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僕が君を求めても  作者: 麻柚
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乱れる心

 四月。春休みを終え、新学期が始まった。俺と美香は無事二年になり、海斗は高校に進学した。今日は、二年として登校する初めての日だ。


「はよ、陸」


 窓際から三列目、後ろから二番目に配置された席に着いていた俺にそう挨拶してきたのは、俊也だった。


「お前、同じクラスか」

「そうみたいだな」


 割と顔が広いから誰かしら知り合いと一緒になるだろうと考えていたものの、俊也がいるなら安心だ。別にゼロから友人作りを始めるのでも困りはしないけど、気楽さが違う。


「悠太はどうした?」

「さあ。まだ何も聞いてない」


 一番心配な悠太からの連絡は、まだお互い受けていないらしい。初日早々、撃沈していなければいいが。

 俊也が席に座るのを見届けて、俺は机に突っ伏した。最近、寝不足なのだ。夜になるとなんだかんだ美香のことを考えてしまって。

 新井という彼女に集中すれば俺の感情もすっきりするだろうと思っていたのに、全く逆だった。むしろ悪化して、新井に会ったあの日なんかは、おかえりと言って微笑む美香に目も合わせられなかった。こいつは俺がついさっきまで女を抱いていたことなど知らないのだなと思うと美香が遠くて、ちょっと眩しすぎたのだ。

 本当に自分が嫌になる。最近美香は俺を見ると、寂しそうな顔をするのだ。理由も分からないまま避けられてるんだから当然だ。こんなこともうやめたいのに、美香を前にするとどうしても駄目になる。この先どうすればいいのかも、何も分からない。


「あれ。新学期からもう寝てる子がいる」


 突然降ってきた声に顔を上げると、隣に田嶋が立っていた。


「お前っ、なんでここに」

「僕がここの席だからだよ」


 同じクラス、しかもよりによって隣だとは、いらなすぎる因縁だ。朝日を顔に射しながら微笑んでいる田嶋に、終業式の日の面影はない。


「よろしくね、藤村くん。君とは友達になれそうだよ。まあ仲良くしようじゃない」

「…………」


 胡散くせえ、と思わせるような笑顔を浮かべる奴を、初めて見た気がする。


「そういえば、藤村さんは元気?」


 天板に積もったほこりをティッシュで拭ってから、田嶋は机に鞄を置いた。俺は若干身構えながら、腰掛けた田嶋の方は向かないで答える。


「おかげさまでな」

「そう、良かった。僕春休みにも色んな女の子と遊んでて思ったんだけどさ、藤村さんみたいな子、やっぱり貴重だよね」


 田嶋の声音はこの上なく楽しそうだ。俺は無意識のうちに床を連打していたつま先を、慌てて落ち着ける。


「優しくて純粋だし、君を守ろうとする姿は凄く健気だったよ。あと料理も上手いしね。僕ほんとに狙っちゃおうかな」

「冗談やめろよ」

「本気だって言ったら?」


 その煽るような物言いに思わず田嶋を見れば、相変わらずやつは笑っていた。いつまでも顔に同じ笑みを貼りつけたままでいる姿は、少し不気味だ。俺は田嶋を真っ直ぐに睨んで言い放った。


「殺す」

「はは、物騒だな。まあ冗談だよ」

「当たり前だろ」

「でも、僕じゃなくても他の男が狙うよ。それでも君は余裕でいられるかな」


 先程から田嶋は、まるで俺が美香のことを意識しているかのように語っている。強ち間違ってはいないとはいえ、あくまで俺たちは兄妹だ。それなのにそんな語り方をされるのは気に食わない。……そして、恐ろしい。自分の感情が、田嶋には全部筒抜けになっているのではないか。


