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猫のいる生活の素晴らしさを語ろうと思う。
まず朝、猫に餌の催促をされふにふにの肉球と少し飛び出た爪で顔を嬲られ目が覚める。おい下僕、朝だ。俺様は腹が減ったぞ。そんな顔をしたご主人様の朝食を準備しながら尽くす事の喜びとあくびを噛みしめる。
午前中は周辺のパトロールに赴く猫を見送りひとり寂しく過ごす。猫が帰ってきても、ひとりでごろごろしているのであまり構っては貰えない。しかし警戒を解いてのんびりしている背中を見るだけでも十分だった。
昼は一緒に床に転がり、ぺしぺしとしっぽで顔を打たれながらも猫の毛皮に指を滑らせる。なめらかな肌触りは高級絨毯にだって負けない。
夜、猫は気まぐれに下僕の膝に乗って寛ぐ。その間は足がつろうが膀胱が爆発しようが我慢だ。少しでも気分を害されると、すぐさま猫は去って行ってしまうのだから。
春夏秋冬、猫は自由気ままな生活を送るが、下僕にとって冬は特別だ。ご主人様と寝床を共にできるのだ。ふわふわの毛とずっしりとした重さ、暖かさを堪能できる。腹の上に居座られて寝返りを打てないなんて瑣末な問題だ。
つまり何が言いたいかというと、猫がいる人生とは最高だという事だ。
ここで自己紹介をさせてほしい。俺はオズワルド・レジンスカ。商業の町ワックハーゲンに住むしがない商人の三男である。
父のリック、兄のリックJr.、ザドク、姉のネルの5人家族の末息子である。母は既に他界したが、リックSr.とリックJr.を中心に家族助けあって生きてきた。といっても、俺オズワルドはまだ3歳になったばかりなので家族の世話になっているだけの現状であるが。
では何故幼子と言える俺がこんなに流暢に話をしているかというと、それは俺の前世に携わる話である。眉唾な話だろうが、俺には前世の記憶があった。地球と呼ばれる惑星の日本という小国で毎日を猫と共に面白おかしく過ごし、家族に見送られながら寿命を迎えて神の国へと旅だった――筈だった。
満足感と共に目を閉じた俺が再びその目を開いた時、年老いた筈の体は何故か赤子になっていたのだ。
金の髪の女性に抱えられながら、見たこともない風景に混乱した。声を出そうとしても声帯が発達していないのか意味を成さない単語しか発せられないし、身動きも取れない。ざらりとした薄い布団の上で毎日泣きながら生きていたが、数日も経つと徐々に冷静さを取り戻し、理解した。俺は生まれ直したのだと。
しかし室内を観察してみると、電化製品などはなく家自体も石造りで隙間風が吹き込む粗雑なものだ。それに衣類や食料などの生活基準が低く、何度も床ずれを起こした。水道すらなく飲水は井戸から組み上げる始末である。とても俺が生きた21世紀とは思えないような生活環境に辟易した。
時を遡ってしまったのだろうか。常人ならありえないと切り捨てる思考だが、現に俺は輪廻転生というお伽話のような奇跡を経験してしまっている。
だから俺は、中世のどこか異国に生まれ直してしまったのだと思っていた。この時までは。
「そこで聖犬オズはお姫様を襲った魔女の手下の猫を噛み殺し、この国を救ったんだ」
母が死別した後、俺の世話は主に次男のザドクが行っている。幼い俺を寝かしつける為に9歳のザドクはこの国のお伽話をしてくれるが、それには常に聖犬と呼ばれる犬達が登場した。
その中でも特に有名な聖犬オズは今の自分の名前の由来にもなった勇猛果敢な犬で、さながら英雄のような扱いだった。この国では犬は神のように大事にされているらしく、遠い昔歴史の授業で習った将軍を思い出した。
「ねこ、かわいそう……」
犬も好きだが俺は断然猫派だ。魔女の手下だとか、王族を襲っただとかお伽話に突っ込んでも仕方ないが、ザドグが何度も語る物語の結末は胸が痛んだ。何も咬み殺す事はないだろう、たかが猫なのに。
