3.「こうしてると本当に恋人みたいですね」
妹の奈月が家を出たことにより、俺達は思い出したように本来やるべき事に着手し始めた。
それはもちろん朝の準備である。
明日香については学校に行くついでに俺の家に寄ったようなものなのですぐにでもこの家を出て登校すればそれでいいが、俺は違う。
何せ奈月との話が終わった時点でパジャマを着たまま。朝食を取っていなければ顔を洗ってもいない。言ってみればベッドに入って寝ていた時から、目が覚めていること以外は何も変わっていないのである。
長々とリビングで話していたせいで俺の時間的な余裕は完全に失われていた。
そこで明日香から次のような提案があった。
『先輩、朝食の準備は私がやっておくので先に他のことをやってください』
『先に朝飯食べとかないと何事もやる気出ないんだけど俺』
『やる気出したって学校に間に合わなかったらどうにもならねえじゃ……やべ、口調移った。とにかく迎えに来たのに遅刻させたってなったら情けないですから。私の言うとおりにしてください』
明日香の言うことも一理ある。
そして俺の言うことに大した理屈は通っていないので大人しく言われるがままにするしかない。
というわけで一回リビングを出てから洗顔、着替え、その他もろもろを済ませてから鞄を持ってリビングにカムバック。朝のルーティンをぐちゃぐちゃに乱されてたものだからお世辞でも清々しいとは言われない顔をしているのが自分でもよく分かる。
リビングに入ると制服の上からエプロンを着けた明日香がテーブルの椅子に腰掛け、頬杖をついて何やらテレビのリモコンをチャカチャカ触っていた。
まるで自分の家のようなくつろぎようだが、小さい家から頻繁に遊びに来ていた明日香はこの家のことはだいたい分かっている。
それに中学生の頃はよく奈月と一緒にキッチンでお菓子作りをしていたものだから、調理器具や食器の場所もアイツは把握している。朝食の準備を滞りなくできたのもそれが理由だ。
テーブルの上、明日香が座っているのとは向かい側に俺の朝食が置いてあった。
ご待望のフレンチトーストとコーヒー。それからドライフルーツの入ったヨーグルトだ。
「あれ? ヨーグルトのストックは知ってるけど、ウチにドライフルーツとかあったっけ?」
「あーそれ私のですよ。いつもつまむために持ち歩いてるやつ」
「……お前そんなことしてたのね」
とはいえフレンチトーストだけでは彩りとか栄養とかが不足しているのはうすうす感じていたのでありがたくいただくことにする。
鞄を適当において席に着いた。
「それでいろいろあって聞けて無かったけど何しに来た訳?」
「何回か言いましたよ、先輩を迎えに来たって。ちゃんと聞いてなかったんですか?」
「何でまた。お前には借金した覚え無いぞ」
「私を何だと思ってるんですか先輩は! 彼氏彼女なんだから一緒に登校するのは当たり前でしょ」
「ああ、そういうこと。……お前って意外とステレオタイプにこだわるタイプなのね」
「偽装なんですから、シンプルに分かりやすく目立つことやんないと」
「ごもっとも」
冗談と思っていたわけでは無いが偽装の話はマジな上に積極的に行動していくらしい。まあ固定の男を作ることによって明日香のハートを狙う男達の告白を止めようって話なんだからコソコソやったって仕方が無いわけだ。
「じゃああれか? カップル特有の腕絡ませて歩くやつやったりするわけ?」
「さすが先輩、よく分かってますね。女の子と遊んだ経験無いくせに」
「人生の大事なことは深夜アニメと昔のドラマに教わったの。それより冗談だろ腕絡ませるなんて」
何だか馬鹿らしくなってきて俺はフレンチトーストに口をつけた。
口でどう言ったって偽装は偽装。そんな本物っぽいこと、それもラブラブのカップルしかやらないようなことは実際にはしないはず。
しかし、そういった根拠の無い確信はいつだって自分の首を絞めるのみだということを俺はすっかり失念していた。
◇
「みんな私たちの方見てますね先輩」
「そりゃそうだよ。俺が見てる側なら写真撮ってゆすりのネタにするもん」
結局、朝食を食べ終え、揃って家を出た俺達は腕を絡ませて通学路を歩いていた。
腕を絡ませるという羞恥プレイを実行に移した明日香は間違い無く頭悪いんじゃ無いのってことになるが、それを結局押し通された俺の頭も弁解の余地が無い程度には悪い。
