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僕、猫、異世界  作者: アタオカしき
第1章〜僕と猫と異世界と
9/204

新しい苦しみの日常と僕 : 6


まぶたを薄く光らせた、橙色と黄色の混じった朝日によって僕は弾かれたように目が覚めた。


「ピピピピピピピピピピピピ」

「ジリリリリリリリリリリリ」

「コケコッコー――――――」

「ワオ―――――――――ン」


頭の周り、右、左、上、そこらを手で叩き潰すように音源を探す。


空振り2回。


崖を飛び降りたこと、豆の味、それらの記憶は、僕を車座席のように跳ねさせた。


「ニーチャン起きろォ朝だぞォ」


文字だけ見れば、気の強い系妹が、詰まった便器のように溢れている。


透明なガラス板は、僕の頭上真上から降りてきて、L字に座る僕の胸の位置で止まった。


「うる………おはようございます」


目を抑えられ今は朝。


「ど、どぶ、ど、どぶ、えーと、えっと昨日」


僕の目は上を向いて泳いだ。


「とりあえず、なんというか、昨日のは魔法ですか」


突然電気が消えるように意識が途切れた。


「そんなとこだなァ。正確に言やァ、意識途切れさせる術陣ニーチャンに描き込んだっていうところだァ」


術陣とは、魔法陣のようなものだろうか。


口にはせず含みっぱなしにする。


「はえ~そうなんですか。この世界の魔法使いこんなことできるんですね」


社会の秩序が乱れているに違いないこの世界。法律を定めた程度でどうにかなるのだろうか。


「ああァ、昨日のありゃァ凄腕の魔術師だけだァ。昨日数字の計算やったろォ。あれニーチャンの計算力つーか、術陣、術式どれくらい早くかつ複雑に構築できるか確認のようなもんだァ」


あの計算が魔術師の標準的な計算能力であるなら素直に手を叩きたくなるけれど、確認が目的だったのなら目標を設定した意義を僕は問いたい。


「………そうだったんですね」


「ニーチャンの具合だと、頑張ってちょっくらあったかい熱作るってェところかァ」


そうですか。


ひそかに妄想していた魔法使いの道は閉ざされた。


「じゃあ……どぶ………」


僕は開けた口を閉じた。


実際に呼ばないと覚えることが難しい。


ふわりとした風に目にかからない僕の前髪が吹いた。


「おはよう」


僕の死角、巨木の向こう側から歩いてやってきたどぶ日本語。


隣の巨木くらいありったけの呪詛を言葉に込めて丁寧に僕は発音する。


「おはようございます」


どぶ日本語は、もしこの世界がアニメなら、連続した作画の一枚に突然現れたように気配が発生する。


気配だ。


元の世界にいた頃なら信じなかっただろう。気配としか言いようがない圧が生き物から感じられる。


生き物といういい方は正確ではないが、板さんからも圧と呼べる気配がする。


地面に生えたふさふさの雑草もそれらに含まれている。


僕の隣に生えている電線のような巨木も、押しのけられるような存在感があり、物理的な干渉力を持っているように感じられる。


魔力を感じ取っているのだろうか。


「でわ、はじめる」


大きな手で掴まれたように胃が縮む。


まだ起きたばかりじゃないかと罵りたくなった。


顔を洗いたい。歯磨きしたい。寝癖を直したい。


「早いと思うのですが………」


「じかんない」


せっかちは僕を不幸にする。


「あ!うしろのあれなんですか!」


どぶ日本語の背後目掛けて指を指す。


どぶ日本語は顔を斜めに構え、灰の目を細めて僕の指を無表情に睨んだ。


この状況でのこのしぐさは後ろ向きな意味を持つ。


「ほらあの、あれですよ、あれ」


都合よく不思議なものはない。


僕の右には黄色い太陽。


左に巨木。


背後に板さん。


正面はどぶ日本語。


どぶ日本語を超えた視線の先は、朝日に、濡れた紙のような薄雲きらめく空模様。


「ああ、知らないのか。ニーチャンが指さしてるのは空だ」


「あ………そうでしたね。ありがとうございます」


「めをとじてあるいて」


どぶ日本語が後ろ向きに歩き。


歩き。


歩き。


崖の端で歩みを止めた。


「ここまで」


歩きが自分勝手すぎる。


どぶ日本語は時間がないと言っていたことを忘れたようだ。


この課題。


簡単そうだという感想が湧いた。


僕は顎を親指と人差し指で挟む。


感想通りの難易度をどぶ日本語が僕へ仕掛けるだろうか。目を閉じて歩くことは人生で全くは過言だがない。


僕は目を閉じた。


すると心の底から見蕩れてしまうものが広がっていた。


閉じた目に訪れる暗さではない。


まるで夜光虫が海に広がっているような意識を奪われる幻想。


地面の絨毯のような草は蛍光色として弱い青を放ち、僕のいる巨木の高台から、その下、弱い青が一面にいっそう分布しているのが見える。


海に例えたけれどそれは違う気がした。


その様は青いけれど、海には例えられない


なぜなら、遠くの草、つた、木の葉、全てがはっきりとみることができるからだ。


もしこの感覚を少しでも正確に言うなら、家電量販店にある、8Kのテレビで夜の都会の俯瞰映像を見た時に似ている。歩いている人の服の色、シルエットが認識できるようなものに近い。