そんな俺の呟きにザドクは何を思ったのか、目を見開いて俺を布団の中から引きずりだした。
「オズワルド! 猫の味方をしてはいけないよ、猫は不吉の象徴、魔女の下僕なんだから!」
「おとぎばなしなのに?」
「お伽話? まさか! 聖犬オズの物語はこの世界の歴史だよ。今までオズワルドに話したお話は、すべて実際にドグレイド起こった事なんだ」
ぎゅっと俺の肩を抱いて言うザドクの目は本気だ。
「どぐれいど?」
「この世界の事だよ。いいかい、オズ。ドグレイドは猫を許さない。猫は人を誑かし悪の道へと落とす邪悪な魔物なんだ。だから街で猫を見つけても、決して近づいてはいけないよ。猫の機嫌を損ねるのも駄目だ。強大な魔法で殺されてしまうからね。猫に近づかないと約束してくれるね?」
「……うん」
兄の剣幕に取り敢えず頷いておく。
俺に理解できたのは、つまりこの世界では猫は飼えそうにないって事だ。あのサラサラの背中に指を這わせたり、ごろごろと喉を鳴らす音を聞きながら眠りにつく事すら出来ないのだ。
昔生きた地球とは異なる世界であるという重大な事実も、猫が飼えないというルールの前ではどうでもいい事だった。
□
猫不足を補えないと知ってから1年が経った。
兄のザドクは猫に同情する俺に危機感を覚えたのか、あれから寝る前のお伽話は如何に猫が悪逆非道の忌避すべき魔物であるかを知らしめるものばかりになった。猫が何処の王を蠱惑し堕落させ国を滅ぼしただの、猫が魔女を使い街を焼き尽くしただの、子供の寝物語にすべき話ではないものもいくつかある。
兄の不興を買う訳にも行かないので「聖犬、かっこいい!」という態度を貫いていると、ザドクも満足した様だった。
4歳にもなると行動範囲が広がる。短い手足で運動能力はあまり高くはないが、精神年齢は数十倍の為発達しきれていない脳でも単純な計算などは問題がなかった。
最近では小売店の様な商いを行っている我が家の手伝いも進んで行っていた。手伝いと言っても、父からの伝言を兄に伝えたり、食事の支度を手伝ったりといった他愛もない事しか出来ていないが。
「オズは本当に覚えが早いな。このままだとこの店はオズが継ぐ事になりそうだ」
長男のリックJr.が感心した様に呟く。俺から見れば、リックJr.も齢13にしては細やかな気配りが出来、頭も悪くはない。元の世界の13歳と比較するとありえないくらい大人びていた。
学校という制度がなく、幼い頃から家業の手伝いをするのが普通であるこの世界では、リックJr.の年齢で一部とはいえ仕事を任されているのは珍しくない事らしい。
「計算は楽しいか?」
「うん!」
教育は各家庭で行われる。文字の読み書きも計算も兄姉達から学んでいた。
紙は普及しておらず、羊皮紙も値が張るので計算練習は黒板の様な黒い石の板に軽石を細長く固めたチョークの様な物を使用している。
ドグレイドはあまり識字率が高くないらしく、読み書きが出来るのは貴族と一部の人間だけらしい。しかし商人には計算も含めて必須のスキルである。貴重な本――うちの店でも数冊しか取り扱っていない。値段が平民では手が出せない程高いのだ――を見ながら、四則演算を行う。ドグレイドの4歳児がどのくらい計算が出来るかは知らないが、教える兄も乗り気でどんどんと進んで行く。
「そろそろオズにも通貨を教えないと」
2桁の割り算を解き終わってリックJr.が答え合わせをしている時、姉のネルが手のひら程の革袋を机の上にどんと置いた。
「ああ、ネルに任せる」
「任されました」
ネルが机の上にくすんだ色のコインを数十枚、銀色のコインを数枚、金色のコインを1枚並べる。どのコインも2種類のサイズがあり、1枚は大人の親指の爪程の大きさで、もう一枚はその2倍の大きさだ。