「……お前じゃなけりゃいいんだよ、お前じゃなけりゃ」


 それきり、俺たちは口を開かなかった。


 始業式も新担任によるホームルームも何も集中できないまま、俺は一日を終えた。俊也とだらだら帰り支度をしているところに、唐突に悠太が飛び込んでくる。


「陸俊也っ。やっと見つけたっ」

「お前、生きてたのかよ」

「生きてるに決まってんだろ! それより聞いてくれよ!」


 乱れる息を整えてから、悠太が言う。


「俺、俺っ。美香ちゃんと同じクラスだった!」


 ガッツポーズをしながら嬉々としている悠太の言葉に、俊也と二人で顔を見合わせた。俺の机をばしばし叩いて暴れる悠太の顔を覗き込んだのが、田嶋だ。


「へえ、そうなんだ」

「ゲッ、田嶋!?」


 悠太はそれまで田嶋の存在に気が付いていなかったらしい。警戒心を剥き出しにした表情をした。


「君、名前は?」

「……広井、悠太」

「広井くん。君は何組なの?」


 詮索し始めた田嶋に、悠太はムッとした顔で返す。


「なんでお前にそんなこと、」

「いいじゃない。何組なの?」


 田嶋の口調は穏やかだが、しかしどこかに圧があった。気の弱い悠太はあっさりとそれに屈服してしまう。


「さ、三組」

「なるほどね、ありがとう。じゃあ部活だから僕はこれで」


 悠太から聞くだけ聞き出すと、田嶋はすぐに去っていった。教室のドアをくぐり抜けるその後ろ姿に、悠太は唾を吐きかける。


「んだよあいつ!」


 それから、俊也が悠太に「友達はできそうか」と尋ねているのを、俺は横でぼんやりと聞いていた。

 美香が、田嶋とクラスが離れたのはとりあえずよかった。だがこの先も、あいつの行動には注意する必要がありそうだ。

 それに、美香はこれからだって色んな男に狙われるだろう。穏やかなやつらばかりならいいが、田嶋並みか、あいつ以上に強引な野郎が現れたら。美香はきっと、押しきられて傷付けられる。もし、そうなったら。

 美香のことは放っておけない。それは無論美香が好きだからとかそんなのではなく、兄として心配だから。そうに違いない。そうであって、ほしい。


 *


 美香と海斗との夕食後、部屋で寝転がっていた俺だったが、ノックの音を聞いて体を起こした。ドアを開けると、美香がノートとプリントを持って立っている。


「……どうした?」

「明日、実力テストあるでしょう? それで数学を教えてもらいたくて」


 それはテスト前の恒例だった。数学が苦手な美香に俺が、英語が苦手な俺に美香が、という風に互いに教え合うのだ。ある時などは明け方まで、根を上げそうになりながら奮闘したこともある。

 でも今の俺には、美香を部屋に入れる勇気がなかった。まして夜に、なんて。


「実力テストなんて成績に関係ねえだろ。んなもんやる必要ねえよ」

「そういうわけにはいかないよ。あまり酷い点数は取りたくないし」


 いいでしょう? と粘る美香に負け、渋々と部屋に招き入れた。美香に丸いクッションを差し投げて、俺はベッドに腰掛け足を組む。


「さっさとやれ」

「もう。教えてくれる気ないでしょう」

「あるわけねえだろうが。グダグダ言わずやれよ」


 そしてできるだけ早く出ていってほしい。そんな本音は、飲み込んだ。


「解き終わったら見てやるから言え。それまで寝る」


 美香に背を向けて寝転がる。目を閉じると美香のシャーペンを走らせる音がいい子守唄になって、俺はすぐにその意識を手放した。


 *


 誰かに呼びかけられた気がして、ハッと目を覚ました。体を起こすと、ベッドの端に美香が座っている。思わず目を見開いた。


「なんでお前がここに?」

「もう、なに寝呆けてるの? 問題解き終わったよ」


 問題。その単語で全てを思い出した。数学を教えてほしいと頼んできた美香を置いたまま、寝てしまっていたことを。

 美香は何故か、じっと俺を見つめていた。気まずいものを感じて視線をそらす。


「……なんだよ」


 美香がぐっと、俺に顔を寄せた。あ、デジャヴ、と思う。俺はこの光景を知っていた。

 夢だ。美香に泣きながら告白され、俺がそれを受け入れた、あの夢。あれと状況が恐ろしいほどよく似ている。

 夢では確か、この後――……。


「ねえ陸」


 俺を好きだ、と、そう言ったんだ。


「顔赤いよ」


 告白される準備なんてできてねぇぞ、と思いきつく目を閉じていたら、予想もしなかった言葉をかけられた。何か言おうとする前に美香の両手が伸びてきて、俺の頬をふわりと包む。


「どうしたの? 熱はない?」


 美香が手をするりと移動させて、俺の額に当てた。上目遣いで探るように俺を見る瞳は、どこか不安げな色を宿している。俺は体を固くしてしまった。顔が赤いのも熱いのも、熱のせいなんかじゃない。


