知的存在と僕 : 2
「かはっ!かはっ」
「―――!――――!」
耳障りな音。
どろどろと氾濫した重い意識、五感が送り出す情報を脳が適切に処理し始めた。目を開けば、視界の焦点が定まってくる。背中に柔らかい絨毯のような感触。頬に打ち付ける強い風と上から押し付けてくる重力。
「おォい!」
日本語の音が聞こえる。
その音の方、仰向けに横たわる顔の上に、厚さおよそ5センチの透明な、恐らく、タブレット程のガラス板が浮かんでいた。
下から見上げるこの角度では、その浮遊体が線のように見える。その板から音が聞こえた。
「ニーチャン、この板様もってみろォ」
仰向けの視線の先、浮かぶ透明の板の上には、煮詰めたような濃く大きい緑の葉を太い枝から房状に生やした木があった。
今までみたどんな木よりも図太く、高くそびえ立っている。
「起きてんだろォ。ほら掴んでみろォ」
焦点をその存在へ合わせる。
僕は黙って、素直に透明のしゃべるガラス板を握った。
「寝落ちして顔に落とすやつゥ」
「いっ」
それは僕の手から強引に落ちて鼻の横にぶつかった。
「くぅぅぅぅ」
「目ん玉ぱーっちりしたなァ」
痛みがある部分を右の人差し指、中指でさすって上半身を起こしあぐらをかく。
ひりつく不愉快な日光を遮った影と空気が、涼しく僕を囲っていた。
「でか………」
視界の前面全てを覆うごつごつした黒茶色の木に、自然と顔が真上を向く。
改めてみると、今まで見たどの建築物より高くそびえており、壁かと見紛うほどの幅ある幹。
周囲を見渡せば、僕は高台にいるのか見晴らしがよかった。
地平線の手前まで、平らな大地に、ブロッコリーの房のような緑の湿っぽい森が広がっている。
この巨木はその大きさで認識しづらいけれど、何本もの幹で構成されており、そのおおきな幹がそのまま枝と根っこになり、その根は高台の下、湿っぽい森が広がる地平線の手前まで広範囲に大きく縦にうねって根を張っていた。
そのねじれた幹と枝、根の見た目を一言で例えるなら電線だ。巨大な幹と根と枝が、銅線みたいにねじれている。
幾本のむき出しの根は大きな苔、蔦のようなものが垂れ下がり、そこに鳥のような姿をした命が、ここで吹く強風に身を預けて滑空し、留まって浮遊している。
ここの周囲の環境、命は、この巨木を中心に形成されたものだと理解できない者はいないだろう。
僕は木の、右から左まで、下から上までの存在感に圧倒された。
きっと、僕は、いわゆる天国と呼べるような場所にいるに違いない。
僕はロロを探すために立ち上がる。
力抜けたが腕ばたつくような、強く吹く風によろめいた。
「おう。ネーチャン。起きたぞォ」
浮遊するガラス板の機械的な声。
それと同時に、圧迫感のある気配が背後で。
その気配がした僕の後ろ、巨木の反対側へ振り向くと、僕と会話をするには離れている場所に、女の人がいた。
その顔立ちは風のように優しそうなのに、その大きく神経質に開かれた目は荒々しく鋭い柔らかさを持っており、丸い顔の小さな額、その小さい口と筋の通った鼻は可憐さとたおやかさをたずさえている。
腰まで伸びた、灰色でつややかな長すぎる髪、同じくらい長い前髪をおでこのところ、そこでハの字にし耳にかけていた。
純日本人では見られない深さである顔立ち、灰色が濁った灰色の目、細すぎず、太くもない、直線的な灰の眉。
灰色で絹のような光沢をもつ分厚い外套を身にまとい、骨、鉱石、金属でできた装飾を、頭、髪、腕、首、腰、と全身に、12月に飾り付けられるもみの木のようにそれらを身に着けている。
あらゆるその装飾品の中で特に目を引かれるもののうちのひとつ、それは耳に掛けられたひも状の装飾品。
その端には、色は異なるけれどトルコ石のように濁ったなめらかさで、小さな白っぽい灰色の石が付いている。
