まるで何かを思い出すような素振りをしながら、シヴィリィは言った。
「カサンドラの時もそうだったんだが――いいえ、そうだったんだけど。あの人達がこの世界を回してる仕組みは、何も個人の魔力や王権に頼り切ってるわけじゃないのよ。それは起点であるだけ。階層ごとの世界を維持するために、過去に確かに存在したって事を根拠にしてる」
第六層の戦場も、第七層の浮遊城も、過去の世界に存在したのだから。この世界に存在していてもおかしくはない。
いいや周囲全ての物事が滞りなく再現されているのであれば。それはその通りに存在するべきだ。
それを根拠として、各階層の『異常』は存在し続けている。
シヴィリィの言う考え方は暴論のようでありながらも、魔導の成立条件に似通っていた。
常識で考えれば、人間が道具も無しに火を起こせるわけがない。
風を巻き起こす事も、言葉一つで鍵を開ける事も、限界を超えた肉体を得る事も出来ない。世界の理はそう出来ている。
――では其れを成立させるにはどうすれば良い?
常識を不在とし、理を捻じ曲げ、無理を世界の道理として呑み込ませるしかない。
それこそが魔導を証明するという事であり、それが成ったからこそ今世の人間は道具も無しに火を起こせる。
これは神秘でも奇跡でも無く、ただ不条理を世界に呑み込ませただけなのだ。
「過去と同じように都市を再現し、営みを作り出し、そこに浮遊城を置くことでアレが存在する事を肯定させていると? それは一体――」
「――何の為に、とは聞くだけ無意味というものだヴィクトリア」
アリナに口を挟まれて、思わずヴィクトリアは押し黙った。整った睫毛が反射的に上を向く。
それは、そうか。結局の所、誰もが囚われ切っているのだ。
最終的に彼を止める事を選んだ自分達も、彼に従う事を選んだ彼女らも。その本質は変わらない。きっとかつての彼が見たのならば、何と非合理な事をするのかと切って捨てる事だろう。
……思えば、だからこそ自分もシヴィリィに入り込んだ彼に手を出す事が出来なかったのだなとヴィクトリアは思った。
室内のアリナ、そうしてシヴィリィを順にみて、ヴィクトリアは口を開いた。両手を膝元に置き、眦は強くつり上がっている。
「意図は理解しました。詰まり、アレはこの都市無しには存在できない――ならば手段は一つですね」
シヴィリィの頷きを待つまでもなく、ヴィクトリアは眼に魔力を込めてそう言った。
◇◆◇◆
血統を受け継ぎ『転生者』になるというのは、他者の才能と記憶を受け継ぐという事。
その継承が濃密であれば濃密であるほどに、記憶は半身となり、自身は他者と同一化する。
ある意味、他者の人生を歩かされていると言えるかもしれない。
しかしそんな状態が、ヴィクトリア自身は嫌いではなかった。むしろ、この半身がない自分を想像出来ない。良くも悪くも、自分はヴィクトリア以外の何者でもないのだ。
記憶を受け継ぎ続ける転生者の中でこの状態に疑問を抱くものはそう多くない。ヴィクトリアはむしろ正常だと言うべきだった。
けれどそんな彼女も、この記憶を疎ましく思う事が時折ある。
――それは余りに、五百年前の記憶を鮮明に思い出してしまった時だ。
自分の血統が特別濃いのは知っていた。まるで現実であるかのように、過去の記憶を視てしまう事がある。
その白昼夢の中で、自分は五百年前の数多の者と会話をしていた。
『聖女』カサンドラと戦後の統治について語り合った事もあった。
『姫君』ロマニアと、魔導理論について議論した事があった。
今、迷宮に封じられている彼ら彼女らと、共にあった頃の事を思い出す事が何度もあった。
ヴィクトリアはその度に――気が狂いそうになる。
「――久しぶりですね、ゲイル」
無論、この『無尽』ゲイルとて同じだ。
ヴィクトリアは全身を騎士鎧に包み込み、魔導結界――異界を展開したゲイルが座する広場に相対していた。率いるは彼女が手足たるバアルギルドの五人のみ。
あふれ出る魔力は鋭さの塊で、殺意と呼ぶ事すら躊躇われる。
相対するゲイルは、相変わらず気安く飄々として言った。
「てめぇが来るのか。てっきり、アリナの奴が来ると思ってたんだがね」
「ええ。私です。――貴方との決着はついていなかったでしょう」
「……はっ。確かに昨晩の決着はついちゃいねぇ」
「いえ、そうではありません」
怪訝な顔をするゲイルに向け、ヴィクトリアは唇を引き締めた。
ああ、やめろ。思わず自らの胸中で叫んだ。そんな事をしても何にもならない。そんな事をしても虚しいだけだ。
だから今まで見て見ぬ振りをしてきた。関わらぬようにしてきた。自分の心に蓋をしてきた。秩序に囚われるようにしてきた。大騎士の役割に徹してきた。
けれど、一人の属領民によって、まるで彼が傍にいるように感じてしまったからだろうか。
無意味だと理解していながら、ヴィクトリアは言う。
「――貴方の弓と、私の剣。どちらの方が正確か。試し合戦をしたものでしょう。決着をつけましょう、ゲイル」
「……てめぇ」
苦虫を嚙み潰したような表情で、ゲイルは応じた。
だが一瞬、確かに一瞬だけ。何か遠くを見るように彼は瞳を細める。
けれどすぐに、それは別のものに変わった。変わってしまった。
「……そうだな、決着を付けようぜ。ヴィクトリア。かつての王の騎士よ」
憎悪を含ませた声で、ゲイルが言った。
それは、かつての盟友との開戦の合図に違いなかった。