第百五話『かつての君よ』
破壊の色を纏った魔導が宙を這う。
黒色の亀裂が駆け巡り、まるで世界そのものに罅をいれるかのよう。
かつて王が用い、かつて世界から抹消された、一つの魔導。
絶対無比の矛が、大淫婦ロマニアの首を食いちぎらんと牙を向いていた。
ロマニアは感嘆しながらも、鬼子グリアボルトの報告にあった小娘の存在を視認して静かに呟く。
「――なるほど。あれが王の器か」
迫りくる黒の亀裂が、ロマニアの視界に映る。
それは本来であれば、空を浮遊する城塞まで届くはずもない。それほどの射程距離を持つ魔導はそうありえるものではない。
ただ、ロマニアが地上より魔力を吸い上げているこの瞬間だけは別だった。
この間だけは、ありとあらゆる魔力が有象無象の区別なくロマニアに集中している。
であるならば、放たれた魔導もその範疇だ。ただ通常であれば、この状況で魔導など用いれば絶命に至るというだけで。
「面白い」
銀縁眼鏡を身に着けたエルフは、頬を吊り上げながら言った。
少なくとも、王の生前にこの魔導を受けた事は無い。破壊の色を有する魔導は、王一人のものだった。
だが魔導の探究者たるエルフとして、その破壊力に興味がないと言えば嘘になる。それに、王が自分の器に選んだ小娘の力量も気になった。
相応しいのか、それとも不相応なのか。試さねばならない。
「陛下。一歩後ろへ。己が請け負おう」
黒い亀裂を前にして、ロマニアはエレクを庇うように前に出る。
構えもしない、ただ空間を掴み取るように少し手を前に突き出すだけ。それが彼女の在り方だ。グリアボルトのような強靭な肉体も、ゲイルのような光弓も持つことはない。
それでなおロマニアが彼らを率いる立場にあるのは、彼女はそこにあるだけで強者足りえるからだ。
エルフ国家の頂点。国家の統治者にして、英雄たる姫君。ありとあらゆる魔力を食い尽くす怪物。
英雄姫ロマニア=バイロンが、シヴィリィの魔導と相対した。
「――魔力展開」
緑色の魔力が一瞬でロマニアの周囲に展開する。髪の毛の先からつま先まで、彼女はその全てが魔力の塊だ。
すぅと息を吸い込みながら、銀縁の眼鏡を輝かせる。
――瞬間、ロマニアの緑色と、シヴィリィの黒色が衝突を起こして空間が捻じれ狂う。
閃光が弾け飛び、衝撃が空を揺蕩わせた。肌を痺れが襲い、視界が明滅する。
ロマニアからすれば、シヴィリィの魔導はまだまだ発展途上だ。
魔力の練り方が甘い。理論構築が曖昧だし、展開力も脅威とは言えない。
けれど、それで尚黒い亀裂は空を喰う。
「――陛下、もう一歩下がると良い」
思わず、ロマニアは目を細めた。魔導の心得は未熟だというのに、この爆発的な破壊力。才覚がある、というより相性が良いのだ。
この世には何事も相性というものがある。武器だって、剣が得意なものがいれば槍が得意なものもいるだろう。
魔導はその精神を持って手綱を握る以上、どうしてもその性格やその者の根幹との相性が重要になってくる。
性格が苛烈で一途な者は炎と相性が良く、逆に気分屋やマイペースなものほど風の魔導を得意とする。無論、育った環境なども関係するため一言で言えるものではないのだが。
「……随分と良い性格をしているようだな、君の器は」
「…………さぁ、どうだろうな」
エレクははっきりと言わなかったが、ロマニアも答えを求めているわけではなかった。
これだけの破壊力を魔導に持たせられている時点で、それは明らかだ。
ロマニアは自らが展開した魔力が黒い亀裂に浸食される姿を見つつ、不意に憐憫の情を胸に抱かせる。
破壊の魔導と相性が良いものなどそういない。その為には、破滅的な願望を持ち、破滅的な人生を送ってこなければならない。間違いなく彼女の日常は壊れ果てていたはず。きっと生み出した王ですら、こうも相性は良くなかった。