最も目立つのが、胸の真ん中にこぶし大ほどの、角度によって白くも黒くも、灰色にも輝く四角い宝石の首飾り。
さらにその石の下、多くのしずく型の骨、金属、鉱石が、虹を反転させたような形に並んでさがっていてた。
一言で言うと全身、全部、灰色。
灰色が濃いか薄いかでしかない。
これまでのことをまとめれば、僕は目を奪われていた。
「ーーーーー」
灰色の人は僕の目を見て声を発した。
言葉が全く理解できない。
発音は、母音と子音が必ずくっついてる日本語と全く異なっており、口からそよ風を吹かせているようだ。
上と下の歯から隙間風が吹くような耳慣れしない言語。
それが、天国の天使にふさわしい得体の知れなさを醸し出している。
「ーーーーーー」
発音は起伏に乏しいが、感情は人と同じくらいある平坦なささやきが僕の耳をなでた。
「無事でよかったってネーチャンおおはしゃぎしてるぜェ」
女の人の表情は硬い。
その人は右片眉を毛並みに沿って左中指でなでている。
緊張しているようだ。
「助けてくれたんだぞォ?ネーチャンが。泣いて感謝するんだなァ」
僕をここへ導いてくれたのか。
「ご迷惑をお掛けました……ありがとうございます」
溢れる気持ちを抑えたばかりに、か細い声になった。
まだいきぐるしい。だけど焦ることはない。じきに消えてなくなるだろう。
考える隙を僕に与えないために、挨拶をした。
「僕はセンリです。ほんとうにありがとうございます」
「この板様はただの板だァ。板様と呼んでくれェ」
よく見た事がある大きさをした、僕の頭上のやや上に浮かぶガラス板が僕へ声をかける。
厚さ5センチ、縦幅30センチ、横幅22センチ。
その大きめタブレット………板さんは画面に、入れ墨だらけの日焼けした筋骨隆々の男をドット絵で表示し、その彼が白い歯をきらめかせた。
僕は言葉を失う。
「どうしたァ。気分悪いかァ」
胃は痛みで僕に訴えた。
天国にしてはいきぐるしすぎる。
地面と足もある。生えている芝も、最初に見たものと同じ。
「………………」
「腹痛てェのかァ」
「いえ、大丈夫です」
「そうかァ」
誰も口を開かない。
動かない。
強風で掻き消される。
僕の頭上の斜めで浮遊する板さんは僕の腹まで降りた。
「ニーチャン、どうここ来たァ。あー詮索ってェわけじゃねェ。なんつゥかよォ単純に気になってんだァ分かるだろォ?」
今までに比べて弱い音、声のようなものを板さんは発した。
「それは、僕死んだのですからここに」
「あァ?」
誰も口を開かなくなった。
「あーはは……そうじゃないですよね。えっと、へんなうさぎみたいなのに噛まれて死んで………」
「………あァ?」
無性に湧いてきた恥ずかしさに汗が出る。
「あ、あァ、冗談かァ。つまらなすぎて気づかなかったなァははは!」
「いえ、あの、僕はうさぎみたいなやつに噛まれて死んで……」
嚙み合わない。
「ニーチャン、死んじャいねェように見えるがァ……」
胃は激痛に痙攣する。
僕の鮮明な五感と、僕の狂い損ねた精神と、外からの観察によって、生きていることがはっきり証明された気がして、自分は天国にいるのだと思い込めるほど、頭がおかしくなることが僕にできなかった。
「顔色悪くなってどうしたァ。ああ……そんなニーチャンに言いづらいが………個室の便所はない。好きなとこに好きなように野垂れてくれ。手洗うとこもないけどなァ。ん、紙もねえが。まァ……地面にけつ擦っとけ」
いきぐるしい。
「いいえ、ただお腹痛くなっただけです」
今まで微動だにしなかった全身灰色の人。その人は動き出してガラス板に近づき風をささやいた。
「――――――」
「―――――?!――――!」
