第百七話『絶望には慣れている』
「――止まった。いいや、食事が終わっただけか」
第七層、地上部分。戦役の騎士アリナ=カーレリッジは頬に垂らした汗を拭いながら言った。
周囲に視線をやれば、惨憺たる有様だった。警備についていた探索者の多くは倒れ伏し、その身から魔力を吸い上げられている。第七層の住人に至っては――その身体が見当たらない。
身体が分解されるほどに魔力を吸い上げられたか。それとも、彼らが元よりそういった存在に成り下がっていたのか。
被害状況を確認してから、ようやくアリナは両肩に籠っていた力を解いた。どうやらゲイルも、これを好機と見て攻め込んでくる様子はない。あくまでこちらの自滅を待っている。
アリナは思わず眼を細めた。傍らのカールマルクに声をかけようと思えば、彼すらも倒れ込んでいる。
――脈を確認すれば、完全に止まっていた。やはり女よりも男の方が、ロマニアの『誘惑』の力は強く影響したのだろう。
「……案ずるなカールマルク。貴君は必ず連れ帰り、生き返らせてやる」
言いながらも、アリナはため息を吐いていた。
感じるのは自分自身の無力さだ。
地上に出れば英雄と讃えられ、ありとあらゆる魔物に対しても互角以上に戦いうる。大騎士は力の象徴であり、戦えば必ずや勝利する。そうあらねばならない。
そんな彼女らに、初めて壁を感じさせるのは必ずこの迷宮なのだ。
自分達と比肩する英雄がいる。自分達を睥睨する超常がいる。
大騎士と成った時、アリナは一つの事を想った。
己に超えられない壁などない。今は届かずとも手を伸ばしさえすれば、足掻き続ければ、諦めさえしなければ。必ず届く時がやってくる。だから、愚かになって足掻くのだと。
思えばシヴィリィに言って聞かせたのは、奮起するための、自分への言葉だったのかもしれない。
しかし今、第七層での惨状を見てアリナは自嘲の笑みを浮かべながら一つの現実に行き当たった。
これでも彼女は歴戦の戦士だ。数多の戦場を見て来た、数多の魔物との戦役を成し遂げてきた。
『軍団』を率い、個の戦力に頼り切らない彼女だからこそ、他の大騎士よりも現実を直視する事に慣れている。
その彼女の思考が、告げていた。
――全滅するな。これは。
まだ正確な戦力計算をしたわけではない。敵方の全力を見たわけでもない。
しかし歴戦の戦士であるアリナの直感が、そう感じてしまった。
致命的なのは撤退路を塞がれた上に、戦力も物資も限定されている点だ。その上、敵はこちらを一息睥睨するだけでこれだけの被害を出せる。
先の奇襲と合わせて、半分以上の探索者はもはや使い物にならない。軍隊の基準でいうなら、壊滅と言って良い惨憺たる有様だ。
「……何を言う、アリナ=カーレリッジ。まだまだこれからだ。愛の為、全ては愛だ」
自分自身にだけ聞こえる声で、アリナはそう呟いた。
虚しい空言だった。口でこそそう呟いたものの、心の芯は冷徹なまでに現実を見据えている。もはやアリナの心は、自身が死んだ後の為に何を成すか、という考えに動いていた。
それでも、それを堂々と表明する事は出来ない。遠征団の半分以上が倒れ伏しながらも、探索者達が士気を失っていないのは大騎士たる自身とヴィクトリアの存在があるからだとアリナは理解している。
もし指揮官が折れれば、その時点で彼らは烏合の衆だ。まず間違いなく第七層の住人として取り込まれる。
そうなれば、次これだけの規模の遠征団を構築できるのは果たして何十年後か。それに大騎士二振りを失えば、人類種は迷宮へ侵攻する余裕などなくなるだろう。地上ではもっと大勢の人が死ぬ。
「……駄目だな、やはり」
アリナはそう呟いて俯いた。
何時もそうだ。何時も、己は無力だ。何も出来ない。何も持たない。愛など貫けた覚えがない。
アリナが目を瞑った、そんな瞬間だった。
「――何をぼぉっとしているの、アリナ。行くんでしょ」
カールマルクが絶命し、誰も話しかけるものがいなかったアリナに、一人が声をかける。
