9.「人間の心とモラルがあったらそこはグッとこらえるの」
動物こと松田と不本意ながら行動を共にすることになった俺たちはそのまま一緒に映画を見ることになった。
まあその間は普段口のうるささにおいては右に出る者は居ない俺達でも静かなもので、上映時間中はただただ仲良く映画を見るだけだった。
しかし上映時間は怒濤の3時間。本当に何一つ事件も無く終わるようなことは無かった。
何故か明日香がずっと俺の手を握っていた。
その行動の意味は俺には分からなかった。しかしこういうちょっとしたアクションが何かの引き金になるというのはよくあることだ。
というわけで、今日この日の出来事において、この映画館で握られた手は一つ大きな意味を持ってしまうこととなった。
◇
「いやあ、面白かったですね映画!」
「開始5分くらいから号泣してなかった?」
「そりゃあ泣くでしょうあのシーンは! 人間の心があれば!」
「人間の心とモラルがあったらそこはグッとこらえるの」
一個年下の後輩と二個年下の後輩がいつも通りのコントをやっているが、俺はとてもそこに混じる気にはなれなかった。
女2人の話に混じっていくのが怖いとかそんなちゃちな理由じゃ無い。
俺の思考は完全に、明日香にずっと握られていた右手のことでいっぱいになっていた。
かわす隙も無かった。劇場が暗くなると同時に、肘掛けに置かれていた俺の手を明日香は何も言わずに握りしめたのだ。
声をかけようにも松田が初っぱなから泣いたことからもわかるようにタイトルが出る前から作品はクライマックスの様相を成しており、そのあとも3時間という長い間、見所たっぷりだったのだ。つまりいつ声を出しても周りの反感を最大値で買ってしまう。
そんなわけで一切の抵抗を許されなかった俺はけっこう長い間手を握られていたことになる。今も手の甲が少し温かい。
いや、ちょっとドキドキしてる場合じゃない。問題は松田に見られたかどうかだ。
映画館は暗くなっていたし、松田は映画に没頭していたから大丈夫だとは思う。でも確信は持てない。何故かと聞かれればそれが松田だからだ。
「あ、わたしちょっとお手洗い行きますね」
「え? ああ、分かった」
明日香はぺこりと頭を下げてこの場から消えてしまった。
それは言うまでも無く、俺が松田と二人きりにされてしまったということだ。
こともあろうに、この流れで。今なら明日香に怒りの電話をかけても許される気がする。
とにかく動揺してはいけない。何も悟られないのが第一で、もし悟られても本質を隠し通すことに集中するべきだ。
ハッキリ言って今の俺は映画を見た後とは思えないくらいに緊張していた。
この調子だと映画の内容も忘れかねない。面白い映画にそれはもったいないので今度1人で見に来よう。
一方の松田はこっちの事情なんて知らないので呑気なもので、SNSに映画の感想を書き込んでいる。ただしネタバレは無しで「スゴい」とか「ヤバい」みたいな語彙力の無い感想を呟いていた。
俺も俺で暇するのが嫌なのでスマホを触る。こうして映画館で男女2人で何も喋らずに並んで携帯を触っているのはどこかシュールな光景になっているのは間違い無い。
どちらかといえば話したくは無いのでこの方が助かると言えばそうなのだが。
「大神センパイ。ひとつ聞いてもいいですか?」
「え? いや、何?」
「何って……何ってなんですか?」
「いや、何でもないけど」
「なら大丈夫ですね! ところで質問なんですけど」
非常に怪しかったが何とかごまかせた。この調子でやっていけば明日香がトイレに行っている間くらいは――
「大神センパイと鷹崎先輩って付き合ってるんですか?」
「あらー?」
色々とすっ飛ばしていきなりとんでもないものをぶっ混んできた。
攻めてこられるにしても『どうして手なんて握ってたんですか?』とかからだと思っていたのにさっそく一番つつかれたくないところをつついてきたものだからこっちとしては困惑程度じゃ済まない。
「何を根拠にそんなこと?」