板はその人を見下ろすように高く浮かび上がり、画面を水で薄めた血のような色にし、女性と同じ言語で突風が吹いたように強い言葉を返した。
「―――――」
対して女性は冷たく熱を奪う風のような声。
温度差のある口論を交わすこと数秒。
僕のお腹あたりまで降下したガラス板は無感情な声でこう言った。
「ネーチャンが面倒みるってよォ」
「ぁりがとぅございます」
反射で頭を下げてお礼を言う。
僕は何をしている。
「―――――」
灰色の人は僕に何かと、布に見えるものを手渡した。
広げて、ひっくり返して検める。
それは、動きやすそうな柔らかい皮風の靴、上下つなぎのうすい肌色の服と、茶色のやや太いヒモである締め帯らしきものと、長めのバスタオルのような形をした布。
僕は全裸だ。
服が必要だった。
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靴は、足裏から甲を包み込むようにして履き、紐で結ぶようなものだった。
下裾がくるぶしまである長袖ワンピースのようなものを着て、下着はさっき渡されたタオルのようなものを衣服の中から腰に巻き付けている。
あとひとつ、渡された帯で、大昔の絵画に描かれている人の姿を思い出しながら腰を締めた。
上手く出来ずかっこつかなかった。
僕は、いつもの体勢、膝を山のように立てて太ももにそのタブレット、板さんを触っている。
この板さんは見た目がタブレットな情報端末で、馴染み深い使用感だ。
いかなる状況、電子機器があれば触ってしまうのは、もはやそれが体の一部であるとみなしてもいいほどの癖。
触り心地、つるつるで透明な氷の上を指で滑らせているようだ。
検索エンジンのようなものが画面にあり、それを開いてみると、画面が、横長の四角い広告でほとんど埋め尽くされた。
広告によって検索バーを押すことはできない。
そしてその広告は画面のキーボードまでに浸食していた。
なにより広告の量がおかずを恵む泉よりも目につく。
「関係ない項目邪魔で画面押せません……」
「さァな。おめェが見てるのエロものなんだろォ」
「あははは……」
社会人になってから、開く気力がなくなってしまった。
生き物らしさを失ったようで、自分を攻めるように落ち込む。
「わかってるってェ。次元ひとつ違いが好みなんだろォ。4次元だァ!」
「あはは………」
画面を埋め尽くす広告の一つをよく見てみる。
浅黒い肌、入れ墨だらけな、V字の黒い履物をした筋骨隆々の男がプロテインとカタカナで表示された、たんぱく質と思われるものを広告の中で勧めてきていた。
息を吐く。
「おいッやめろ」
ここ以外でどこにあろうかという、画面中央下端のホームボタンに違いないアイコンと検索エンジンアイコンを連打した。
この板さんは人格と呼べるものあるのだろうか。感情を持つロボットの感動系映画、僕は好きだったけれど。
それから、灰色の人から名前聞いていない。でも向こうも特に何か言わない。言葉もわからない。いつの間にかいなくなってもいる。
指の動きはそのままに板さんから目を離し、見回せども発見できない。
「おいッやめろ!」
板さんは僕の手から強引に離れ、空間に固定されたような不自然さで浮いた。
「ニーチャン」
「はい」
「二ホン人だろォ」
「はい、そうです………」
「ああァ、ニーチャン、ここはァ、ニーチャンが生きてたとことはァ違う」
「はぁ……」
「わかってねェなァ。もっとわかりやすく言うならァ、そう、ニーチャンの基準に合わせるとなァ、ここは異世界だってんだよォ」
「はぁ……そうなんですね」
「しけてんなァ」
「はい、これでも、内心とても驚いてるんですよ。いまいち湧かないというか」
興味が湧かない。
「実感がってかァ」
