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 ある日、父のリックから書斎に呼び出された。書斎といっても書類の積んである小さな部屋で、ここに呼ばれるのは大概が怒られるときだった。

 リックは穏やかで優しい父だが、怒るとそれはもう恐ろしい。怒鳴りつけられたり、殴られたりする訳じゃない。ただ淡々と理詰めで、何故自分がそんなことをしたのか、そしてそれによって誰に迷惑がかかるのかを理解させられるのだ。精神年齢が大人の癖に、自分の迂闊な行動で周りにどんな心配や迷惑したかを聞かせられると、恥ずかしさを通り越して死にたくなるものだ。



「今日呼ばれた理由はわかってる?」



 俺は素直に首を振る。地獄の閻魔には、嘘をついても無駄なのだ。



「ブロウスから、色々と教わってるみたいだね」



 そういわれて俺の体は硬直した。ブロウスと出会ってから半年、俺が頻繁に外に遊びに出ても、父は何も言わなかった。なのに今日この名前が出るということは、俺が東側をうろついていることがバレたのだ。

 背中を伝う冷や汗が冷たい。またあの自己嫌悪の海に浸るようなお説教が始まるかと思ったが、リックは穏やかな顔で引き出しから何かを取り出した。



「これを渡そう。オズはまだ手が小さいからね、ブロウスの持っているナイフでは大きいだろう?」



 それは古びたナイフだった。刀身が使い込まれた革で包まれており、随分古いもののようだ。大人が両手を広げたほどの大きさで、持ってみるとブロウスに借りるナイフよりも軽く、俺の手に収まる。ケースから取り出すと、それは光を受けて鈍く光った。元はもっと大きいナイフだったのだろう。研磨され、刃先が鋭角になっている。



「おこらないの?」

「もちろん、怒るよ」



 リックの穏やかなほほ笑みに、俺は疑問を口に出したことを後悔した。





 リックの話では、ブロウスは随分前から俺のことを話しているらしかった。解体作業や昼の魔法を教える許可もとっていたようで、俺が解体場で転んで血まみれになったことも、セラフィマのおっぱいに見とれていたことも筒抜けだった。初対面の時にリックには内緒だと言ったのはブロウスの方だったくせに、既にそこまで情報が渡っているは裏切られた気分だ。

 一言文句を言ってやろうと、俺は小さなナイフを腰に下げブロウスたちの家へと向かっていたが、その途中で白猫を見かけフラフラと更に路地へと逸れていく。白猫は俺がついてくるのを確認するみたいに何度も振り返り、ゆっくりと歩いていた。


 実は既にこの猫には何度か干した小魚を与えている。未だに触れることを許されてはいないが、猫が俺の渡した小魚を食べているのを見るだけで心が癒された。

 いつものように人気のない場所までくると、猫は餌を催促するように俺の周りをぐるぐると回る。いっそそのまま足に顔をこすりつけて欲しいのだが、マーキングされるほど俺たちの仲は進展してはいないようだ。小魚を与えると、白猫は静かに咀嚼する。はじめのうちは小魚を持ってどこかへ逃げてしまっていたが、今は俺のことを安全と判断したのか、その場で食べていく。



「かわいいなぁ」



 俺のでれでれと緩んでいた口が、勝手に白猫を称賛する言葉を紡ぐ。白猫は俺の言葉など気にせずにその場で毛づくろいを始めていた。



「野良のはずなのに真っ白な毛皮だし、少し短い毛ももふっとしてて触り心地が良さそうだ。ぴょんと飛び上がる姿もかわいいし、青いおめめがまじキュート!」

「そんなにかわいいかにゃ?」

「そりゃあもう、誰も咎めないなら、持って帰って一緒に寝たいくらいかわいいさ」

「そこまで褒められるとちょっと照れちゃうにゃあ」

「照れる姿もかわい…………ん?」



 白猫のかわいらしさに没頭していたが、俺はいったい誰としゃべってるんだ?



「こ、こんにちは?」

「はいこんにちは」

「今日は、いい天気ですね」

「あたしの勘からすると、夕方には雨になるにゃ」



 女性のような涼やかな声は、目の前の白猫から聞こえていた。

 現実を確認するように瞬きを繰り返す。周囲を再度確認しても、誰もいそうにない。視線を白猫に戻し、じっくりと見つめると白猫は顔を洗いながら言った。



「そんなにじっと見つめられると、恥ずかしい……」

「………………ね、猫がしゃべったっ!」

「猫がしゃべっちゃいけないなんて誰が決めたにゃ? 聖王国の法律にはありそうだけど、あたしらのルールには載ってないにゃあ」

「えっ、別に悪いってわけじゃないけど。いや、むしろ、え、どういう声帯してんの?」



 それから――俺が落ち着くまで10分以上かかったと思う。その間白猫は優雅に毛づくろいを続けていた。そんな姿もかわいらしい。ぎゅっとしたくなる。



「おちついた?」

「落ち着きました」



 よくよく考えてみればここは剣と魔法の世界。猫だって魔法を使うし――雉柄の猫が路地裏で麻袋を切り裂いて残飯をあさっているのを見たことがある――しゃべるのも普通かもしれない。



「猫は、みんなしゃべるの?」

「さぁて、しゃべるかもしれないし、しゃべらないかもしれない。どっちだと思う?」

「現に、しゃべってるし」

「あたしだけが特別かもしれないにゃ」

「あと時々思い出したみたいに語尾が猫っぽくなるの、なんで?」

「にゃあ……結構痛いとこをついてくるにゃ。猫はこんなしゃべり方がセオリーなのにゃ」



 キテラと名乗った白猫は、俺の話をはぐらかすばかりだった。名前があるので飼い猫だったのかと尋ねても、表情のわからない顔でそ知らぬふりをする。もしかしたら日本でも名前なんて俺たち人間が勝手に呼んでるだけで、猫にも親から付けられた名前があるのかな、とまで思ってしまう。