なにもかもが鮮明だ。


賢そうに言えば、視界の分解能が上がったと言える。


左の巨木は血よりも赤く、木目や米粒ほどのでこぼこまで立体的な情報として頭に入ってくる。


上を見上げてみれば、流しそうめんに色をつけたような流線が、濃い青、濃い緑、濃い黄色と不規則に並んで流れていた。


振り返るり板さんを見ると、電球の色っぽい黄色の線が、びっしりと縦横無尽に張り巡らされている。


釣り糸のように巻かれたみたいだ。


目を閉じたまま前を向き、僕はどぶ日本語を見つめる。


目を開けた。


少しづつ高くなっていく太陽に、遠くの緑の草原、近くの深い森が照らされていて崖の端には、大きな目を神経質に開け、薄い唇を横一線にしているどぶ日本語がいる。


目を閉じた。


視界には青に光る植物ばかりで、どぶ日本語がいるところはただ黒を映すのみ。   


どぶ日本語の黒が浮き出ている。


「では」


濃い青の砂時計を、どぶ日本語は小袋から取り出した。


「はじめ」


僕は立ち上がった。


どぶ日本語までは100メートルもないと、僕の勘が耳打ちする。


魔力を体に巡らせた。


手首から先にはほとんど通らなかった。しかし問題ない。魔力を込めた右脚を踏み込み、一気に距離を縮め。


「痛!」


なにか重い物を左肩に打ち付けられたように横へ吹き飛ばされた。


受け身は取れず、無防備に右肩から体重を乗せて着地。


後ろ側の首と肩を支点に一回転。


伏せた体勢から起き上がって、僕は二秒で考えた。


死角からの一撃を回避する方法。


何が起こったのかわからないとほざくほど、僕の頭の中にはお花畑はない。


明らかにどぶ日本語によるものだ。


腰を落とし、右足でどぶ日本語がいるほうへ踏み込み、前のめりに体を低く保って草原を走る。


二歩目が着いた瞬間、低い体勢のまま背骨を軸に1回転、着地。


閉じた視界に先の障害となるものなし。


僕を舐めるな。


これでもドッジボールでは両手で数えるほどしか当てられたことはない。


地面に着いた右足をより強く踏み込み。


「痛!」


後頭部を上から何かで叩きつけられた。


実はそもそもドッジボールをやれた経験が片手で数えるほどしかない。


唾があふれる温泉のように大量に出てきた。


痛みは地面に叩きつけられる衝撃が原因のものだけ。


唾で舌を守らずに飲み込む。


僕はまた1歩踏み出した。



_________________________________





「おわり」


僕が得たのは咳の止まらない余生と黒豆と青あざだった。


だからどぶ日本語が立つ反対側へ僕は崖に向かって走って。


「うえっ」


服を背中から引っ張られ、次にうなじをひっぱられて原っぱへと叩きつけられた。


仰向け。青い空。


その体勢で顔を上げると、立ちはだかるは、細く、筋の立った鼻を高らかにして僕を見下ろすどぶ日本語。


お昼前の高台に吹き付ける強風が、どぶ日本語の灰の長髪をたなびかせ、その髪は鬱陶しい太陽の光を反射し灰色に輝く。


「たべなさい」


どぶ日本語は既にあの黒豆を右手に乗せている。僕は立ち上がり、お腹を揉むように両手で押さえてかすれた声で懇願した。


「その前にお手洗いを借りたいのですが………」


どぶ日本語は傾げた首でその長髪が揺れ、ごくわずかに眉をひそめる。


「―――――――」


どぶ日本語へと板さんは音を発した。


初めから用を足したいと、どぶ日本語へ意味が伝わる可能性が高い言葉を使えば、はなから無視される可能性が高い。


ならば。


あえて通じないであろう日本語の隠語を使うことにより、板さんが説明のために会話に入り込まざるを得ない。


この会話の流れはこの隠語の説明をしつつ、板さんが行って来いと促す雰囲気が生ずる。


それすなわち、外国語日常会話辞典にありそうな自然な会話の流れによって、僕は無視されることなく黒豆を遠ざけることに成功するということ。


くくくと僕はほくそ笑んだ。


僕の思考、僕の便意がないことが透けていたとしても、社会的な人間ならばこの会話の流れに逆らうことはできないだろう。


「たべてからいきなさい」


くそがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。


閉じた口で絶叫した。


「行かせてからでもいいんじゃァねェかよォ」


僕は胸に手を当てて板さんを見た。


「にげるかも」


「それもそうかァ。ネーチャンは優しいなァ。これ以上余計な黒豆を食わないでいられるようにしてくれているゥ。じャニーチャン食えよ」


僕は膝を折り、2人を呪った。


「逃げませんよ」


手足を投げ出して座る。


「お手洗い失礼します!」


ビーチフラッグをするように体を反転させる。


壁を押すような粘り気のある蹴りをもって2歩前進。


かかとをつき、つま先をつき、大地を転がすように4歩前進。


踏む地面を一撃で爆ぜ飛ばすように、つま先を突き刺し6歩前進。


踏み込んだ場所を砕き音速を超えて大気を切り裂きは―――


「ぶっ」


二の腕から全身へと波及した衝撃、視界は洗濯機の中のように回り、それは真上を向いた。


真上に近い太陽に目を焼かれ、目を閉じると同時に下あごを手で開けられ下あごを閉じられる。


口と鼻を抑えられ、酸いと苦いと辛いが――――――


「んぐぅぅぅぅんん!!」


噛まずに飲み込み失敗を悟る。


喉の膨らむ痛みに息を忘れる。


胃へ落とした。


忘れた呼吸を思い出すために大きく口を開けて肺へ空気を送り込む。


「ゔゔぅぅぅぅぅ」


息のあった餅つきのように黒豆を突っ込まれた。



_____________________________




崖から飛び出てすらいなかったのに。


棒立ちのどぶ日本語を睨む。


うまくできたと思った魔力の使い方も気のせい。


あたりはえぐれた地面も割れた大地もありはしない。


あるのはふかふかの雑草。


でも安堵した。我を忘れて、小さな命を傷つけるところだった。


植物は生き物でないと考えている人がいることは、僕は信じられない。


「おえぇぇぇぇぇみずぅぅぅぅ」


口の中の汚物をすすぐものはない。


「ふゥひでェ」


板さんはどぶ日本語寄り。


「つぎ、はじめる」


わざわざ下手くそな日本語で話してくれるどぶ日本語。


「みみをふさいでこれをさがして」


外套で隠れた灰色の右腕をどぶ日本語が出すと、その手のひらには黒と茶色がまだらになったねずみらしきものが乗っていた。


見た目はほぼねずみだけれど、僕のよく見知った耳の代わりに、太いみみずのような触覚が生えている。


