第百三話『万民を睥睨せし者』
狂気とは実に恐ろしい。
狂気は戦場を産み落とす。狂気は知恵者に判断を誤らせる。狂気は人に本来させない選択肢を踏み込ませる。
暴走か、過熱か、それとも情熱か。理性ではあり得ない行動が、狂気においては肯定される。
けれども、果たして理性と狂気、どちらに浸るのが幸福かは曖昧だ。
理性に埋没し、合理性こそを愛し、それ以外を拒絶して不幸になった者もいれば。
狂気を溺愛し、不合理こそを信じ、それだけを受け入れて幸福になった者もいる。
ゆえに第七層に取り込まれ、欲望という名の狂気に食われてしまった人間達も。もしかすれば途方もない幸福の果てにいるのかもしれなかった。
だって彼らは、欲求を満たす事が正しいと疑わない。それだけを追い求め食らい潰す。食欲か、性欲か、睡眠欲か、それとも派生する数多の欲か。
どれでも良い。ここでは、それを満たす事こそが正義なのだ。
「故に、過去は第七層に定住してしまう者も多かった。悪夢だぞ。地上の戦力は消え失せ、地下へ次々呑み込まれてしまうのだからな」
「僕はちょっと御免だけどね。こんな所で一生を過ごすなんて冗談じゃない。その時点で正気じゃないんじゃないの」
アリナが広場を見ながら言った言葉に反応したのはノーラだった。昔馴染みだからこそ、どこか気安さが籠っている。
シヴィリィは横目でそのやり取りを見ながら、軽く欠伸をしそうになった。そういえば一睡もしていないのだ。流石に見張りの交代をして貰えないものだろうか。頬に当たる冷たい空気だけが彼女の眼を覚ましていた。
アリナの『軍団』は大通りを制圧した。それは紛れもない成果だったが、第七層を陥落せしめようと思うにはまだ二つの関門が残っている。
即ち、浮遊城とその門前に控える『無尽』ゲイルの異界。本来であれば勢いに任せ攻め立ててしまいたい所であったが、物事はそう簡単ではない。
浮遊城も異界も金城鉄壁そのものである上、ヴィクトリアや探索者らが浪費した魔力は未だ回復していない。迷宮の中では自然回復する魔力の量も微弱になるもの。限られた物資を使用して、戦える者全員が今は回復に時間をあてている。
相変わらず第七層から脱出の術は見当たらず、進むべき道は前しかない。
であれば、取るべき手段はもう一つしかなかった。
全ての用意を整えての、総力戦だ。
『無尽』ゲイルの異界を踏み潰し、浮遊城を陥落させるためこの場の全探索者が命を擲って突貫を開始する。ヴィクトリアの魔力回復が済めば、それはただちに開始されるだろう。
――それもまた、狂気の代物かもしれないが。けれど、誰もそれに疑問を抱かない。
比較的魔力の浪費や怪我の少ないシヴィリィらは、アリナに付き合わされるように最前線で敵兵の監視を担っていた。とはいえ、城と異界を有する彼らが攻め込んでくる様子は欠片も見受けられなかったが。
もう夜が明け、再び日が昇りそうだった。
シヴィリィはふと僅かに眩暈がする感触があった。意識をしないと呼吸が荒くなる。何か全身がざわつく気配があったのだ。
これこそが、欲望のざわめきというものかもしれない。戦場という緊張状態の中、徐々に全員の精神の均衡が揺らぎ始めている。
皆同じような気分なのだろうか、アリナを警戒していたココノツすら口数が多くなり始めていた。
「――シヴィリィ殿、シヴィリィ殿」
ココノツは上空を見たまま、言った。纏められた黒色の髪の毛がぽふんと揺れる。
何時も通り、呑気な様子にシヴィリィには見えた。しかしその目線だけは少し尖りを見せていて、唇が鋭く言う。
「あれは、報告対象だと思うでありますか?」
そう言って、ココノツは指で上空の浮遊城を示す。つられてシヴィリィが見た。
僅かな眠気が瞼を重くして、思わずもう一度欠伸をする。
しかし――それを見た瞬間、欠伸も眠気も消えて失せた。
中空に揺れる浮遊城は、浮いていると言っても視認できない程ではない。その城壁に佇む兵士たちの姿くらいは視認できる程度の高さだった。無論、実際にそこに辿り着くのは困難極まるのだが。
そこに今日は、兵士ではない者が見えたのだ。