「……さ、触るなよ」


 美香との距離が近いから。美香が俺に触れてるから。だから、熱いんだ。

 美香の手を退けると、クッションの上に戻るよう促した。俺もベッドを下りてカーペットの上で胡座をかく。


「で。どれだ」


 動揺を悟られまいと、意図的に冷めた声を出して問うた。


「これだよ。特に相似と二次関数のところがよく分かんなくて」

「へいへい」


 美香の答案が書かれたプリントと、解答用紙を照らし合わせる。確かに単純な計算問題はほとんど正解していたが、図形やグラフの問題には誤答が目立った。ざっくりと答えにだけマルバツを付け、美香にプリントを返す。


「展開や因数分解は大丈夫だな。じゃあ例えばこの問題。何で間違えたかっつーとな」


 それから、誤答に一つ一つチェックを入れていく。図形の捉え方が違うとか式の立て方が違うとか、指摘をするたびに美香は頷いたり解き直したりしていた。


「じゃあこれは、こうすればよかったのかな?」

「まあそうだな」

「ありがとう。最後の問題もお願いしていい?」


 そう言いながら顔を覗かれ、初めて美香が俺の隣にいたことに気が付いた。さっきまで向かい合って座っていたはずなのに、いつの間に。

 俺はまた美香を意識し始めてしまって、体ごと反対側に背けて問題に目を落とした。そしてそれが、解き方が全然見えてこない応用問題であったことを知る。


「わ、悪い。分かんねえ俺にも」


 美香は目を丸くした。視線を俺と答案に、交互に動かしている。


「陸にも?」

「うっせ、悪りィかよ!」

「そ、そんな! 教えてもらってるのに悪いなんて思わないよ。……でも、そっか。じゃあ私に分かるわけないよね」


 少し笑った美香が、プリントを仕舞いノートを閉じる。閉じる瞬間、ふわっと風が起きて俺に吹きつけた。ノートからも、微かに美香の香りがした。


「お前、悠太と同じクラスなんだってな」


 勉強終わったんなら部屋に戻れ。そう言おうとしたのに、全く違う言葉が口を突いて出た。最近は美香と過ごす時間がめっきり減っていたから、もう少し一緒にいたいと、思ってしまったのかもしれない。減っていたも何も、全部俺のせいだけど。


「うん。席も前後でね」

「それ去年の俺じゃねぇか」


 他愛ない会話もどこか心地良い。この感覚は、美香の隣にいる時にしか得られない。


「あいつが馬鹿やらかしても許してやれよ。ほんと、どうしようもねえ馬鹿だから」

「そんなことないよ。知ってる子がいると私も心強いし」

「……いや、あいつは馬鹿だ」


 美香がすぐ後ろにいるとあれば、あいつはきっと変な行動ばっかりするはずだ。やけに張り切って授業を受けるとか、それで空回って失敗するとか。簡単に想像できる。

 そういえば、悠太は美香をどう思ってるのか、正確なところがまだ訊けていない。単なる憧れなのか、それとも、本気なのか。憧れだと言われても納得できるし、もし本気だったら。

 悠太に本気だと言われたら、俺は心中穏やかでいられるだろうか。正直、もう自信がない。


「そう言う陸は田嶋くんと一緒なんだよね?」

「……は?」


 まだ話した覚えのないそれを指摘されて、胸が騒めく。なんだか、嫌な予感がした。


「誰に聞いた」


 美香を凝視しながら問えば、ハッとしたように目をそらされた。少しの沈黙の後で、美香が恐々、といったように口を開く。


「た、田嶋くんに。メールで……」

「田嶋の、メール?」


 どうして美香がそんなもん知ってんだ。いや、今更そんなことどうでもいい。どうせ委員会が同じになった時にでも交換したんだろう。


「消せよ」


 問題は、あの終業式の後にも二人がやり取りを続けていたことだ。他でもない田嶋に、もっと警戒心を持てと注意されたくせに。


「アドレスも今までのメールも、全部消せ。今ここで」


 命令するように、語尾が強くなってしまった。ノートの上に手を置いていた美香は、少し悲しそうな顔をして膝の上へとそれを移動させた。


「どうして? 田嶋くんは私にやったこと謝ってくれたし……もう、普通の友達だから」


 馬鹿なんだろうか。友達だと、そんなこと考えてんのはきっとお前だけだ。田嶋がどういう目でお前を見てるかなんて分かったもんじゃない。それなのに、それなのになんで、美香はこうも簡単に人を信用してしまうんだろうか。