 キテラは俺の質問を一通り躱し、長い尻尾をゆらゆらと振って立ち去った。



「あたしに色々聞きたかったら、もっとおいしいものをいっぱい持ってくるんだにゃ」



 そう一言だけ残して。


 それから、俺がキテラに貢物を送る日々が始まった。俺のお小遣いだけでは足りなくて、家の手伝いをして更にお金をもらう程度には、あのかわいらしい白猫に入れ込んでいた。

 キテラは俺があの袋小路になっている路地へと行くとすぐに姿を現して、餌をねだって来る。週に数度そんなことを繰り返していると、いつの間にかあの袋小路にはキテラ以外の猫も集まるようになっていた。だがしかし、しゃべる猫はキテラだけのようで、他の猫たちはにゃあにゃあとかわいらしい声で鳴くだけだ。

 他の猫たちは俺の足に擦り寄ったり、その柔らかい毛皮に指を這わせることを許可してくれたが、いつまでたってもキテラはしっぽどころか背中すら触らせてくれようととはしなかった。



「そういえばここ、全然人来ないよね」



 ある日の午後、キテラと猫たちに兎肉の燻製を与えながら俺はぽつりとそう漏らした。キテラはここの猫たちのボスらしく、一番おいしい部位をすぐさま食らいつくし、今は木箱の上でしっぽをパタパタさせながら寝ころんでいる。



「ああ、あたしの魔法があるからね」

「魔法って……もしかして夜の魔法?」

「人間たちはそう呼ぶみたいだけど、あたしたちからしてみれば魔法はただの魔法にゃ。そんな小難しく分類しなくても、あたしたちが使える魔法はこれだけにゃ」

「どんな魔法?」

「ただの人除け。あたしが許可しにゃいと、ここに道があるなんて、誰にもわからいにゃい感じにゃ」

「へぇ、キテラってすごいんだね」



 少なくとも狩人(ネイト)たちからはそんな魔法が存在するなんて聞いたことはない。



「あったりまえにゃ。崇め奉ればいいにゃ!」

「いや、現状崇め奉ってるみたいなものでしょ。お供え物だって持ってきてるし」

「はっ! そうだったにゃ。あたしはいつの間にか、猫神に進化していたにゃ! 噂では、神になるとしっぽが2本になるらしいにゃ」

「それって神様じゃなくて魔物なんじゃない?」



 確かベンノの話では、しっぽが2つに分かれて攻撃してくる狼型の魔物は存在していたはずだ。



「それで、キテラ。今日は何を教えてくれるの?」

「気付いたにゃ。オズワルドのあたしに対する扱いは、神様じゃなくって家庭教師だにゃ」

「もともとそういう契約だったじゃん」



 食べ物を持って来れば色々教えてやる。そう俺にいったのはキテラだ。今更待遇が不服だなんて申し立てられても遅い。



「しょうがないにゃあ……じゃあ今日は人除けの魔法について教えてあげるにゃ。オズワルド、人間たちが夜の魔法と呼ぶあたしたちの魔法について教えたことは覚えてるにゃ?」

「えっと……確か猫は地面とか空気に宿る魔力で魔法を使うんだっけ」

「その通りにゃ。魔素は地面にも空気にも植物にも、それこそそこら辺の石にも宿ってるにゃ。その魔素を使って、色々できるのがあたしたちの魔法にゃ。一度、この路地の入口を見てくるといいわ。あたしの掘った魔方陣があるにゃ」



 キテラに促され路地の入口である石造りの壁を見ると、確かに丸や四角など簡単な記号を組み合わせてた何かが描いてある。



「これが魔方陣? 随分簡単だね」

「簡単のように見えて色々と組み合わせてあるにゃ。オズワルドには一つの魔方陣に見えるかもしれにゃいけど、これは結構複雑なのにゃ。ちょっと図形の位置がずれただけで、まったく効果を生まなかったりするにゃ」

「俺には子供の落書きにしか見えないけど」

「オズワルドにはこの計算されつくした美しさがわからないにゃ!?」

「はいはい、上手上手。ところでさ、これって俺にも使えたりする?」

「最近扱いがぞんざいにゃ。この魔方陣はあたしが刻んだものだから、あたしにしか使えないにゃ」

「だったら、俺が刻んだら使えるようになる?」

「見様見真似で魔方陣を書いても無理にゃ。あたしたちは魔素を刻む爪を持っていて、物体の魔素に直接魔方陣を刻むにゃ。傷に見えるのはその時の名残で、実際オズワルドがここに同じ魔方陣を書いても、それはただの落書きにゃ」



 キテラの言葉に少しだけ肩を落とす。魔方陣が以外と簡単だったので、俺にも魔法が使えるかもしれないと思ったのだ。いまだに昼の魔法すら十分に使えない俺には、まだ早すぎるかもしれない。



「まあオズワルドがどうしても魔法を教えてほしいって言うんにゃら、あたしもやぶさかではないにゃ」

「え、まじ?」

「まじにゃ。だけどあたしの口が軽くなるのは、お腹いっぱいの時だけにゃ」



 そういってキテラは目を細めた。どうやら、俺の猫たちへ貢ぐ日々はまだまだ続くどころか、更に要求を上げられそうだ。

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