無論、遠目にしか見えない。本来であれば精々輪郭が見える程度。しかしどういうわけかシヴィリィには、その人物から息を呑むほどの熱量が感じられた。
遠く離れて尚、己を認識させる膨大な存在感。まるで城壁からこちらを睥睨するかの如き冷徹な視線が、はっきりと認識出来る。
否。シヴィリィだけではない。先に言ったココノツは勿論、その場にいる探索者がいつの間にか上を見上げていた。
奇妙な事だった。まるで無理やり全員が顎を掴み込まれたかのよう。彼女には紛れもない、視線を惹きつける力があった。
「――おかしいですね。私は、あの者を知らないはずなのですが」
リカルダが頬に汗を伝わせながら言った言葉は、きっとその場の誰もが思った事だろう。
見た事などあるはずがない。知るはずがない。
だけれども、彼女が誰かが分かってしまった。
――あれこそが、大淫婦ロマニア=バイロン。
第七層。そうして浮遊城の城主が、今大通りまで詰めかけた探索者らを見下して睥睨している。それだけで、誰もが心臓を掴み込まれたような思いになる。
狂気の発信者であり、欲望の肯定者。人を惑わし、狂わせる事に何よりも長けた者。
けれど――。
誰もがその威容に視線を集中させる中、シヴィリィと、そうしてノーラは全く別の所を見ていた。
「ねぇ、シヴィリィ」
ノーラが呼んだ。声に応じて頷く。ロマニアの傍らに、もう一人がいたのだ。
黒髪と同色の瞳の青年。
彼もまたロマニアほどではないものの、確かな熱を有している。しかしロマニアが自ら視線を引き受けているからか、多くの者は彼に気づいてすらいなかった。
視線に入っていても、気づかないのだ。しかしシヴィリィとノーラにはすぐ分かった。
――間違いがない。あれは、エレクだ。
あの亡霊が、実体をもってそこにいるのだ。姿こそやや違うが間違いがない。一目で分かる。
「――何、ノーラ?」
視界に収めた瞬間、シヴィリィは思わず頬が歪んだのが分かった。
二つの感情が渦を巻くように、胸中で呼気を吐く。
一つは無事で良かったという安堵の想い。
ああ、やはり生きていてくれた。当然だ、よもや彼が死ぬわけもない。そうでなくては世界が間違っている。だが、確信できてよかったのは間違いない。
そうして、もう一つは全く別の感情。
――どうして彼はロマニアの傍らに平然と侍っているのだ?
捕らえられているとか、鎖で繋がれているとか。もしもそういう状態であったのなら、シヴィリィにしろ、そうしてノーラにしろ。何か思う所は無かったかもしれない。むしろより心を燃やしただろう。
しかし今の彼に、そんな様子はまるでない。むしろそれが当然とでもいうようにロマニアの傍にいる。それ所か時折会話をしているようにすら見えた。
「あれさぁ、何してるんだと思う?」
ノーラの問いかけに、シヴィリィは瞳を細めた。頬をひくつかせ、大いに歪ませて言う。
まさか、自分が彼の安否を心配して地上を駆けずり周り、都市統括官や空位派と接触し、遠征団に参加した上死にかけながらも辿り着いた先で、こんな光景を見るとは思っていなかった。
「――それは本人に聞きましょうか」
言葉を嚙みしめるように、シヴィリィは言った。何と言うべきか全く分からなかったが、それだけがぽろりと口から出てきたのだ。
そんなシヴィリィの胸中など知る由もなく、大淫婦ロマニアが眼下を睥睨したまま口を開いた。
伝達でも使っているのか、その存在同様に声がはっきりと耳朶に伝わって来た。
「――いかん。耳を貸すな!」
アリナが咄嗟に叫んだが、効力は僅かだった。
多くの者はロマニアへと視線を注ぎ込み、彼女が言う言葉に、はっきりと耳を傾けていた。
いつの間にか広場やその周辺に、第七層の住人が集まり始めている。彼らは虚ろな瞳をしながらも、やはり浮遊城のロマニアを見つめるようにして顔を上にあげていた。
誰もが彼女を見ている、異様な光景がそこにあった。
妖艶でいて、耳に絡みつく声が響く。
「ごきげんよう。誰でもない君ら。――罪人の子ら。安心したまえ。己が全てを与えよう」
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