「いや、鷹崎センパイの格好スゴく気合い入ってるし、映画見てる間ずっと手握ってたし、幼馴染みにしては距離感近いなーって。それで映画終わってからずっと考えて思い付いたのが付き合ってるんじゃないのかなーって」
「正解だよ。よく分かったな」
映画の暗闇とか全く関係無かった。映画だけに集中していると思いきやがっつりこっちも見ていたらしい。どんな視野の広さだ。
「うわ、本当だったんだ。間違ってたら何されるか分からないから合ってて良かったあ」
「それで聞けるお前のメンタルがすげえや」
普通は何されるか分からない相手にそんなことは聞かない。
ちなみにもしも偽装でも明日香と付き合っていない時にこんなことを聞かれていたら俺は何をしていたか分からないので松田の予想は正しい。
「いつから付き合い始めたんですか?」
「お前やけにぐいぐい来るな。意外と他人の色恋沙汰には敏感なタイプだったのか?」
「そりゃあ私だって女の子ですから。アンテナはビンビンに立ってますよ」
「マジか」
中学の頃はそんな素振りは一切見せて無かったので普通に意外だった。それとも単に俺にはそういう一面を見せてなかったということだろうか。
「それでいつから付き合い始めたんですか?」
「あくまでグイグイ来るんだなお前は」
「だって気になるじゃないですか。いつからただの幼馴染みやめたんですか?」
「そうは言っても、付き合い始めてまだ一月も経ってない」
「へー」
「聞いといて何だよそのリアクション」
「リアクションするために聞いてるわけじゃ無いですからね」
「……今、最高にイラっときた」
妙にはにかんでて、悪意なんて一切感じさせない瞳をしているのが余計に質が悪い。
人生において悪意がないということは絶対に他人の怒りを買わないということとイコールでは結び付かないということは中学時代に散々教えたはずなのに学習していなかったらしい。
「それで告白はどっちからしたんですか? やっぱり鷹崎センパイの方からですか?」
「この流れでぐいぐい掘り下げようと思えるお前の根性はどうなって……ちょっと待った今なんて?」
「え? どっちから告白したんですかって聞いたんですよ?」
「じゃなくてそのちょっと後!」
「えーっと、やっぱり鷹崎センパイの方からですか?」
「そう、それ。まるで明日香が前々から俺のこと好きだったみたいな言い方じゃねえか」
「まるでも何もそのと――あ、これ秘密だったんだ」
松田は大慌てで口を押さえているがもう遅い。さっきの発言が本当であることをこの行動がどうしようもなく裏付けていた。
でも、やっぱりっていうのは、どう考えても前々からって意味にしか取れない。そこから先は考えるまでもない。
でもそれをハイそうですかと受け入れられるかと言えばまったくの別問題。
「えっと、今の話ってマジのやつ?」
「ハハハ……えっと、それは、その、あれなんですよ」
松田は驚くくらいに目が泳いでいた。これはマジだ。信じられないけどごまかしが利かないマジのやつ。
これから根掘り葉掘り問い詰めてやろうかと思ったが、ここでタイミング悪く明日香が戻ってきた。
「お待たせしました」
「あ、鷹崎センパイ」
「どうしたの? 変にしどろもどろしちゃって。先輩まで」
「い、いや何も」
「なら良いですけど。あっ、そうだ。お腹空きません? この辺に気になるパンケーキのお店あるんですけど」
「えー。パンケーキじゃお腹いっぱいにならないじゃないですか」
「炭水化物なんだから大丈夫でしょ。ラーメンと思えば腹も膨れるって」
「相変わらず横暴だなあセンパイは」
女子2人は楽しそうにおしゃべりしているが、俺は混じることも、その意味不明さに突っ込むことも出来なかった。
だって、こんなの平常心なんて保てるわけが無い。
どれくらい前かは分からない。でも少し前から明日香が俺のことを好きだったなんて、そんなの俺は全く気付けもしなかったし、聞きもしなかった。
ならこれは、この偽装カップルの本当の理由は?
そんな疑問が頭の中を巡り続けたことは言うまでも無い。