第百話『屈辱の日』
鬼子グリアボルトが空を飛ぶ。身体がねじ曲がったように軋みをあげ、黒い稲妻が彼女の全身を走っていく。
彼女は間違っても自ら飛んでいたのではなかった。
吹き飛ばされたのだ。緑色の瞳が痙攣し、眼球が揺さぶられて視界が弾ける。
何が起き、何をされたのか。グリアボルトの身体は理解している。しかし、脳がその理解を拒絶した。
あるわけがない、あってはならない。
「……こむ、すめぇっ!? あんた、それをどうして――」
弾き飛ばされた身体を何とか地面の上に立たせ、指先を震わせながらグリアボルトが言う。口から出て来る呼気が酷く冷たい。
鬼の瞳は射殺さんばかりにシヴィリィを睨みつけ、咆哮を吐き出した。
「ええ、私はただの小娘よ。何者でもない。だから、必要なら何者にだってなってやる」
困惑を隠せないアリナを傍らに、黒いドレスと僅かな防具を身に着けてシヴィリィが言う。凛然と、その瞳から魔力が漏れ出ているかのようだった。
がちりと、グリアボルトは奥歯を噛んだ。歯ぎしりが鳴り、そのまま歯が悲鳴を上げ始めるほど。
おかしい。あり得ない。馬鹿な。
指先を軽く握りしめ、グリアボルトが魔力を循環させる。
魔力の発露、体内の循環、外部への流出に至るまでのやり方は人それぞれだ。多くは脳内にそのトリガーを持っている。それは世界が保有する魔導へ繋がる為の儀式なのだ。
例えばシヴィリィのように、血管以外の魔力の管を幻視する者もいれば。人に向けた強固な感情がそのままトリガーとなる者もいる。
このプロセスを明確に確立させておく事は、案外と馬鹿にできない事だった。筋肉と同様、ただ動かすのではなくどう動き、どう作用するのかを強く意識できている者ほど強大な魔導を使用する。
グリアボルトの場合、それは熱した鉄だった。
固く強固な鉄、何ものにも砕けぬ熱い黒鉄が全身に行き渡る幻視。関節すら固まり、鉄へと変じる。皮膚はおろか頭髪や血管、内臓に至るまでが強固な鉄に覆われ、覆われ。
――耐え切れなくなった鉄の圧力は、外部へと溢れ出す。
このトリガーこそ、グリアボルトの『強化』をより強固にせしめているものでもある。魔力をどう想起するかは、その者の魔導の質にも関わってくることだ。
しかし、今は幾らそれを呼び起こしても魔力が動かない。
これは、これはまさか。
グリアボルトが慟哭するように瞳を歪めた。しかし冷静になり始めた頭が、とうとうそれを認めてしまう。
――魔力が、破壊されている。そのトリガーも含めて。
「よくも、よくもやってくれたもんだね。こんな屈辱な事はないよ」
痛みはない。身体は崩れていない。しかし魔力を使用できないというのは、それだけで生命線を失ったのと同様だ。
魔力を用いれる存在と、用いれない存在の差はそれほどに大きい。
グリアボルトは爪が砕けそうなほどの勢いで両手を握りしめながら震えを起こす。
恐れではない。純然たる憤激だ。
彼女の自尊心が、軋みをあげているのだ。右眼に凍り付きそうなほどの憎悪が込められている。
それは王の魔導を盗み取った盗人への憎悪でもあり、そのような者に――敗北した自分自身への憎悪でもあった。
そうだ、これは敗北以外の何者でもない。
生まれて百年も経っていない小娘に、癖を見抜かれ魔力を封じられた。何たる有様。何たる無様。この自分が、逃げ去るしかない状態に追い込まれている。
今まで幾度もの戦場で死に至る程の戦いを演じた事はあったが、これほどの無様を演じたのは初めてだ。
嗚咽を漏らし、たっぷりと屈辱を噛みしめてから、グリアボルトは言う。
「今日の事は、よく覚えておくよ。死ぬんじゃないよ、あたしが殺してやる。シヴィリィッ!」
「……何を言っているの。逃がさないわ、アリナが」
「己がか」
シヴィリィの言動に構わず、グリアボルトは自らの斬り刻まれた左眼窩に指を入れる。ぐちゃりとした音が鳴った。黒い血が彼女の頬を伝っていく。そうしてそのまま、割れた眼球を取り出す。