その金髪と紅蓮の瞳を見れば、彼女の出自は一目でわかる。彼女が地上でどういった扱いを受けているのかも。
――その彼女が、地上の尖兵の一人として迷宮に迫り来ているのが、全くの皮肉だった。
「ふっ。ままならないものだ。いいや、昔からそうか」
ロマニアは苦笑をするように言ってから、呼気を吸い込み言う。
「悪いが己も、ただの器である君に負ける気はない」
言って、ロマニアが指を鳴らす。
瞬間、彼女を覆っていた魔力が蠢動し、形を変えながら黒の亀裂を包み込む。
ぐしゃりと、音が鳴る。魔力は嗚咽をあげながら、シヴィリィの魔導と共に自壊した。
敵の魔導を逸らす際によく使う手だ。とはいえ、押しとどめられる程度の魔導にしか使えない手ではあるが。
その瞬間、黒い亀裂が最後の雄たけびをあげて崩壊する。僅かに周囲に破壊の波動が響き――しかし物質的には何一つを破壊しないまま、消え失せた。
ロマニアは僅かに指先を痺れさせつつ、眦をくいと上げる。
カサンドラが破れ、肉体を捨てる事になった理由はこれかと推察する。無論王の助力があったのはわかるが、それだけで敗れ去るほどカサンドラは弱体ではない。
アレはアレで、紛れもない英雄であり、地上を蹂躙する一角だ。
ロマニアは片目でちらりとエレク、そうして次に地上を見ながら言う。
「陛下。食事は終わった。君にも一つ挨拶でもして貰おうかと思ったが、状況が状況だ。今日はここで終わりにしておこう。もう彼らへの手は打っている」
エレクはじっくりと時間を置いてから、頷いた。
「…………ああ」
黒い瞳が真っすぐにロマニアを見つめていた。その様子に満足してロマニアは頷く。
――僅かに、綻ぶような笑みが頬に浮かんだ。
何せ彼がただ一人、ロマニアだけを見つめているなど五百年前なら有り得ない事だ。
彼は五百年前誰一人として見つめてなどいなかった。彼が見つめていたのは、世界そのものだったのだろう。
それは高尚な事であり、王たる者として相応しい振る舞いなのだとはロマニアも理解する。
しかしそれでも、そうだったとしても、求める所はあるではないか。長命のエルフとて、生きる者なのだ。
愛する者からは、愛の言葉をかけられたい。自分を見てほしい、自分だけを見てほしいと思うのは当然の事。
「見ていてくれ、君。かつて君が己を救ってくれたように、今度は己が君を救ってみせよう」
エレクの両手を掴みながら、ロマニアは言った。甘い吐息が唇から漏れ落ちる。長い髪の毛が、はらりと宙を舞っていた。
そうとも。結局五百年前の英雄達は、裏切り者ばかりだった。彼の下で魔族との戦争に頸木を打ったというのに、彼を迷宮に追放する所か命を狙おうとまでする始末。
その名誉を貶め、その血を踏み汚し、その名を封印した。
何たる屈辱、何たる不名誉。
人間よりも長命であるからこそ名誉を重んじるエルフにとって、地上の人間の仕打ちは耐え難いものだ。
エレクの存在が強大であったゆえに、地上が二つに割れたのまでは理解が及ぶ。しかし、その後にあの騎士共があちら側につくとは。
彼の手を掴み取ったまま、ロマニアは再び眼下を見た。
大騎士カーレリッジの末裔、アリナ。そうして王の器たる、シヴィリィ。
気は進まない部分もある。考える部分も本来ならある。
五百年前の聡明なロマニア=バイロンであれば、この英雄同士が対立しあう状況に疑念や方策を打ち出す事もあったかもしれない。
――しかし、彼女の瞳にはもはや波打つ憎悪と果ての無い愛情しか映っていない。
怪物たる大淫婦ロマニアは、エレクの手に指を絡ませながら、跪いて言う。
「今日、アレらを全て殺してしまうよ。許してくれるね、君」