「田嶋くんだって、陸にあんなことしたけど、それでも陸が謝ったらすぐに許してくれたじゃない。いつまでもいがみ合っていたくないよ」

「バカじゃねえの」


 真っ直ぐに言い放つ美香に、苛々した。

 お前は相手に謝られたら、どんなことをされても全てを許すのか。だから甘く見られて嫌がらせされたり殴られたりするんだよ。お前が馬鹿みたいにお人好しだから、お前自身が傷付くんだ。田嶋が本気を出したら、お前は抵抗できんのかよ。


「お前が消さねえなら俺が消してやる」


 そう言って、時計代わりにペンケースの横に置かれていた美香の携帯を取った。画面をスライドしロックを解除する。以前美香が暗証番号を入力する姿を見ていたから、あっという間に解除できた。


「陸、返して!」


 手を伸ばし、美香が俺に触れてくる。それだけで、こんな時でさえ腹の奥底がきゅっとなる自分に腹が立って、美香を振り払った。


「陸っ、」

「黙ってろよ!」


 怒鳴ると、美香はぐっと口を噤んだ。その隙にアドレスも履歴も、田嶋の記録を目につく限り全て削除する。そうしてから美香に携帯を投げ返した。


「もうあいつとやり取りすんな」

「…………」

「聞いてんのかよ!」


 下を向いたままの美香を無理矢理此方に向かせる。美香は何かを堪えるように、唇を噛みしめていた。

 なんだよ。泣くのか。横暴だと言いたいのか。お前のことを心配してやっている俺を、否定するつもりなのか。


「……田嶋くんが、原因なの」


 消え入りそうな声で美香が呟く。


「は?」

「最近陸が私を避けてるのって、田嶋くんのことが関係してるの?」


 俺が美香を避けていること。それについて美香が言及したのは、今が初めてだった。声を震わせている美香は、恐らくずっと悩んでいたんだろう。

 田嶋が関係している。間接的にはそうかもしれない。でも、それは核心を突いてはいない。


「関係ねえよ」

「だったら、だったらどうして。どうして私を避けるの?」


 美香が柔らかい手のひらで俺の上腕を握った。

 本当のことなんて、「女」としてのお前に性欲をぶつけたくなる瞬間があるからだなんて、言えるわけねえだろ。


「勉強終わったなら出てけよ」

「待って、教えてっ」

「いいから出てけ!」


 美香の手を払い、代わりにその腕を掴んで立ち上がらせた。美香が持ち込んだ道具を全て押しつけて、部屋の外に突き飛ばす。廊下の壁に背中を激突させた美香は、衝撃からか苦しそうに眉間を歪めた。どさどさっと、美香の手元からノートやペンケースが滑り落ちる。


「お願い陸っ」

「うっせえんだよ」

「陸っ!」


 ドアを閉めようとした時、美香の両手が俺の右腕を掴んだ。


「教えて、私に非があるなら直すから」


 触れられている箇所が熱を帯びていく。そこからじわじわと、体中に広がっていく感覚がした。


「触るなって言ってんだろ!」


 堪らなくなって、美香を振りほどく。

 なんでだよ。ついこの前まで肩を抱いても胸に抱き寄せても、何も感じやしなかったのに。今は腕に触れられるだけでこんなにも息苦しい。自分の中の卑しい感情が膨れ上がって、抑えきれなくなる。

 なあ、お前は本当に教えてほしいのか。こんなことを考えている俺の姿を、本当に垣間見たいのか。

 お前のそばにいると理性的でいられなくなる、と。お前に女としての魅力を感じていると言ったら、お前はどんな顔をする?


「どうかしたのか?」


 不意に、二つ隣の部屋から海斗が顔を出した。寝ぼけ眼をこすっているところからすると、俺たちの騒ぎに叩き起こされたらしい。


「なんでもねーよ」


 そう吐き捨て、思いきりドアを閉めた。そのまま背中を凭れていると、ドア越しに微かに美香と海斗の声が聞こえた。

 美香は海斗に俺とのことを相談するだろうか。そして海斗は美香を勇気づけて、寄り添って。そんな光景を想像して嫉妬している自分に気付き、苛立ちは募るばかりだった。


「くそっ!」


 先程まで美香が座っていたクッションを蹴り飛ばす。跳ね上がったクッションは壁に激突してベッドの上に落ちた。

 田嶋にならまだしも、悠太にも、嫉妬し得ない存在であるはずの海斗に対してでさえ、余裕をなくしてしまう。俺以外の男が美香を見るたびに、近付くたびに、俺は。

 もう、認めろと言うのか。新井がいながら、美香を好きであることを。妹を好きであることを。薄々気付いていながら、ずっと否定しかき消そうとしてきた想いを。認めたって、どうにもならないものなのに。

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