(1)
ある二階建てのマンションの二階にある一室。
その部屋で一人の男が窓際を背にするようにして座り、机の上に何枚も積まれた書類と睨めっこしながら、カリカリとボールペンを走らせる。そして、必要事項を書き終えたボールペンをその書類の上に置き、右側に置いてある判子を取り、朱肉に何度か押し付けた後、その書類に印を押す。
「はぁ……疲れる……」
そう漏らすと休憩に入るわけではなく、そのまま次の書類へと手を伸ばしながら、お客様用のソファーの上で寝転がっている女性を見る。
その女性は仰向けで寝転がり、何かの小説を読みながら、お腹の上に置いたコンソメ味のポテチを手で口に運ぼうとしている最中だった。が、男の視線に気が付いたらしく、
「室長、今の一言は私に向けて言いました?」
と、顔だけを浮かせるようにして、室長を見た。
「別にそういうわけじゃない。疲れるから疲れる。本音を言ったまでだ。別に彩花に手伝ってもらおうなんて考えてもないから安心しろ」
室長はその言葉通り、手伝ってもらおうという気持ち一つないらしく、彩花を見ることなく、目の前に置いた書類に目を通し始める。そして、判子を指定の場所に置き、再びボールペンを取った。
「ですよねー。分かってて聞いたんですけど。だいたい室長が『私に手伝ってくれ』って言うわけないですもんねー」
それが彩花にとっても当たり前であるかのように流すと、そのまま手に持っていたポテチを一口分かじり、もぐもぐと食べた。
「その通りだ。やる気がないのに、そんなことを言うはずがないからな」
「あ、分かってました? というより、なんでそんなに書類がたくさんあるんですか? そんなにたくさんの書類が舞い込んでくるほど、仕事しましたっけ?」
その一言に室長の動いていたボールペンの動きが一時的に止まる。そして、その書類の原因である人物――彩花へと目を向ける。普段から鋭い目付き故に普通に接しただけでも怒っているかのような目が、それ以上の鋭さになっていた。
「あ、もしかして――」
彩花もその視線から、山積みになった書類の理由とその原因になったことが自分にあることに気付く。
「その通りだ。全部、彩花の始末書だ。それを室長であるオレが書いてるんだ」
彩花がその書類の内容に気が付いたことを気が付いた室長は、ため息を一つ溢して、怒りを吐き出すと、また手を動かし始める。
その様子から彩花もバツが悪くなったのか、手に持っていたポテチの残りを口に放り込み、お腹の上に置いていたポテチと読んでいた本をテーブルの上に置いた。そして、おもむろに立ち上がると、部屋の隅に置いてあるポットとカップが置いてある場所に移動。
「コーヒーor紅茶。どっちのご気分ですか、ご室長様」
と、少しだけ悪くなった空気を誤魔化すように室長へ尋ねた。
「コーヒー。いつも通り」
ちょっとぶっきらぼうな感じで、その質問に答えると、
「分かりました。私が入れてあげるんですから、味わってくださいよねー」
なんて言いながら、Tバックにセットした室長専用カップにポットからお湯を注ぐ。
が、室長はそれに答えることなく、ボールペンをカリカリと走らせる音を奏でていた。
その音から書類に集中し始めたことに察した彩花は、それ以上室長に話しかけることはなく、静かにTバックを何回か振ってエキスを取り、Tバックを隣にあるゴミ箱に静かに入れる。そして、カップを持って室長に近付くと、
「ここに置いておきますね」
邪魔にならない場所にカップを置く。
「ん」
彩花の言葉に短い返事で答えた。
それを確認した彩花は元居たソファーに戻り、今度はソファーに座り、再び本を手に取った。
その時、室長の机の上に置かれた電話が「プルルル…」とけたましい音を鳴らし始める。
彩花はその電話の音が気になってしまい、電話を見てしまう。
「分かってると思うがまだ出ないぞ」
対して、電話が鳴っているにも関わらず、書類から視線を外さず、必要事項を書いている室長は冷たくそう言い切った。
「分かってますよーだ。けど、音に反応しちゃうのは人間の性みたいなものでしょ?」
「オレ、反応してないけどな」
「……へー、ほんと?」
そんな室長をジト目で見ながら、彩花はニヤニヤと口端を歪ませる。
「何が言いたいんだ?」
口調のおかしさから気が付いたのか、カップをわざわざ左手で取り、それを一口含みながら尋ねると、
「電話が鳴った瞬間、身体がピクッって反応してたけど?」
室長の身体が反射的に反応してしまったことを見逃してなかった彩花がそのことを突っ込んだ。
さすがにそんな細かいことを突っ込まれると思っていなかった室長は、
「こんだけ近いんだ。身体が反応するぐらいのことはあるだろう。そこを突っ込んでどうする」
と、カップを左側へと置くと、再び書類を書き始める。
「そうやってすぐに逃げるんだから。まぁ、別にいいけどー」
彩花はこのことで少し拗ねてしまったのか、再びソファーにうつ伏せに寝転がると、手すりに顎を置くようにして、また本を読み始める。
そのタイミングで電話から『ただいま留守にしております。ご用件がある方は~』と留守電の定番の台詞が発される。
電話の相手はその声が鳴っている最中に電話を切ったらしく、台詞が途中で切られてしまう。
そして、また訪れた無言の空間に耐え切れないかのように、
「またイタ電かな?」
と、リダイヤルが来そうにない電話に対して、迷惑そうに呟く。
その呟きに反応することがない室長。
「ねーねー、室長―」
無視されたことに少しだけ不満をもったかのように彩花が室長に呼びかけると、
「独り言じゃなかったのか」
自分の解釈が間違っていたことを確認し、
「だから言ってるだろ。リダイヤルがなかったらイタ電。またかかってきたら本命。そのための判断をしてるんだろ、職業的な問題で。居留守を使ったせいで、相手側もまたかけてもいいか躊躇ってるんだ。だから、五分ぐらいは――」
何度も口が酸っぱくなるぐらい言ってきた言葉を彩花に言い聞かせようとしたところで、また電話が「プルルル…」と鳴り始める。
「お、どうやら本命みたいだね! ほら、早く出ないと!」
彩花はガバッ! と勢いよく起き上がり、室長を見た。
期待に満ちた目を向けられたことに室長はため息を一つ溢した後、受話器を取り、
「はい、もしもし。こちら、『引きこもり対策委員会』の室長をしている者です。ご用件の程をどうぞ」
と、マニュアル通りに電話越しの相手に答えた。