第百四話『誘惑者』
大淫婦ロマニア=バイロンの透き通るような、それでいて耳に絡みつく声が響く。
シヴィリィはそれを、まるで香水のように感じた。幾ら払おうとしても独特な匂いが全身に纏わりついてくるあの感触だ。
「安心したまえ。己が全てを与えよう。何一つ案ずることはない」
ロマニアは念を押すように言ってから、指先を軽く捻る。随分と遠くにいるはずなのに、その場にいる誰もがそれをはっきりと見た事だろう。
銀縁の眼鏡が、僅かに煌めいて陽光を吸い込んでいる。
「罪過も、欲望も、生も、死も。全て己が受け入れる。君らは何一つ間違ってなどいない。であるからこそここにいるのだ」
その二つ名の影響、というわけではないだろうが。シヴィリィにはロマニアの声の一つ一つが、誰かを誘う為のものに聞こえた。
人の心の裏を擽る様な、それでいて何かを沸き立たせるような。思わずシヴィリィは、エレクの姿を見ながらもその声に喉を鳴らした。眼前に、遠い光景が見える。
昔にも、似たような光景を見た事が在った気がした。いいや自分の記憶かは分からない。けれど、ロマニアから全く同じ事を聞いた覚えがあった。
彼女は次に、こういうのだ。シヴィリィが思わず唇に指を沿わせた。
「欲望に塗れた君らよ。己は君らを救い、罪を贖おう。ゆえに――」
思わず、同じ単語を唇からシヴィリィは発した。けれど周囲の誰も気に留めなかった。誰もが上空のロマニアだけを見ていた。
そこから、シヴィリィの記憶にはない言葉をロマニアが続ける。
「――捧げたまえ、君ら。一片の欠片も残さず。この大淫婦が君ら全てを受け入れ、呑み込もう」
「っ、ぅ……!」
淫靡で、綺麗で、救いようもない色気を感じる瞳を輝かせてロマニアが言う。
どうしたわけか、紛れもなく同性だというのに、シヴィリィすらその言葉に胸が弾まされたほどだ。心臓の動悸が止まらず、血脈は流れを早くする。
では、異性ならばどうだろうか。
考えるまでもなかった。多くの男性たち、そうして集った第七層の住人達がその場に膝をつく。抗いがたい重力に押し付けられるように。
これが、彼女の性質なのだとシヴィリィは直感する。
聖女カサンドラがその権能で堕落へと人々を導いた様に。
大淫婦ロマニアは人々を完膚なきまでに誘惑する。
ああ、そうか。と今更ながらにシヴィリィは納得した。第七層はあらゆる欲望を肯定する希望の国だ。しかし、ここで最たる欲望は、性欲でも食欲でも睡眠欲でもない。
――彼女だ。大淫婦ロマニアこそ、この第七層の欲望の象徴。全ての者は彼女に魅入られる。
果て、そうするとまさかエレクもあの誘惑にやられてしまったわけではないだろうな。
シヴィリィがロマニアの誘惑を前にして心の揺れ動きを押し留められたのは、同性であったというのもあるが、その思考が最も大きな所だった。
「耳を――」
ふと気づけば、すぐ傍らから魔力の輝きが迸っていた。
戦役の騎士たるアリナが、手元の剣を握り込みながら叫ぶように言った。
「――貸すなと言っているだろうがぁッ!」
そのまま、アリナが魔力の込められた剣を振り抜く。剣はすぐ隣の建造物を破壊し、残酷な崩壊音と振動を周囲に振りまいた。
その影響だろうか。探索者の一団は、思わず我に返ったように周囲を見渡す。
シヴィリィもまた、ようやくアリナをはっきりと見る事が出来た。先ほどまでは意識せずとも、ただ上を見続けていた。いいや、上を見ている事こそが正常だと思わされていたのだ。
それが異常だとすら気づかなかった。
「今、のは……」
「事前に情報は伝達されていたはずだ! 大淫婦はその存在そのものが誘惑者! 声を聴くな! 姿を見るな! 今すぐ駆けろ!」
アリナが酷く声を荒げながら言った。彼女がこれほど余裕を失うのは、鬼子グリアボルトと戦っていた時ですら無かった事だ。
彼女ですら、ロマニアが直接その姿を見せるような事態になるとは思っていなかったのだろうか。一つ一つの行動が、後手に回っている気がする。