どうしてそこまで言うなら断らなかったのかという話だが、明日香の偽装カップルをやるという話をした際に既に謝礼をもらうことは定められていた。そして謝礼を貰うと言うことはある程度の労働を強要されても文句は言えないということだ。
まあ俺にも男としての欲望が全くないと言えば嘘になるし、これが欲望に従った結果じゃ無いかと問い詰められたらはいそうですと答える。
しかし実際にこれをやってみると注目度は異様に高いし、恥ずかしさも心持ち一つで耐えられる類いのものでも無い。
ここまで過剰な注目を集めた理由は俺の隣を歩く明日香にあると見て間違い無い。
鷹崎明日香は俺達が通う高校において学園一の美少女と噂されている。幼馴染みの俺から見てもお世辞抜きで可愛いと言えるし、毎日のように男から告白されている点からもそれは明らかだ。
そして明日香にはこれまで恋人が居なかった。にも関わらず今日に関しては男と腕を絡ませて歩いている。これは見逃せないトピックスというわけだ。
こうなると何だか俺がいたたまれなくなってくる。
自分で言うのも何だが、俺の顔はそんなに悪いとは思っていない。ただしこの顔で金を取ろうものなら詐欺罪で訴えられかねない程度にはイケメンとは言い難い。
つまり端から見た時に不釣り合いに見られてしまうというわけだ。
「先輩、あまりこっちをジロジロ見ないでください」
何だか照れくさそうに明日香が小声で話しかけてきた。
どうやら俺は自分でも気付かない間に明日香の方を見ていたらしい。
「いやどっかに視線を集中しとかないと周り気になってしょうがねえんだよ」
「もっと堂々とできないんですか? 男のくせに」
「堂々とできる男ならこんなことを流されてやらないの!」
「それもそっか」
「納得するなよ!」
周囲に聞かれないように小声で話す俺達。
これはある意味では周りにカップルアピールするための作業だ。下手なことを言って実は付き合ってないことがバレたら色々と台無しだ。何のために今朝妹に威圧されたのか分からなくなる。
……そうだ、作業だ。
これを作業と思えばこの恥ずかしさも解消されるのでは無かろうか。ヒヨコのオスメスを見分ける職人達も恥じらいを持ってあの作業をやっていないはずだ。それを見習って俺もフラットな気持ちでこの作業に挑めば怖いものなど何も無い。ヒヨコの選別作業なんてやったこと無いから分からないけど。
「あの、先輩。一つ良いですか?」
「何だ?」
「これ、恥ずかしく無いですか?」
――だから嫌だって言ったんだよ!
喉の先どころか唇の辺りまで出かかっていた言葉を強靱な理性で押さえつけた俺は褒められて然るべきだと思う。
さっきの作業云々のくだりは何だったのか。どうにか覚悟を決めた俺の立場とは何だったのか。
泣き出したい気分だったが、そうも言っていられない。漫才なら綺麗にオチがつくような場面でもこれが通学中というシチュエーションである限りは学校に着くまでは何も終わらない。
自分から始めておいて今や顔を真っ赤にしているこの後輩をなんとかしつつ、無事登校するまでは安心できない。
しかし恥ずかしいからと言ってここで腕をほどくだけなら何の解決にもなっていない気がするし――
「あ、そうだ」
思い立ったらすぐ行動。俺は一度腕をするりとほどいた。
「ちょっとせんぱ」
明日香が何か言おうとしているがここはあえて無視。言葉よりも先に行動すべきだ。
俺は何も言わずに明日香の手を握った。ただし普通にでは無い。
明日香の指の間に手を絡めるような握り方。すなわち、恋人つなぎだ。
「わーお……」
「なんだそのリアクション」
「いやでもだってこれ恋人つなぎじゃないですか」
「腕絡ませるよりは恥ずかしく無いけど、付き合ってますアピールにはバッチリだろ?」
「おお……私ちょっと感動してます。先輩ってちゃんと考えてるんですね」
「失礼極まりないなオイ。俺だってな、頼まれたことに対しては真摯に取り組むんだよ」
明日香は相変わらずの顔真っ赤。これでもまだ恥ずかしいのかと思ったが、手を強めに握り返してきたので恋人つなぎそのものは継続らしい。
これくらいなら恥ずかしくても妥協できると思ったのか、はたまた別の理由か。鷹崎明日香ならぬ俺の身には分からない。
「こうしてると本当に恋人みたいですね」
「恋人だろうが。嘘か本当かはさておいて」
これで本当に偽装なんてできるのだろうか。
そんな一抹の不安が胸をよぎっても、今日という一日はまだ始まったばかりだ。