靴にも敬意を
我輩は靴である。
名前はフラッシー。
イタリアのコジャレた工房で作られたことを覚えているが、今は遠い昔だ。
我輩、生まれてすぐジャポンという国に送られた。詳しくはわからないが、このジャポンという国に住む生き物は、我輩をたいそう必要としているらしい。なにやら、産地?というものが我輩を求める理由らしいのだが、よくはわからない。
まあ、それほど我輩を求める者たちならば悪いようにはされまい。
ある日のことだ。
我輩がいつも通りステージに立ち、行き交う下々どもを眺めていた。ある一人の男が我輩を手に取り、家へと持ち帰った。
初対面の時の男の風貌はよろしくなかった。ヨレヨレのシャツ、くたびれた襟、何より、履き潰された足下の靴がすべてを物語っていた。
「これください」
『やめてくれー!!』
心からの叫びは男にも、我輩の現主人にも届かなかったようだ。
我輩を持ち帰った次の日から男は、これでもかもいうほど我輩をあちらこちらに履いて行った。
会社というものを見た。
川というものを見た。
山というものを見た。
初めての外の世界を、次々と踏みしめて行った。
男は、我輩のような上流階級に接したことがないらしく、我輩に付いた泥汚れなどを落とすこともしなかった。鏡を見ることもほとんどなかったため、今となってはどれほど薄汚れてしまったのかはわからない。
同郷の者たちと会うことがあったならば、彼らは声をあげて笑うのだろうな。
数年も経つと、我輩はボロボロになっていた。
一方、我輩を買った男は身なりを整えるようになり、コジャレた格好をすることが多くなっていた。
男の周りには普段から人が集うことが多くなり、皆、男の言うことを低姿勢で聴いている。
「社長、出来ました!」
「社長、お加減はいかがですか?」
「社長!社長!社長...!」
ふむ、数年前までは別の名前で呼ばれていたと思うのだが...改名したのか?
「社長、靴を新調致しませんか?」
ある日のことだ。たくさんの靴の写真を持った下卑た笑みを浮かべる男が男にそう言った。
「失礼ですが、今のお召し物は相当古くなっているようなので、替え時だと思います。当社では、ご覧の通り、さまざまなメーカー、産地を調達することができ、オーダーメイドで世界で社長のみの靴を作ることも可能です」
あれやこれやと説明する下卑た男に、我輩を買った男はまんざらでもない様子だった。
初めてこの男と会ったときも、履いていた靴はボロボロだった。今は、我輩がボロボロの靴になっている。我輩の前任者はどうしたのかな?
我輩が男の家に連れていかれた後、捨てられていたような気もする。いよいよ、我輩の靴生もお終いか。
「良いねえ、ところで君、ものは相談なんだが...」
「はい! 何でしょうか?」
「僕の今、履いている靴。これのリペアは頼めるかい?」
......
....
..
我輩は靴である。
名前はもうない。
昔はブランドと呼ばれるそれなりの名を持っていたが、年月を重ねたことで失ってしまった。
我輩の主人は一風変わり者で、金を持つのに、物を持たない主義である。一度手にしたものは墓の中にまで持って行くような男である。
おそらく、我輩はこの主人が歩けなくなるまで履かれ続けるのだろう。若い頃はそのことに絶望を感じていたのだが、今はむしろ誇りに思っている。
この主人の人生の歩みは、あまりにも深く、広い。我輩はその歩みの一助となろう。
「では、行ってくるね」
『さあ、行くか!』