シヴィリィ=ノールアートは金髪を僅かに乱れさせ、紅蓮瞳を細めてアリナを見ていた。その腕にはどうやら意識を失ったらしい彼女の仲間。恐らくはカールマルクと同様に命を失っているのだろう。
だというのにシヴィリィには、落ち込んだり動揺した様子はまるで無かった。
むしろ彼女の顔つきは、元の美麗さをそのままに、悪夢に出て来る魔族のような表情と言って良かった。瞳の奥に、嗚咽すら漏らしそうな力強さが根付いている。
「今ここで立ち竦んでいても、またあいつらが上から見下ろしてくるだけ。なら一度は退いて、逆襲をしてやりましょう。浮遊城を墜とすにはそれしかない」
アリナはシヴィリィの言葉に、虚を突かれた想いになった。
このただの属領民の少女が、何の権限もなく、この場では一兵に過ぎない少女が。まるで大勢を率いる指揮官のような鋭さで言ったのだ。浮遊城を墜とすと。
思わず、アリナは兜の中で苦笑を漏らした。兜を被っていて良かったと思った。到底、人に見せられない弱気な表情を浮かべていたから。
「……墜とせると思うか、あの大淫婦の巣を」
「墜とすわ。その為に来たもの。案外、この世って絶望する事で得られるものって少ないのよアリナ。精々心が安心するって事くらい?」
シヴィリィの傍らでは、ノーラが一緒になって仲間の死骸を運んでいた。彼女は実に気易い笑みで頷く。
「そこには同意しとこうかな。一度下を向いたら、それ以上のものは得られないって教えられたからね」
ノーラの言葉からは、かつて彼女が持っていた諦念や弱さのようなものが掻き消えていた。それ自体は歓迎すべきものだ。
しかしそこに根拠はあるのだろうか。根拠のない前進は、紛れもない無謀さとそう言えるのではないだろうか。
アリナが、思わず反射的に言おうとした瞬間だ。
シヴィリィが先んじて口を開く。彼女の指が鳴った。
「昔の英雄が敵だっていうなら、あの人たちにも何かあったんでしょう。揺るぎない事が起こったんでしょう。けれど、それで私の仲間を傷つけて奪い去った事が肯定されるわけじゃない。
あの人たちは、あの人たちの正義の為に戦えば良い。私は私の正義の為に戦う。それにね、アリナ。勝てるのよこの戦い」
「――どういう意味だ、貴君?」
シヴィリィは額から血を流していた。彼女だけが魔導で、一瞬大淫婦ロマニアと邂逅したのだ。そこで何か情報を得ていたとしても不思議はない。
シヴィリィは浮遊城を一瞥しながら、唇を噛んでから口を開く。
「ちょっと――思い出したんだけどね――あの浮遊城、ただで浮いているわけじゃない。ロマニアが魔力を供給し続けて、それでどうにかこうにか稼働してる。この第七層と一緒によ。
でもよく考えて、個人の魔力であんなものを稼働し続けられると思う? 迷宮や住人からの供給があっても、王権をロマニアが保有しているとしてもよ」
「それは、通常なら不可能だ。個人の稼働魔力には限界がある。如何な大魔導士としても、個人で供給できる魔力は限られてくるからな。多少の時間なら賄えても、個人の力で一個の城を稼働させ続ける事など……」
いや、待て。その通りだ。アリナは不意に全く考えてもいなかった思考に、眼を瞬かせる。
迷宮という異常な場所、そうして罪過の者の強大さに囚われていたが、如何にロマニアが優れていたといえ、彼女一人で浮遊城を稼働し続けられる魔力など扱えない。
それは第七層の住人や迷宮そのものから魔力を吸い上げても同様だ。幾ら魔力の総量があったとしても、それをコントロールし続けるかは全く別の話。
海には大量の水があるが、それを丸々人類が有効活用するのは困難なのと同じだ。
「詰まりロマニアは、もっと別のものを利用してアレを稼働してる。住人でも王権でもない。もっともっと別」
それを、壊してやりましょう。
そう言ってシヴィリィは、笑った。
「案外私、絶望するのには慣れてるの。でもそれで立ち止まっちゃあ死んじゃうだけだもの。私達を見下してくる英雄様に、ほえ面をかかせてやるわ。生きている限り、立ち止まってなんてやるもんですか」




