《 短編》No.小さな世界での不条理《完結》
彼が掻き鳴らす音が最高を奏でようとするならば、彼女がいなければならない。
彼女の声帯、その他身体から成せる音の波に、彼は心奪われ、全てを愛した。
だから、彼女は決まって喉を潤す時はハチミツを混ぜたハーブティーとか、生姜がたっぷりのスープだったり。上等な楽器の手入れであるように。
彼は美しいその旋律が損なわれるのを恐れているのだ。
人里離れた場所に、真っ白な屋根の一戸建てがあるはずだ。近付くと必ず、天使の歌声が聴こえてくる。だけども、誰も彼女の正体を知る者はいない。
彼女は起きてすぐに暇を持て余す事を許される。彼女にとっては一日を怠慢に過ごす事が仕事。
彼は、彼女の手入れをする。身体の隅々まで。床にまでつく位の長い金糸も丁寧に。その延長線として、彼女を幾度も奏でるのである。
彼女は、声帯は勿論のこと、他の部位もそれはそれは美しい音楽を響かせるのだ。
ただし、彼女自身は彼の音を聞いた事が無かった。長い間、暮らしていたにも関わらず、聞いた事があるのは、彼の体重から鳴る床の軋み音や、スプーンが皿にコツコツと当たる音だ。
彼は一体どんな音を奏でるのだろう。次第に、彼女は好奇心を抑えられずにいた。
ある日、彼女はベッドの上の彼に麻酔薬を打った。彼は身動きが取れなくなり、一番初めに発した音は「ファ」の音だった。
やがて、彼の声帯から、聞いた事のない旋律が演奏された。美しく、悲哀のこもった、命の灯火を懸命に燃やそうとする、誰一人真似出来ない彼だけの(彼女だけの)愛おしい曲。
彼女は、ずっと聞いていたかったので、唇から唇へ彼の音楽を自分の身体へ吸いこんだ。
けれど、もっと深く、聞いた事の無い身体の底から鳴る音楽を聴きたくなってしまった。
彼女は、彼の、身体隅々を、奏者のように演奏した。
演奏すればする程、音は味わい深くなる。彼は、また新しい音譜を口から発した。
彼女は、脳細胞全てが彼の音に振動する程、気持ちが良かった。
時が過ぎて、再び耳にするのは、扉の外の権力の入り交じったつまらない音だろう。だけども、彼女の頭の中は尚も素晴らしい音楽が響いて鳴り止まない。彼の姿を見て発する彼女の音楽もまた。