だからこそ敵は、すぐに次の手を打って来た。
「そんな叱咤で、己から逃れられると思ったのかな。アリナ」
か細い、囁くような声。到底地上に届くはずのないロマニアのそれが、そぉっと耳に入り込んでくる。
ぞくりと、シヴィリィは背筋を震わせた。親しみすら籠っている呼び方なのに。恐ろしいほどの冷徹さに溢れている。
何が在ればこれほど他人を突き放すような感情を声に籠められるのだろう。不思議になるほどだ。
そのまま、ロマニアが続ける。
「――さぁ、捧げよ。君ら。己こそが君らの母であり、愛であり、世界である」
再び、耳に絡みつく声が響いた瞬間だった。
どさりという音が聞こえる。最初は、広場周辺まで集まった第七層の住人達だ。次々に彼らが倒れ、人形のように一切の抵抗なく伏していく。
まるでその場で意識を失っているよう――いいや実際に失っているのだ。
今のシヴィリィには薄っすらとそれが視えた。
住人達の身体から、魔力が浮き上がっていく。魔力は彼らの身体から搾り取られるような様子で抜け落ち。そうしてそのまま空へと浮き上がっていった。
魔力とは第二の血だ。魔力を抜き取られるというのは、大量の血を吐き出すのとそう変わりはない。無論少量なら大した影響はないが、明らかに彼らが抜き取られているのは人一人が絶命するのに十分な量だった。
ノーラが身震いをしながら両手で身体を抑え込む。
「嘘、でしょ。こんな事ある――?」
シヴィリィもまた、周囲の者ほどではないが魔力が身体から抜け出ていく感触があった。
だというのに何一つ不快な事はない。むしろ心地よさすら感じている。
ゆえにこそ、不気味だ。何なのだこれは。
そう感じる合間にも、周囲の探索者達が次々と倒れ伏していく。魔力を失い、力を失い、命を失っていく。
思わずシヴィリィは、上を見上げた。再びロマニアと、その隣のエレクを見た。
ロマニアは笑っている。エレクは平然と、眼下の光景を見下ろしていた。それが当然だとでもいうように。
「っ、ぐ……命令は告げたぞ! 退け! ――前衛後退ッ!」
アリナの判断は、後手となったが決して遅くはなかった。しかしそれでも尚、被害は大きい。
第七層の住人は勿論、探索者の男性も多くが地面に倒れ伏している。ロマニアに魔力を吸いつくされたのだ。
厄介な事だった。
魔力は感情や環境によってその多寡と性質を変動させる。言わば生命力にも近しい存在だ。より生きたいと思えば魔力は活発になり、死を望めば魔力はゆったりと鼓動を停止していく。
欲望に塗れた第七層の住人達。栄耀栄華を望む探索者達。彼らの魔力の質は素晴らしく良質な事だろう。
アリナはこの光景をもって、第七層の構造の一部を理解した。
ロマニアは欲望を満たした人間の魔力をもって、この都市を管理する。彼らに提供している物資も、魔力を生み出す家畜への餌というわけだ。
しかしそれだけでは、物資やそもそも住人の供給は何処かで途絶える。浪費し続けるだけのはず。それは何処で――。
アリナが、そんな思索を裏で回しながら、生き残った探索者達の後退を指揮していたのと、全く同時だ。
一人の探索者が、詠唱を告げた。
「――『破壊』」
瞬間、破壊の魔力が迸る。吸い上げられる魔力に応じるように、黒い罅が走っていく。
本来なら、魔力を吸い上げられている瞬間に魔導を発するなど自殺行為だ。体内の魔力をそのまま浪費して死に絶えるだけの愚行。
だからこそアリナも、後退のみを指示したのだ。
けれど、されども。
――シヴィリィ=ノールアートだけは別だった。
アリナが瞳を剥く。
忘れるはずもない。シヴィリィがグリアボルトとの一戦で見せた特性。
迷宮がため込んだ魔力を、その身に呑み込む権能。ロマニアの誘惑をもってすら、彼女の魔力を吸いつくす事は出来ない。
ゆえにこの場でロマニアに相対出来るのは、シヴィリィ一人だ。
唯一、問題があるとすれば。
「――正気に戻りなさいよッ! エレク!」
彼女が見ていたのはロマニアではなく、その傍らの青年という事だ。