その子は顔をきょろきょろ動かし、体は何かに縛られたように動かない。


僕は目を閉じた。


ねずみは薄い水色を放ち、そして目に見えない何かで縛られているということではないようだ。


閉じた目に黒いどぶ日本語の動きは映る。


目を開けると、どぶ日本語はねずみもどきへ、糸のように細い金属製の紐を左手、それら指だけでくくっているところだった。


器用だ。


僕にはできない。


金属の紐には、小さく、からからと音のする乾燥した木の実に見えるものが通されていた。


「――――――」


このこぎみ良い言葉は魔法の詠唱だろう。


どぶ日本語の声を受けてだろう。ねずみもどきは猫のように素早く走り去っていき、深い足元の芝に沈み、その影は崖まで続いて消えた。


「では」


「ちょっろ待っれくらはい」


口をうっかり完全に閉じるとまたあの酸いと苦いと辛いが忍び寄ってくる。だからそれは半開きだ。


言いたいことが、つまったティッシュ箱のようにある。


ほとばしる悪態に罵詈雑言を舌で転がし、胃に流し込んだ。


「目をつぶっても目が見えます。なにか知っていますか」


「それはいい」

「ネーチャン、ここは板様に任せろォ」


ふたりの声は重なった。


どぶ日本語が口を開く前に、板さんは画面に渦巻き模様の眼鏡の男の人を表示する。


「魔力が見えるようだなァニーチャン。ネーチャンは天才肌でよォ、自分と他人(ひと)が同じだと思いすぎる節がァある」


僕は反射で、ごきぶりさんを見た時と同じ顔をした。


自分の基準で人のことを考える人間。


「ニーチャンもすぐ魔力が何なのか掴めたろォ。難しく考えず受け入れろォ」


同じ欠点を持ち、それを他人(ひと)に指摘してはいけないという社会的観念があるのなら、その人は不器用だと、でこぼこさんだと彼女へ言うことは出来ない。


それは僕にも当てはまることだ。


顔をしかめるような気分になれども触れないよう避けたくなるものではない。


「えっと………そういうものなのですね。魔力の色はなんかの意味あったりしますか」


「ああァあるなァ。青、緑、黄、赤の順で密度が高いってェことだァ」


「はえ~そうなんですね」


この発言を元にすれば、草原が青に見えるのは魔力の密度が小さいということだろう。

真っ赤な蛍光に光るこの巨木は密度が高いということだ。


「そこもっと詳しく教えてもらえませんか」


「はなしはそこまで」


どぶ日本語は、細い灰色の腕で板さんを脇によけた。


すると板さんの画面の、おかっぱ眼鏡の男の人は樽のように転がって吹き飛んだ。


「いきなさい」


どぶ日本語が、外套の中、脇腹あたりを手で探ると、手の親指から小指の間くらいの大きさをした砂時計を取り出した。


「―――」


短く言葉を放つと砂が落ち始める。


それに胃が痛む。


僕は崖は向かって走った。


「みみ、ふさいで」


使う日本語の単語が間違っているのではないかと僕は板さんへ視線を投げた。


「にげることもしないで」


それは大昔のイギリス人の舌に誓う。


僕は両耳の穴に、中指を入れてふさいでみると瞬間、とてつもない音の情報が耳を通して入ってきた。


風の流動。


草原の脈動。


大地の拍動。


目では捉えていない崖の下の生き物のざわめき。


血肉の足音。


命が立てる音。


なにもかもが魔力の波として、音波のようにふさいだ耳を伝ってくる。


音の多さに、手をとっさに耳から離した。


ちらりと後ろを盗み見る。


じっとどぶ日本語は僕を見ている。黙ったままだ。


再び、耳を中指でふさぎ、崖を飛び出そうと1歩。


「高いなぁ……」


踏み出せなかった。


ここを飛び降りた自分は別人だったのだろう。


匍匐前進で崖の先に顔だけを出す。


何かの(ふち)にいるとき、後ろから押されているような圧迫感を必ず感じる。


突然現れた後ろの気配。視線を送ればどぶ日本語。僕をその神経質に見開かれた目で見下ろしている。


「僕、高いところから飛び降りるのはあまり好きじゃないんですよね……」


下を覗きながら慈悲を請う。


「いきなさい」


どぶ日本語は僕の足首を掴んで頭を軸に向こう側へひっくり返した。


「あああああああああ!」


この恨みは、たとえ償われたとしても忘れないと記憶に刻む。


「ああああああああああ!」


森へ近づくにつれ、高所への恐怖が薄れる苦痛な音がふさいだ耳に押し寄せてくる。


圧倒的なこの音。


首筋から頭にかけて、耳から耳に釘を打たれたように痛む。


これはヘッドホンで大音量で聞くのと似て、だけどまるで違う。


おしゃべりで静かにならない中学校と小学校の体育館が持つ雑多さに近い。


(せみ)が何千匹といる林の中にいるような耳千切りの爆音。


小さい音の束は大きく聞こえる。


唾が溢れてきた。


あのねずみもどきに括りつけられた、乾燥した木の実の鈴は少しも聞き取れない。


音があまりにも多すぎる。


極太の木の根に着地。


木の根に生えたコケから、絶叫のような悲鳴が、煩雑な騒音の中聞こえた気がした。


しゃがみ込んで少しひっかいてみる。すると同じ音が辛うじて聞き取れた。


この音のように聞こえるすべては魔力の波と予測する。


空気のように魔力が大気に満ちている。だからその生き物や物が持つ魔力の動きが振動として、波として伝わってくる。


「ふう………」


飛び降りようとして、下を見て足がすくむ。


魔力という、磁力や重力と似た、あるけれどふつうは肉眼で見えないといった点で似ている力を体に張り巡らせた。


「ふぅ~」


幸運を願いながら大きく息を吐く。


僕は足の親指にぐっと力を込めて、木の根に生えた滑りやすい苔の上を走り出した。



________________________________




顔を見上げずに巨木の全体像が見えるようになるまで走ったこの頃。


騒音による頭痛はよりひどくなっていた。


頭の重さが増したと錯覚するほど苦しい。


不運なことに、ねずみもどきらしきものは、見かけることなくここまで離れている。


頭痛の原因である魔力の音を遮断するために、中指を耳からはずす。


強風の風切り音と、目下の森から僕を食べてくれそうな鳴き声の轟きが聞き取れた。


もう一度振り返る。


高性能の双眼鏡があれば板さんのいるところは見えるかもしれない。


視界が直線的に見通せる、その木の根の上で足を止める。


目を閉じて、巨木そびえる僕がいた高台を見てみると、板さんいるであろうところは黄色い光の点で見えている。


「うわ」


赤い巨木に、真っ黒な人型が見える。


一目でどぶ日本語だと分かった。