魔導使いの肉、特に眼や心臓といった部位は魔力の塊だ。五百年前には、心臓をまるまる別人に移し替えて魔力を移植するなんて荒業も行われた。
だからこういう使い方も、出来る。二度と再生は出来なくなるが――。
「――あばよ。あたしの敵共。城まで来なよ。来なかったら、全員死ぬんだからさ」
「待て、それは何を――」
アリナが剣を構えたまま前へと跳んだ瞬間だ。
グリアボルトは右腕で掲げたそれを、勢いよく潰し――内部にため込んだ魔力を流出させた。ほんの一瞬、彼女の全身の魔力が稼働する。
「精々自分で考えるんだね。あんた達には、五百年もあったんだからさ。こっちの事はよく知ってんだろう!」
そう、大声で言い放ち、怒りに塗れた声の残響音を大通りに残しながら。
――鬼子グリアボルトは姿を消した。
◇◆◇◆
「あっ! ちょっと、アリナ! 逃げる、逃げちゃう!」
シヴィリィが大きく口を開いて言いながら、アリナへと視線を向ける。しかし呼びかけられたアリナは、無茶を言ってくれるなと思わず息を漏らして剣先を地面に下ろした。
どれほど魔力を探っても、グリアボルトの気配は無い。恐らくは最後の魔力を持って、縮地を用いたのだろう。便利な技巧だ、出来るなら自分も覚えたいがと思いつつ、アリナは口を開く。
「不可能だ。アレが全力で逃走すれば、己では追いつけん。己とアレでは特化した方向の相性が悪すぎる」
「……そういうものなの?」
「そういうものだ」
実際、全力で戦闘を行っている最中も速度なら圧倒的にグリアボルトが格上だった。アリナは魔導の軌道を変えて無理やり順応していただけだ。もし相手の魔力が尽きなかったらどうなっていた事か。
そうして本来、この迷宮において守護者らの魔力が失われる事は有り得ない。
彼らは迷宮にため込まれた魔力と繋がっているからだ。無論、聖女カサンドラほどの大魔導を運用しようとすれば話は別だが。
だからこそアリナは、剣を鞘にしまい込みながらもシヴィリィを見た。黒く覆われたドレスに防具。その腕までもが黒く染まっている。
奇異なのはその姿もだが、先ほどグリアボルトに用いた魔導が最たるものだ。
「貴君、あの鬼子に向けて何をした。いいや、何故戦えた。言ってはなんだがな、貴君の動きでは本来あの鬼子に追いつけん。それとも、戦力を偽っていたのか?」
率直な、情熱そのもののような言葉遣いだった。虚偽は言わない。遜りも慮りもない。しかしどこか心を打つ響きがあるのは、シヴィリィが幾度も感じた事だ。
ゆえにこそ、下手な嘘は通じない。それにシヴィリィもアリナの在り方は嫌いではなかった。属領民にこうも率直な言葉を投げかける正市民もそういない。ヴィクトリアのような奇妙な怖さも無かった。
「そんな器用な事出来ないわ。ただ、その……たまに記憶が見えるのよ。この魔導を使っていた人の、エレクの記憶。どう使って、何をしてたのか。全部じゃないけどね。そこにグリアボルトがいただけ」
「ふむ」
なるほど、とアリナは頷く。
合点がいく範囲の答えだったからだ。何らかの形で血や魔導を継承した人間が、記憶を受け継ぐのはむしろアリナ達大騎士が証明している事。シヴィリィがそれをどうやって継承したかは不明瞭だが、それでも価値はある。
いいやそれ処か。
他者の魔力を破壊出来る魔導、魔の王の記憶、そうして今彼女が得ている魔力の性質――。
ふむ、と一瞬考えた後、アリナは空いた両手でシヴィリィの両手を握りしめながら、言った。
「ふぇ?」
「貴君、欲しいものはあるか」
「え、何。何の話?」
動揺したシヴィリィを前にして、アリナは言葉を続ける。
「言い方を変えよう。カーレリッジの家名はいらんか? 何、養子縁組でも必要なら婚姻関係だろうが幾らでも結べる」
実にいい笑顔で、アリナはそう言った。