こんなところに来て目的もなく生きるということは、呼吸をするだけで体の内側が針で刺されたように痛む。もし僕ではない人ならどうしているのだろう。
仕事に家族や恋人、やらないといけないことを元の世界に残してここに来た人だったらなら、きっと戻る方法探す。中には、内なる自分を最大限に解放し、異世界で好きなことだけを考えて生きるかもしれない。
なら僕は。
元の世界に残したものはない。
僕は世界に遺された側だ。
いる世界が違うだけで、僕のいきぐるしさは変わらない。
ロロはここにはいない。
癪だけど、ふたりの新しい出会いで、言葉にできない期待感はあった。でもその予感は人生で一番裏切られてきたし、結局何もない。灰色の人とは言語の壁もある。
「ごめんなさい、ちょっと仮眠とらせてください」
横向きになり、丸まるように寝転がる。
僕は強く目を閉じた。
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「そんでよォ……ネーチャン」
「………うん」
灰目の女の声は極僅かにうわずった。
「確かめてから」
「おい。噛まれたッつッたのに十分だろォ。あんな人間いるならここはとっくに草も生えない大都市だってんの。ネーチャン、なあ?俺の気持ち考えてくれるだけでいい」
「大丈夫」
灰目の女は言葉弱く断言した。
「噛み合ってねェぞ……あァ?!おい言葉通り受け取るなよォ」
灰目の女は大きく息を吐き、弱い声で言う。
「ヴィオラスター様とオーロア様の温情を仇で返すつもりはない」
「ならいいんだよォ……」
「ごめんなさい」
灰目の女はまぶたを下ろし、その中で目を伏せた。
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目をつぶって数十分たったころの今。
僕は内緒話を耳にしている。
学生時代、会話相手に乏しい僕はよく、人の話に耳寄せて自分のことのように聞き入ったのが懐かしい。
彼、彼女の言葉はわからないから何の話をしているのか検討つかない。
しかし声の強さ、大きさ、速さ、それらで感情を推し量ることが出来る。
僕は目を閉じていただけなのに眠っていると思われているのだろうか。
そこまで彼らは間抜けではないだろう。
僕はまつ毛でもやつく薄目で覗いた。
これは…………目が合っている。
あまり目が合う機会がなくても分かる。
僕は寝ている。
寝ている寝ている。
僕は寝ている。
灰色の肌を持った女性が近づいてきた。
僕は寝ているよ。
心の中は"寝ている"文字で詰まってる。
寝ている。
目元に手なんか当てなくても
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黒髪をした、灰の目の男。
灰の女はその者の意識の途絶を見た。
「起きてた」
「占い最下位の結果がこれかくそが!もう一個下の位がないととんだ詐欺もんの外れだァくそくそ!」
灰目の女はうなじへ風を通すように自らの長い髪を手で叩いた。
「うん」
灰目の女の絞りだした声は小さい。同時に強かった。
「なァ、やっぱりやめちまおう」
灰目の女は乾いた唇を巻いて隠して潤す。
「いいえ、覆す気はない」
「ネーチャンが言うと恐ろしいなァ」
板は灰の目の男の頭を吹き飛ばすための大きな機銃を画面から生成した。
「待って」
灰目の女は微動だにせず咄嗟に声を出す。
「彼は生きたがってる」
「そんなふうに見えなかったがァ…………それに時間の問題だぞ」
「もうやるしかないの」
浮遊するガラス板は動きを止めた。
「ごめんなさい」
「んだよォ」
彼女は片右眉を左中指で一撫でした。
「提案なんだけど……」
「あァ?」
「極東語、教えてくれる気ない?」
「あァァ?」
強い風が吹いた。
修正中