黒い姿は魔力でいうとどれほどの濃さなんだろうか。


閉じた目、それに映ったことに僕は眉を押し上げさせられる。


どぶ日本語の近くで起きた。


うろこの模様がある布状の、黄色に近い緑の蛍光に光るものをどぶ日本語は取り出す。


その緑の光は、僕に向かっておおよそ8本、弧を描いて翔来し、接近と共に寒気が到来。


ぐぅっと重くなる胃を、腹の上から右手で押さえる。


目を開けると、その緑の光は見当たらず、再び目を閉じると、それは現れた。


前を向いて駆け出す。


飛び降りることができたなら、ねずみもどきも探せて隠れることができるけれど、この高さから降りることを想像しただけですでに落ちて自由落下している気分になる。


走りながら心の中で首をかしげた。


僕のこの動きだけでは、ねずみもどきを探していないなどと判断できるはずないだろう。


皮の靴底を踏み込み、脚の回転を速くする。


魔力をより巡らすと、ランナーズハイに似た心地よい気分になってきた。


より速く、より素早く、より鋭く。


上下横にうねる木の根を駆け抜ける。


踏み外さないよう足元へ注意を払いながらちらりと目を閉じて後ろを見た。


8本の緑の光は僕から…………距離はおそらく、小学校、中学校の、走るための楕円運動場、端から端。


近くなった。ひやりと強風が吹きつける。体の重心を後ろに引き、下りになっている根を駆け降りる。


うねった根の一番下まで来た。


おばさんの胸元を見てしまった時と同じくらいの一瞬で、暗く深い森をちら見する。


それでも、10階建てのマンションくらいは高く、飛び降りようとすれば、脚は迫る光を上回ろうとその動きを速める。


前方には足を止めてしまいたくなるような、進むには這うしかない滑り台のような上りの木の根。


同じく胃に上ってくるのは、高所独特の不快感。


胃をくいしばって、苔や(つる)を掴んで這い登る。


明確に進む速度は落ちた。


足を止めたら2度と体は言うことを聞かなくなるだろう。この這う体勢で下をみる余裕を持て余せば体が強張る。


でも登るのはオフィスビル2階分と少し。


"はっ"と下歯を剥き出して()える。


生きることに比べれば、こんなことは大したことない。


ああ………でもまさに生きてその苦しみを。





体は動かなくなった。棒を刺し込まれたように動かせない。


自分の中に他人(ひと)の体液を混ぜられたように、鮮明にわかるほど体に魔力の異物が混じった。


魔力の浸透率が著しく低い手首から先は自由に動く。


ただそれだけだ。


なすすべなく僕は、木の根から操られたように降りる。どぶ日本語のいるところへと勝手に体が動いて、走っていった。


_________________________________



僕は現在、抵抗すら許されない状況だ。


きっと先の緑の光が何らかの影響を及ぼして僕を動けなくさせている。


契約、契り、誓いなどの、うろこ状の布と関連があることは明らか。


でもこれは、世界の反対側で転んでしまった人に結婚指輪が嵌められているかどうかと同じくらい、気に留めることではない。


この場で最も重要なことは、いかにして豆を2個から1個に減らすことだ。


「必死なのはわかるがァ、この誓約の術陣は、意志を感知する高度な術式でェ編まれているゥ」


巨大な木陰が真下からやや斜めに傾いたその下、僕はゆいいつ動かせる手をめいっぱい横にくねくねさせて逃げる気はなかったと弁明している。


「せいやくはただしい」


ああああああ!


細い灰色の指が僕の下あごをからめとり、それはいともたやすく開かれる。


胃はしくしく痛む。


どぶ日本語の左手に持っていたひとくちサイズの黒豆は僕の口に押し込まれた。


「んんんんんん!」


手首から先しか動かせない僕は、飲み込むこともできず、掴まれた顎は、どぶ日本語のねっちょりした生暖かく細い手指によって、どのように噛むかを自分で決められない。


ゆっくりと味わい深く顎を動かされ、声を出すこともできないままに、勝手に動く喉に飲み込まされて。


休みすら与えられず、口元に2個目が、その気色悪い手に運ばれてくる。


胃はしくしくと泣き始めた。



_______________________________



「つぎ、いきをとめて」


「ゔぉぼぉぉぉぉぉぉええぇぇぇぇ」


「もう逃げようとは考えないほうがァいいぞォ。そもそも何で逃げるんだァ?いや、その考えはおかしいかァ…………おかしいのかァ?」


四つん這いでもがき、心の中で、溶けたガラスと同じくらい粘ついた呪詛を吐き捨てた。


だけれど、息を止めるということ。


とてつもなく苦しいに違いないけれど、今この状況ではなんと甘美な響きだろうか。


「おう、もうやっているのかァ」


とうぜん、すでに始めている。


後味にしびれる口の中を守るため、英語の弱いシュワーである“あ”の発音っぽく口を半開き、あぐらをかいて高台の深みのある草に背筋を伸ばして腰を下ろした。


息を止めることで訪れるであろう安寧への期待から、嵐に吹き荒ぶ空は晴れ、穏やかなそよ風が吹く。


それ誘われて目を閉じ、耳を中指でふさいだ。


それはうかつな行為であることを思い出した。


しかしあの痛い爆音はやってこない。


閉じた視界の黒に浮かび上がるは濃い青色の草原とその下の深淵なる水色の森。


ふさいだ耳を木霊するは、魔力による風のささやき声と大地の笑い声。


なにもかもが新鮮なのに、同時にこの体はあたかも日常であるように、違和感なくこの変化を受け入れている。


息を止めてから時間が経つにつれ、自分の中の魔力は、心臓あたりを中心にして。


大きく、大きく。


濃ゆく、濃ゆく。


広がって、広がって。


こたつの中にいるような居心地の良さが僕を支配する。


やめることは考えられないくらいに。


もっと、もっと、もっと、もっと。


もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと。


誰かに両手首を掴まれて耳から離され、次に目をこじ開けられた。


気持ち悪い生暖かさは僕のまぶたを刺激する。


「そこまで」


僕は顔をしかめかけてもち直す。


虫がついたような不快感、虫酸が走るような悪寒がまぶたの皮2枚に伝播。


息は止めたまま、振り払ったか押しのけたかどっちつかずの動きで距離を取り立ち上がった。


「よかったなァニーチャン。はじめてだァ。祝いにこれ飲めよォ」


板さんは僕の頭を回るように視界の右側から現れ、電子回路の入れ墨をした筋骨隆々の男を画面に表示しながら、プラスチック容器に入れられたプロテインに見える飲み物を取り出した。


