(3)
それから二人の行動は早かった。
雄太の母親は先ほど彩花に指示されたように、自分が旅行に出かける準備をし始める。必要最低限のものと言ってあるものの、女性のため、それなりに量が多い。
それがしっかりと分かっている彩花は、予想の準備時間より時間がかかると判断して、室長に電話をかけることにした。
彩花がバックから取り出し、この仕事用に準備されているスマホの着信履歴から室長にコール。
1コール後、
『おう、終わったか?』
と、いつも通りの不愛想な声が電話口から彩花の耳に入ってくる。
「労いの言葉ぐらいかけてくださいよー」
そんな冗談を投げかけると、
『まずはオレに労いの言葉をかけてから言え。そんなことよりもそっちはどうなった?』
あっさりと流されてしまう。
だからこそ、彩花もこの話題を引っ張ることを止めて、真面目にこの話について話すことにした。
「順調と言えば順調かな? 今、旅行に出かける準備をしてるところ」
『そうか。気付かれないように気を付けろよ? ギリギリまで』
「分かってる。まぁ、ここまで来たら、あとは何とでも理由はつけることが出来るから大丈夫じゃないかな?」
『現場は彩花しか知らないから、オレはその判断に任せる』
「職場とかはもう大丈夫なんだよね? そこらへんの確認済ませておきたいんだけど……」
『言われなくても、しっかりとしてるっての』
「さすがは室長」
そう言ったところで、
「あ、あの……職場ってどういうことでしょうか?」
彩花と室長の話を偶然盗み聞きしてしまった雄太の母親が申し訳なさそうに彩花へと尋ねた。
雄太の母親の手前には古びたギャリ―バッグがあり、その中に洋服や簡単な化粧品を詰めようとしており、すでに詰めるという作業だけになっているような状態。
その状態を見た彩花は、
「室長、そろそろ終わりそうだから、今後のことを説明するために電話を切るね。場所とかはあの紙の通りで大丈夫なんでしょ?」
室長に最終確認を取ると、
『ああ、大丈夫だ。ちゃんと説明しとけよ。じゃあな』
と、彩花がそれに答える前に室長がブチッ! と電話を切った。
相変わらずの切り方に彩花はちょっとため息を溢しながら、
「すみません、お待たせしました。これからのお母さんが取る行動を指示……ちょっと違うかな? んー、とにかくやるべきことをお教えしますね」
目の前に移動し、キャリーバックを挟むようにして正座する。
彩花のその行動につられるようにして、雄太の母親も姿勢を正そうとするも、
「あ、作業を続けてください。聞いてもらうだけで十分ですから」
その行動を彩花は制す。
それに従うように雄太の母親は詰める作業を再開。
「電話で聞いた通り、お母さんには今働いているスーパーではなく、違うところでパートをしてもらうことになるんです。国からの指示なので、給料はそのままどころかむしろ上がってます」
彩花がそう言うと、雄太の母親は彩花の方を見て、
「上がるんですか!?」
目を丸くしていた。そのせいで一時的に手が止まってしまうも、すぐに手を動かす。
「はい。上がります。ただ上がるからと言って、その給料全部がお母さんの所にいくわけではありません。上がるからにはそれなりの理由があります」
「その理由はなんでしょうか?」
「簡単な話、上がった分が私たちの生活費に回るってことです。私たちの生活費に回ると言っても、生活に必要な最低限の分の使い道しかしません。なので、基本的には雄太くんのために使うってことになるので安心してください」
「……えっと、そうなるとあなたが使うお金は……」
「ないですよ。私に必要なお金は国からの支給……はそんなにないですけど、基本的には自費です」
彩花からすればそれは当たり前の事だったが、雄太の母親はそのことにまた驚いたような反応を取る。その反応は過去受け持ってきた家族と同じような反応だったため、雄太の母親が何を言いたいのかも手に取るように分かっていた。
「あの……私の給料をもうちょっと……」
だからこそ、そう言ってきた雄太の母親の言葉を途中で遮り、
「一応、これも契約書に書かれてある規則ですので……。そんなことをしてもらったら、私はクビになってしまいます。だから、気にしないでください」
と、本来は契約書には書かれていないことを話し、脅すことにした。
さすがに職まで失うとは思っていなかったのか、雄太の母親は驚きから口を閉ざしてしまう。そして、それ以上の提案を出すことはなく、
「すみません。余計なお世話なことを言ってしまいまして」
そのことに対しての謝罪を小さな声で行った。
「いえいえ、気にする必要はないですよ。それよりも私のことを心配してもらってありがとうございます」
彩花はそう言うことで少しでも雄太の母親の罪悪感を消そうと試みるも、余計な一言を言ってしまったことにショックを受けているらしく、それ以降無口で服を詰め込んでいた。
彩花も雄太の母親が話しかけてくる様子がないことを察し、自分がやるべきこと――雄太の母親が新しく暮らすアパートへの移動のためのタクシーの要請などを済ますことにした。
お互いがお互いのことに集中したことで準備はあっさりと終わってしまう。
「終わりました。あとは何をすればいいですか?」
キャリーバックのロックをした雄太の母親が、彩花に次の指示を仰ぐ。
「あとは荷物を私が呼んだタクシーに荷物を詰め込むだけですね。とは言っても、もう来たみたいですけど……。っと、その前にお母さんから雄太くんに私の紹介をしてもらうぐらいかな? とりあえず荷物をタクシーに詰めましょうか!」
自分の紹介をした後に母親に当たるパターンを何回か見てきたことがあった彩花は、キャリーバックを自分が持つことで、それ以外の選択肢を一時的に封じ込める。
雄太の母親が慌てて自分でキャリーバックを持とうとするも、
「大丈夫ですよ、軽いですから」
と、軽々と持ち上げて、そのまま玄関へと運ぶ。
そして、家から少しずれるようにして止まっているタクシーに近寄り、タイミング良く開けてもらったドアをくぐり、右奥にそのキャリーバックを積む。
「久しぶり、おじさん。今回もまたよろしくね。住所はここ!」
何回もあったことのあるおじさんに後ろから、住所が書かれた紙を渡す。
運転手は無口でその紙を受け取ると、親指を立てることでそれを了承したことを確認。
「じゃ、またあとで!」
そう言って、タクシーから降りて、その様子を見守っていた雄太の母親に、
「さ、準備はオッケーです。雄太くんに会うとしましょうか」
にっこり笑いかけ、再び家の中に入っていく。
雄太の母親は、彩花に雄太を会わせることが不安になってしまったのか、それとも一時的にでも雄太と別れることに不安を感じてしまっているのか、少し暗くなってしまう。
が、彩花はそのことに対してフォローの言葉をかけることはなかった。
それは、かけたところでそれが現実であり、何も変わらないことだと思ったからだった。