「銅貨、銀貨、金貨よ。小さい銅貨……小銅貨10枚で小銀貨1枚、小銀貨10枚で小金貨1枚になるわ。じゃあ、大きい銅貨は小銅貨何枚分だと思う?」
現代日本で考えると銅貨が100円玉、銀貨が1000円札、金貨が10000円札に当てはめる事が出来る。つまり普通に考えると、大銅貨は小銀貨の半額だろうか。
「50枚?」
「ええ、その通りよ。銅貨2枚で小銀貨1枚、小銀貨2枚で小金貨1枚、大金貨は金貨10枚分の金額になるわ。うちの店では小銅貨1枚でパンが2個買えるわよ」
パンというのは毎食の主食である黒くて固くてぱさついたパンである。あのパンが2個で50円か。高いのか安いのかよくわからない。首を傾げていた俺を見てネルは破顔する
。
「オズにはまだ難しかったかしら。月に1枚銀貨をあげるから、好きな物を買っていいわよ」
「そんなにいいの?」
「無駄遣いは駄目よ? あとは、お家の手伝いをきちんとすること」
「わかった!」
月に1000円、パン40個分の小遣いは幼い子供にしては貰いすぎの部類ではあるが、商家の子供は幼い頃からこうして金銭感覚を身につけるらしい。自分で金のやりくりをして、物の相場も知る事ができる。
ネルから銀色のコインを受け取り、街の地図を見ながら行ってはいけない場所などを教わる。羊皮紙に書かれた地図は簡単ながらもこの街の広さを物語っていた。
商業の町とも呼ばれるワックハーゲンは立ち並ぶ店も多く、商品の輸送に最適な大きな運河に面しているらしい。兄姉と連れ添って最低限の範囲しか外に出たことのない俺にとっては、町の全体など把握しきれていないが、想像以上に栄えているらしい。
ファンタジーの世界らしく、冒険者ギルドまである。町の東側――ギルドの周りには宿屋、飲食店を中心とした旅行者向けの店舗が立ち並んでいるが、西側――家の周りには卸業者や小売店など市民向けの小さな店舗が並んでいる。
「冒険者ギルドの方には近づいては駄目よ。あっちは観光客向けで物価も高いし、狩人は荒っぽい人が多いから」
「ねいと?」
「冒険者の事よ」
「狩人ってなにをするの?」
「魔物を退治したり、商隊を護衛したりかな。荒事で物事を解決する人たちよ。まあ、いないと困るんだけど、厄介事を持ち込むのも大抵あの人たちね」
ネルが眉を顰めながら溜め息を吐く。
どうやら狩人にはあまりいい記憶がないらしい。魔法があり、魔物――というか魔物がいるのか――や恐ろしい力を持つ猫がいるファンタジーな世界なのに、冒険者は迷惑者みたいな立ち位置とは不思議だ。
こういった世界では冒険者は羨望の的であるのが昔日本で読んだ小説では定石だった。
「狩人は僕たちをまもってくれるんじゃないの?」
「町の中なら騎士団があるから、彼らはあまり必要じゃないのよ」
「街の外に行ったときは?」
「他の街とをつなぐ街道は騎士が巡回しているし、普通に生きてる分じゃ頼ることはないわね」
どうやら姉は随分と狩人を嫌っているみたいだった。猫も飼えない、冒険者としても一旗あげられそうにないこの世界は、ファンタジーにあこがれた現代っ子には退屈だ。ちょっただけ期待していたのだ、剣と魔法で、世界を救う勇者になるだなんて夢物語を。
「あら? オズは随分と狩人が気になるみたいね」
「……うん、僕も剣でやーってやりたかった」
「それだったら、狩人を目指すよりも騎士になった方がずっといいわ。騎士様は相犬と共に朝の魔法を操り、王国を守るのよ!」
「ネルは騎士様がすきなんだね」
「私だけじゃないわ。王国に住む女なら誰でも一度は夢見るものよ、強くたくましい騎士様との結婚を」
8歳のネルは女を語るには早すぎる年齢だが、彼女の瞳は恋に焦がれる乙女そのものだ。
お転婆ではあるがいつも弟である俺には穏やかに接してくれている姉の苛烈な情熱を受け、今後は騎士に関しての話はふらないようにしようと俺は心に刻んだ。