画面から物質が出たことは簡単に受け入れられることではなく、そしてその飲み物も同じだった。


筋肉の栄養になりそうなその飲み物は、大きく膨らんでいた黒いTパンツの中から出てきたものだ。


「ありがとうございます!だけどいまお腹痛いんですよね」


「そうかァ?まあ受け取れェ」


その黒いパンツはすでに平坦になっている。


「そこまで言うなら……… 」


確かにたんぱく質がたくさん入っていそうな色をしている。


例えば…………いや、やめよう。


僕は目を閉じて頭を緩く振った。


周囲に注意を向ければ、日は傾き始め、空は昼の青と、夕方の赤の間の時間帯、黄色の日の光が照りついてるのに気づく。


目を閉じて、目を開けられた時から、体感の時間経過と実際の時間経過にずれがあった。


ゲームやスポーツを主に取り扱う商業施設に、朝入ると出るころには夜で、という時間の錯覚みたいだ。


時間の喪失感を感じること、それは生きている感覚が薄くなるので無限にやり続けていられる。


ただ奇妙だ。


推測するに何時間も僕は息を止め続けていた。


「わたしのしじいがいでやらないこと」


何を、が抜けているぞどぶ日本語め。


僕は罵る。


しっかりした発音もできないのに、ご立派に言葉の省略、略脱とはとてもお上手に日本語をはなすことです。


「善処します」


「ニーチャン、顔に出ているぞォ」


「ちなみこれやりつづけるとどうなるんですか。息を止めていても苦しくなりませんでした」


僕は少しだけしかこっそりやろうと思ってなんかいない。


「そりゃァすげェことになるゥ。神に近づくんだからなァ」


板さんは画面に、下半分の巨大な太陽を表示した。


「はぁ、そうなんですね」


言葉にできない高揚感はあったから、そのことを誇張して言っているのだろう。


「つぎ、いっしょにきて」


僕はどぶ日本語に、干された布団の如く抱えられたかと認識した時、既に崖へ到達。


「なんですか?!」


なすすべはなく、そのまま深い森へと落ちた。




_______________________________




「おろす」


「ふぅー」


目を力いっぱい閉じて、顔もがちがちに強張っていたのを吐く息と同時に緩め、どぶ日本語から背後をとるように距離を離す。


どぶ日本語は僕よりも2倍長く引き下がった。


僕はその灰色の顔を見つめて、声を出しかけて口を閉じる。


僕の胃は2度目の高所自由落下に震えていた。


ほとばしる胃の激痛が、どれほど興奮きわまる出来事だったかを改めて認識させられる。


目を閉じていても見えるから、視覚のストレス源は遮断できない苦しみとなった。


ここは、水色に蛍光を発する森の中。


目を開けて見上げれば、鬱陶しい太陽の光を、素敵な木漏れ日へと様変わりさせてくれるびっしりとした緑の木の葉。


下を見れば、湿ったこげ茶色の土を踏みしめた革の靴に、コケっぽく生えた背の低い植物に青のりを振りかけたようなきめ細かい苔もどきたち。


左右を見れば、僕より一回り太く、しっかりとした幹の茶色いまっすぐな木々が生い茂っていて、背後の少し先には、今しがた降りたばかりの崖がそびえたっている。


少し簡潔にいえば、どこを触っても手が濡れそうな森。


一言でいえば暗い森。


「ひがしずむまでけがをしないこと」


「よォし、いくぞニーチャン」


いっしょに降りてきた板さんが、電子回路入れ墨の浅黒筋骨隆々男を画面に表示し手招きを僕にする。


僕一人でないことに、口端は吊り上がって目尻は下がった。


崖から離れる方向へ板さんと僕は進みだす。


「あの、いっしょに行かないんですか」


どぶ日本語は体も顔もじっとするばかりだ。


「わたしわいけない」


「はぁ、そうなんですね」


「ネーチャンいると全くではないがほとんど生き物寄ってこなくなるからなァ。ほらァいくぞォ」


じっと見つめるだけの下手くそな見送りのもと、板さんと共に暗く、緑あふれてじめじめした静かな森へと足を踏み入れた。





________________________________




どぶ日本語が見えなくなってしばらくたったこの頃。


板さんは僕の真横、頭の近くで浮いている。


僕は板さんへ話しかけようと舌を濡らし、口を金魚のように動かし、視野の端に収め、何も言えていない。


僕は人と話すのが好きだけれど、板さんのような、機械と話すのは好きかどうかわからない。


人は、その人だけの価値観と記憶と表情と感情と感性がある。


機械にそれはあるのだろうか。


板さんは人だったことがあり、今の体が機械なだけ、と言うことはあるのだろうか。


目をつむって歩けば、水色の木々に足元の濃い青の植物たちで視界が溢れる。


この幻想光景を眺めているだけで時間は速く流れるに違いない。



板さんは、走る陸上選手の頭のように()れずに浮いている。


視界の端で見ると、丸め固めると頭の大きさほどの玉になりそうな量の糸、ぐるぐる巻きつけられたその黄色の光の線が、板さんに改めて認められた。


釣り具屋にある釣り糸の塊何十個ほどそれはあるように思われる。


「ニーチャン。ネーチャンの目をつむる、ってのはなァ、真っ暗にするってことだがァできるかァ」


今閉じてる目の視界は光溢れている。


「ええと………できないようです」


視界が暗くならないこと、これから眠れなくなるのかという恐ろしさが、胃から込み上げる。


生きていることの次に受け入れがたい現実。


板さんはうなり声を出す。


「まァ……そんときできるようになるさァ」


…………そうですか。


「板さん、僕、魔法とか魔力とかに興味あるんですけどたくさん聞かせてくれませんか」


板さんは、くるくる眼鏡のひょろ男を画面に表示し、その人物は眼鏡を賢そうに中指で押し上げる。


「魔力って、もしもなかったらどうなるのでしょうか」


「そりャ考える価値すらない。ないことなんて考えられないものだからなァ」


「じゃあ、魔力を扱うこと、例えば、素手で岩割ったり目からビーム出すことはこの世界において普通なんですか」


「いいや、そうでもねェが………目からビームって失明するだろォ……」


そうであるなら。


「そういう技術は知らないと使えなかったり、使うにも難易度があるんですね」


僕たち人間は元の世界でも、武術家とそうでない人は全く同じ人型であるけれど、同じ動きをこなせないのは常識だ。


「そうだァ。魔力をうまく使えば、体を頑丈にしたり、速く動いたり、魔力の塊を生成したり術式を描いたり、その術式をもとに術陣を編めるってェわけだァ」


「その術陣とか術式ってどのようなものでしょうか」


「かみさまがこの世界を作るために創造された、ニーチャンにわかりやすく言うならプログラミング言語のようなものだなァ」


僕の中二心がくすぶった。


板さんは神様を信じているとは。


宗教も気になる。


宗教とは、人間が人間を統治するための創意工夫という面があると僕は思っている。


「じゃあ、術式とか、術陣を使えば神様みたいなすごいことができるのですか」


「そうだァ、できるならなァ」


それなら聖書の創世記のように、光あれというだけで光があるようになるわけだ。


「でもあんな難しい計算、僕は神様の毛先どころか、末端の細胞の原子にすら届かないですね」


「よくわからんがまァそうかもなァ」


この世界の発展度ってどのようなものだろう。


「板さんと同じ型はほかにどれくらい普及しているんですか」


「板様は世界で一つだけの一品だァ。珍の中の珍、珍珍なんだぜェ」


「はえ~、そうなんですね。それと僕、手首から先ほとんど魔力通らないんですけれどどうすれば魔力通るようになるのでしょうか」


「さァ、板様の体は魔力よく通るからなァ」


「そうですか………あ、そういえばこの世界、魔法は詠唱しているんですか」


「だっせェ。魔術だァ魔術」


魔法はという呼びはださい。母語としての日本語感覚がないと出ない発想だ。


「でェ、魔術の詠唱はもちろんある。意志持った声に魔力のせれば、どんな生き物でも魔術を使える。さらに世界のプログラム語使って魔力のせれば、何でもできるかみさまの誕生ってェわけだァ」


