(2)
「これでいいんでしょうか?」
契約書に自分の名前を記入した雄太の母親は少しだけ不安そうな表情を見せつつ、彩花が読みやすいように契約書を回転させて差し出す。
「あ、すみません。一応、判子もよろしいですか? 種類はなんでもオッケーです。ついでに契約金の方の確認もしたいのでお願いします。お金の件もちょっと申し訳ないんですけど……」
名前の記入を確認しながら、彩花はそれを思い出したように雄太の母親にお願いした。
最初から判子と契約金の確認が必要なのは分かっていたが、それを最初に言い出さなかったのは、契約金の件があったからだった。家に入るなり、いきなりそのことを確認するのは守銭奴のような気がして嫌だったのだ。
だからこそ、彩花はそのことを忘れており、ついさっきそのことを思い出したように演じたのである。
「あ、はい。分かりました」
雄太の母親は彩花のお願いに従い、ゆっくりと立ち上がり、その部屋の引き出しに隠してある実印と銀行通帳を取り出す。そして、戻ってくると再び向かい合うようにして座った。
「名前の横にお願いします」
再び雄太の母親に契約書が読みやすいように回転させて差し出す彩花。
雄太の母親はケースから判子を出すと、朱肉に二回ほど押さえつけてから、息を吹きかけ、それを指示された場所へ押し付けた。
「これで大丈夫ですか?」
そして、また回転させて彩花へ差し出す。
その一連の行動をちゃんと見ていた彩花にとって、それは確認するまでもないことだったが、念のため確認。
「はい、大丈夫ですよ! えっと……通帳を確認してもいいですか?」
そして、契約書を隣にずらした後、少しだけ頭を下げて、申し訳なさそうに尋ねた。
「はい、確認してください」
彩花が申し訳なさそうにそのことを尋ねてきたため、騙されている可能性を腐食したのか、あっさりとその通帳を彩花へと差し出す。
「ありがとうございます。それでは!」
信用してもらった確信を得ることが出来た彩花は、通帳を受け取り、最終記入されている所の金額百万より少し上の額を見て、首を縦に振って、契約金がちゃんと準備出来ていることを確認した。
「よし、ばっちりです!」
そう言って、彩花はにっこりと雄太の母親に笑いかけ、そのまま通帳を返し、
「今から旅行に出かける準備……必要最低限の準備で大丈夫ですが、何分ぐらいで出来ますか?」
と、雄太の母親へ質問した。
その質問の理由が分かっていないのか、きょとんとした表情になる雄太の母親。
――あー、無理もない反応だよね。
雄太の母親が取った反応は今まで体験した通りの反応の一つだったため、
「もう一度聞きますね。今から旅行に出かける準備するとしたら、どれぐらいかかりますか? 必要最低限の準備でいいですから」
再び同じ質問を繰り返す。
が、そのことに雄太の母親は答えることなく、
「いったいどういう意味でしょうか?」
その質問の意味を質問として返されてしまう。
「えーっと……たぶん理解が追いついてないだけで、なんとなく分かってるとは思うんですよね……」
彩花は苦笑を溢しつつ、自分が質問した質問に対しての意味を教え始める。
「引きこもりが続く要因として、『子供が親に対する甘え』があると私たちは思ってるんです。だから、子供と親を引き離さないといけないんです」
その発言に少しびっくりしつつも思い当たる節があるのか、雄太の母親は暗い影を落とす。
「もしかして先ほどの質問の意味は――」
そこから導き出される答えはただ一つを分かった雄太の母親はちょっとだけ寂しそうに言ったが、
「はい、その通りです。泣こうが喚こうが力づくでも引き離します。それが契約書に書かれている内容の一つですから。本気だからこそ、私たちが掲示した百万という大金を準備したんですよね?」
雄太の母親がどう思おうが、無理矢理にでもそれを行う意思と雄太の母親が本気でどうにかしたいと思ったから集めたお金のことを再度確認した。
それがウソではないことを認めるように雄太の母親が首を縦に振り、
「準備はたぶん三十分ほどで出来ると思います」
雄太の母親は答える。
その返事を聞くことが出来た彩花は微笑み、
「ありがとうございます。そして、ごめんなさい。契約書の件は省き過ぎましたね。ただ、ああでもしないと納得してくれないんです。親が子を想う気持ちは……並大抵のものじゃ引き離すことが出来ないので……」
数歩後ろに下がった後、頭を畳にくっつけるようにして謝罪した。
それぐらい、自分たちも本気であることを伝えたいがために行える行動。だからこそ、この頭を下げる行動に彩花は何も恥じるものがなかった。
逆にそこまでされると思っていなかった雄太の母親は、
「あ、頭をあげてください! そこまでされる必要はないですから! 本気なのは分かりましたから!」
急いで立ち上がり、彩花の隣に来ると、肩を掴む。
「はい……」
雄太の母親の言葉通り、頭を上げるも、
「でも、まだ一つ謝らないといけないことがあります」
と、もう一つ謝罪することがあることを伝える。
「なんでしょうか?」
「はい。先ほどの契約金の件なんですが……」
「た、足りてませんでしたか……もしかして……」
お金の件ではその増減が頭に思い浮かんでしまうのは人間として必然の理。そのため、いっきに雄太の母親の表情は険しくなってしまったため、
「あ、誤解を生んでるようですが十分な額ですよ! ただ、そのお金は私たちが受け取るのではなく、お母さんがこれから離れて暮らすための資金になるってだけのお話です。だから安心してください」
自分が説明しなければならないことを慌てて彩花は話した。
「あ、そういうことですか……」
足りてないと思っていた雄太の母親は安心した表情に戻る。
「はい。その通帳に記入されたお金――契約金はご両親の本気度と離れて暮らすための資金になるんです。そのことを言わずに大金を集めさせてしまった。それを対する謝罪をしないといけないんです」
彩花はもう一度頭を下げようとするも、雄太の母親によって途中で止められてしまう。
「もう下げないでください。もう充分にあなたたちの真剣さは伝わりましたから。雄太――息子のこと、よろしくお願いします」
そして、今度は雄太の母親が彩花の真似をして、畳に頭を付けた。
「あ、頭をあげてください。私たちは仕事ですから。依頼された仕事をこなすだけなので、頭を下げられる必要なんてないです」
雄太の母親がしたように今度は彩花が、雄太の母親の頭を起こすように促した。
が、なかなか頭を上げようとしない雄太の母親。
それぐらい感謝と信用してくれたことを感じつつ、雄太の母親が頭を上げることにてこずってしまうのだった。