「なんだかすごいですね。もっと聞かせてください」


板さんは再び眼鏡のひょろ男を画面に表示すると、それは知識をひらけかす人のように鼻を長く伸ばしえくぼを作った。





___________________________________







「そろそろだなァ。くるぞォ」


最初にどぶ日本語からの課題をこなすときに出会ったあの大きなくまさんみたいな生き物がでてくるのだろうか。


「さあァ目つぶれェ。ネーチャン曰く、目閉じて真っ暗なれば少なくとも食われないらしいぞォ」


どぶ日本語が小指を地面につっかけて顔から転ぶところを想像して、僕は自分の精神衛生を保った。


僕は生からの解放を熱く固く真摯に願っている。しかしそれは自ら痛い目にあう、尊厳を失うことを行う、というものを意味するわけではない。


生きているだけでも苦行、であるのに、さらに苦行を重ねると胃が千切れて霧散する。


「そろそろだァ」


ざわりと森の空気は変わった。


あおあおと茂る薄暗い森、それを包む広大な草原。


今まで生き物を目にしたのは数えるほど。


それはおかしなことだった。


目を開いて見れば、あるのは日光遮られた視界の悪い深緑。


目を閉じて見れば、あるのはおびただしいほどの命。


濃い青から青の緑の間、濃い緑まで。


僕の爪先ほどのちいさな虫から、住宅部屋の天井くらいのおよそ三メートルの大きな虫。


手のひらほどの脊椎動物に、これまた約三メートルの高さの脊椎動物。


境界でもあるようにぴったりと皆が皆、ある一線の先にいる。


すくなくとも今は、よだれを垂らしながら僕を見ているわけではなさそうだ。


興味なさげに振る舞っている。


「ほらァよォ!」


背中に、水鉄砲を当てられたような、不快な水気。


板さんから何かを掛けられた。


むっと睨みつけそうになる。


「さァ。ちゃァんと見てるからがんばれよォ」


既に僕の後ろに回っている板さんは、感触から察するに手の形をしたなにかで僕を一線から押し出した。


瞬間、全てのうごめく生ある物たちが僕に鋭い視線を向けた。


生ある物どもは濃い青から水色に変色し、その色から濃い緑に変色したことが、閉じた目を通してわかった。


きっと魔力を活発に循環させて準備を整えているのだろう。


僕をおいしく噛むところを想像しているのか、情熱的で雑多な、固い歯ぶつかり合う音と虫独特の鳴き声が響いてくる。


合唱、合唱、合唱。


僕の胃が呼吸困難を起こしたようにひくつく。


目の前が真っ暗な状態で怪我するなという、それは忘れることにした。


僕は咄嗟に、けれど慎重に、捕食者たちに背中を見せないよう後ろへ歩く。しかし板さんはそれを許してくれない。


急に動き出せば向こうも急に動き出す。


読み合いが極まり互いが息と動きを止めて集中を高めている。


そろりそろり横移動。


みんなはおもちゃを見つけた子猫のように、じーっと頭を動かして僕と熱い視線をかわしている。


深呼吸。


吸って、吐いて、吸って、吐いて。


食事をする前の音。


夏場の外に置いた冷たい飲み物のように噴き出る汗。


心臓は耳元にあったんだ、という面白くない冗談が思いつくほどに爆音の拍動。


二十秒かけてしゃがみ込む。体の重心を左右に動かしたりし、後ろへの活路を見出そうとする。徒労に終わる。


背後に壁が出現したと思わされるその妨害に、振り返ってひっかきたくなる。


そっと目を開けた。


生ある物の姿は湿気った暗さで肉眼で捉えられない。しかし聞こえるはうなり声と歯のかみ合う音。


よく目を凝らせば、一番僕に近い生き物は見えるけれど目を離せばすぐに見失ってしまうほど、この森は深くて暗い。


「ゔぁああああああああ!」


前触れなく耳をつんざいた獣の大声は森の生ある物たちをざわめかせる。


僕はそれにびくりと身を大きくよじる。


それは、熱い視線を降り注がせていたみんなを僕へ殺到させた。


死ぬことは怖くない。


ただ痛いことは嫌だ。


僕は小学生のころ、家族との罰ゲームで指でこぴんを喰らったとき、大袈裟だといわれるほどもがき苦しんだ。


あれから僕は痛みの感覚が強いほうだと自覚している。


迫る音にぎゅっと目をつぶった。

















真っ暗。


目の前は真っ暗。


さっき視界が真っ暗になると言っていたのは今のこの現象のことだろうか。


僕の意識は目をつぶった時から続いている。


一昨日ことが思い出される。


板さんたちと初めて出会ってすぐのとき、僕が目を閉じて十数分後、傍でこそこそ話が始まったことに納得のできる理由を発見した。


気配が消える。


しかし今に限っては、そうだとしても、こうして食べられていないことの説明にはならない。


目の前で気配が消えたとしても姿はある。


気配は消えても目には見えていると仮定するなら、生ある物たちが僕にちょっかいをださないこととつじつまが合わない。


つまり僕は透明化したということだろうか。


「おォ、できたじゃァねェかァ。立派な透明人間誕生の瞬間だァ」


透明人間………僕が。


僕は男だから、風呂が覗けると喜ぶべきだろうか。


「このまま板様から離れて進むんだなァ」


僕の足がガムテープのように地面から離れなくなった。


このまま目をつぶって奥まで行けと言っているのだろうか。


僕は思い出したように体に、体を頑丈にするイメージで魔力を巡らせようとして。


できなかった。


完全に流れないわけではないけれど、推測するに、僕の状態と関係あるに違いない。


「少し、喉が乾きました」


「認められんなァ。もたもたしてるとまずいかもしれねェぞォ」


右耳側から水の柱落ちる音が聞こえた。


森のみんなの熱っぽい咆哮が轟き、草木と擦れ合う足音はその音がしたところへ。


胃がじくじく痛む。


「早くいかねェと、うっかり掛けちまうかもなァ。あいつらの腹空かせるには抜群に効果あるこいつをよォ」


僕は、目をつむったままここに居続ける安心とその後の意図された脅威を左、ここから離れる脅威と意図された脅威を右、それら天秤にかけて。


「ちゃァんと背中見てるからァ肩の力抜けよォ!」


右側へ掛けたほうに天秤は傾いて壊れるように潰れた。


おそらく液体が落ちた方面から、肉の引き千切れる絶叫と断末魔が混ざり合い、無類の生き物好きでも顔をしかめる音楽を奏でている。


その音圧に押し出されるように僕はこの場を真っ暗な視界と音、魔力の気配、触覚を頼りに這いつくばって離れた。





____________________________________




どれくらいの時間がたっただろうか。


ときどき、どこかに頭をぶつけたりとてつもなく腐った臭いが漂うことがあった。


よくあったのは、大きい気配が僕とすれ違ったり、大きさ僕の顔ほどありそうな虫の羽音が僕の肌を鳥肌させたこと。


そして僕に変化が起こった。心眼的な、ここの位置に何かあるような感覚が身に付いてきた。


「いて」


調子に乗り、這う速度をあげると勢いよく頭頂部をぶつけた。


濡れた髪をタオルで拭くように頭抱えて手でさする。


ずきずきとくらくら。


だけど、これは僕の前進の証。


ほかの生き物が見えなくて、どぶ日本語にみえる道理がどこにあるだろうか。


このまま自由への逃避行だ。


笑みを浮かべた時、何か重いものが僕の体を突き飛ばし、無防備に僕の体を地面に打ち付けさせた。


切り傷、擦れ傷に、うめき声が漏れ出る。


すると再び、今度は顔に重たい一撃が僕を吹き飛ばす。電柱に顔を激突させたときのようなこらえがたい痛みが走った。


「あぁぁ!」


たまたま生き物がぶつかったのだろうか。


胃がきりきり痛む。


生き物のくぐもった大きな囁き声が前方から。そし痛みに横たわって耐えていた僕を何かがまた弾き飛ばす。


質量あるものを腹部に当てられた一撃。お腹と背中がくっつくような圧力に涙と吐しゃが溢れ、肺から息が吐き出された。苦しい痛みへの忌避が僕に選択を迫った。


目を開けて、脅威から退避をするのか。


目を閉じて、僕の姿が見えてないと仮定してそのままじっと過ごすか。


これらふたつの行動によって豆を食わされることが想起される。


薄目で確認してし、目を閉じて判断してからでも遅くない。


僕はまぶたに手を当て、それを妨げた。


薄目を開けたとき、どぶ日本語が気づいていたではないか。


まぶたは痙攣し、それを覆う手は震える。


僕は指と指で隙間を作り、薄く左目を開けた。


そこに影。


ひと踏みされると、僕が溶けたアイスのように潰れる大きな足。こげ茶色の体毛に包まれた体には、∞字のように強烈に膨れた筋肉。


その存在の顔のほとんどを占めていたのは、拳ふたつ分の大きさをした一対の目。その目は、皮膚の薄皮の下に埋もれおり、それはぎょろぎょろと動かされている。


目が合った。


その生き物は低く響く声を高らかに上げて、転ぶように後ろへ跳ね飛ぶ。


離れて見えたその影の全貌は霊長類に見えた。


汗滴る空気の中、僕は見上げて、その子は見下ろす。


もしこの子が動物園にいたとすれば、その目が特集された情報板が置かれているだろう。


その子は、のっぺらぼうに鼻と口をつけ、皮膚の下から目を発生させたような生理的嫌悪感を呼び起こす見た目だ。


僕に気づいたならもしかすると似ているかもしれない。僕も、目を閉じ、魔力を利用して視界を得ている。


きっと同じことをこの霊長類もどきはしているのだろう。急に動き出せば相手を刺激する。ゆっくりと体を起こし、背を向けずに離れることを試みる。


脅威がないと判断され、僕が中途半端な怪我をする前に。ある程度距離を稼げたら、魔力を体に巡らせ離脱する。


体は起こせた。


すり足で後ろへ進む。


霊長類もどきは、僕が下がった分にじり寄る。僕は十二歩の大股で、体の重心を落としながら下がった。霊長類もどきは2歩、3歩の軽い足取りでその距離を詰める。


目を閉じた。


五メートルはありそうな大きな体の霊長類もどきは、トルコ石の、薄い水色の蛍光に光って見えた。


お腹をさする。きりきり胃は痛む。


僕は胃を決して、徐々に、ホットケーキを平たくするようにうすくうすく魔力を張り巡らしていく。


すると霊長類もどきは4つの長い牙を向いて低く吼え、同時に薄い水色からどす緑の濃い蛍光に。


霊長類もどきは拳を作り脇を見せて腕を高くあげた。


僕は相手の動きに対応すべく、体をかがめて丸まり、瞬きの間で頭を腕で覆って歯を引き締める。


頭を覆う腕を解き、僕は手を背中で固く組み込んだ。










「板様参上ってなァ!」


目を開け弾けるように顔を上げれば、板さんは僕の体の半分もある霊長類もどきの茶色い拳を、そのガラス板で軽々と受け止めた。


霊長類もどきは息を吸いながら声を出したような間抜けな悲鳴で後ろへ跳躍。


「不運だったなァ」


板さんの透明な画面から、黒々としたつやのある、軽自動車くらいの長さの機銃が飛び出した。


離陸したばかりの航空機の下にいたときのような、信じられない爆音は僕の耳をつんざく。


近くいたと思われるあらゆる種の生き物たちが、地面から、木から、苔の下から、走り逃げ惑いそこへ戻り、銃身の向いた先にいた霊長類もどきは腕を伸ばして後ろへ倒れ込んだ。


僕は震える手先を抑えた。


「なにしたんですか」


顔を伏せる。


「ちょォッと驚かしただけだァ。でっけェ音でなァ」


薄目でそこを見る。


腕を上げてのびている霊長類もどきには銃創はなく、その他の外傷も見受けられない。


「こいつァ頭がよくてなァ。だから、何がこの先自分に起きるのかァ予測して気絶しちまったァッてェわけだァ。基本群れで行動しているが……はぐれた奴なのかもなァ」


落くぼむように目を開いていた僕は口を半開きにしていた。


まぶたを揉み、口を閉じる。


「話戻ってェ、一番はあの金玉みたいな目で魔力見えるからだろうなァ。威嚇程度に魔力を板様が込めれば、ご覧のとおりよォ」


僕はまた口を半開きにしていた。


「ところでよォ。目ェあけてるなァニーチャン」


僕は目の前は暗くなった。


「戻るぞォ」


胃はしくしくと泣き続ける。



___________________________________




「おえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」


無理やり嚥下された苦しみを忍ぶ中、美しい夕日がさしてきた今この頃。


「つぎ、おぼえなさい」


「まだ続くのですか!」


どぶ日本語は薄汚く色あせた革袋からA4サイズに近い一枚の薄い何かを取り出し僕へ手渡し、それを僕は右手の人差し指と親指でつまんで受け取った。


それは、紙のように薄いせんべいのようであり、端を持ってもそれは真っ直ぐを保っている


黄ばんだそれをもう1つどぶ日本語が小袋から取り出すと、いつの間にか持っていた細い棒、鉛筆の二倍の長さの物で骨にも見えるもの、を口元に寄せ、手で隠して口周りに先端を近づける。


どぶ日本語が左手に持っているぱりぱりの黄ばみ布かは手から解放されると、それは浮遊して。


どぶ日本語は、骨のようなら文房具の先端を布にあて、書く動きをする。


どぶ日本語は触れずに布をひっくり返しそれを僕へ見せる。


「―――――――」


わからんがな。


僕ははにかんだ。


「これはァ魔術を使うときに必要な言語だァ。前に言ったァ、世界のプログラミング言語。日本語で発音するならァ、ラディノディグ語ってェとこかァ」


前の世界では、英語は好きだったけれど、外国語が好きだったかどうかは疑問だ。


英語以外を勉強する機会もその気もなかった。


「じぶんのなまえ、いえるまで」


その言葉に頭が真っ白になった。


「もしできなかったら豆……」


僕は言葉を続けることができなかった。


胃は手にしぼられたように痛む。


「たべなくていい」


お腹が軽くなった。


僕の視界はきらきらした粉末で満ち溢れる。


「僕、実は外国語好きなんですよね」


どぶ日本語は板さんせ目配せをする。


「ここに書かれているのはァ―――――」


言語というのは、人間にとっての鳴き声だ。


シジュウカラという鳥がいる。 彼らは鳴き声で人間と同じくらいには及ばないものの、コミュニケーションをとる。


彼らはその鳥の鳴き声で、猫がいることを伝え、仲間に集まれと伝えることができる。


チカチカ。


カラスがいる。


There is a crow.


シジュウカラ語、日本語、英語、この三つは全く同じことを言っているけれど、全く音が違うばかりか共通点は音であること以外ない。


それにもかかわらず言っていることは同じだ。


音はただの空気の振動。


同じように空気は震えているが、その意図したものが伝わることは無い。


物質が震えているだけの無意味。 全てはそれらしく説明できるだけで、ただの偶然、ただの無意味だ。全ては物質の集まり。加えれば、原子でできている。その原子はさらに小さい中性子と陽子と電子でできていて。 中性子と陽子は、電子を含む素粒子という、いくつかの種類にまた別れる物質で構成されてる。そんなものが集まってできたのが僕たち。それが動いているだけで、僕たちはそれに高尚な、生きていることは素晴らしいという戯言を見出している。


無為。


無為。


無意味。


僕らはその無意味に縛られている。無意味に意味があるのだと必ず錯覚してしまう。


「こう発音するんだァ。板様に(なら)え」


悔しいことに、知的好奇心という無意味に、今は些細な楽しみを見出してしまった。


「こうですか。に、に、」


「もっと口“あ”の形にあけてェ“に”だァ」


「に~~~~」


「この調子じゃァ名前すらろくに言えず発音だけで日暮れちまうぞォ………ネーチャンなんて……はん、比べる相手が悪いなァ」


「こうする。に~」


「わかりましたよ!こうですね。に~」


「こうしようニーチャン。“い”の口を作ってそのまま口を大きく開けて若干鼻声に――――」


板さんがひょろがりの眼鏡男を画面に出現させ、目をそむけたくなるくらい眼鏡さんの口元を拡大した。


目を奪われるはずの橙の夕日が目につかないほどに、日が沈むまで、ゆったりとした時間は速く流れた。

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