葛藤
春休みがやってきた。といっても二週間ほどすれば、またすぐに新学期が始まる。
「ねえ陸。夕飯はどんなのがいい?」
「別に。なんでも」
「そ、そっか」
リビングで、俺はソファに座ってテレビを観ていて、美香は家計簿をつけている時だった。ソファの後ろにあるテーブルの美香を見もせずに答えると、美香は気まずそうに引き下がる。ここ最近ずっと続いている、俺たちの妙な会話。
終業式以来、俺は美香を少し避けていた。頭の整理がつかないからだった。俺の中に存在する、美香を「女」として見てしまう自分はあれからも度々現れる。それを排除しようとするのに、必死だったのだ。
幸い、海斗はこの状態をいつもの喧嘩だろうと認識しているらしい。美香にとっては原因がまるで分からない、出口の見えない喧嘩だろうけど。
「夕飯まで寝る」
「分かった。できたら呼びに行くね」
俺の態度に関わらず、美香はいつも通り笑って接してくれようとする。それが少し、苦しかった。
部屋で、ベッドに大の字になる。ぼんやりと白い天井を見つめていても、俺の気分が晴れることはなかった。諦めて目を閉じる。美香の笑った顔とか困った顔とか、色んな顔がぶわっと脳裏に襲ってきて、すっと消えた。
「……妹、だ」
小五の時突然できて、それからずっと一緒にいた俺の妹。そんなやつに今更、変な感情を抱くわけがない。一時の気の迷いというか、むしろ美香を避けたりするからこそ余計に意識してしまうのかもしれない。何事もなかったかのように振舞えば、いつもの感覚を取り戻せるはずだ。キスをしたいだとか……そんなことも、考えなくなるはずだ。
「――陸」
突然の呼びかけにハッとして起き上がると、部屋の入口の前にいつの間にか美香が立っていた。
「み、美香?」
「ねえ、なんで私を避けるの?」
泣きそうな顔で言う美香に、胸が締めつけられる。美香の紺色のスカートも、遠慮がちにたゆたっていた。
「べ、別に避けてなんか、」
「避けてるよ。私、何かしちゃった?」
美香は此方に歩み寄ってきて、ベッドの縁に座った。それから顔をぐっと近付けられる。美香の香りと潤んだ瞳が急に俺に迫ってきて、俺は反射的に少し頭を引いてしまった。俺の反応に、美香はまたしおらしく視線を落とす。美香が嫌だからそんな反応をした、と思い込まれてしまったのかもしれない。
「陸に避けられるのは、嫌だよ」
「…………」
「私、陸のこと……好きだから」
その言葉で、俺は美香から思いきり目を背けてしまった。すぐそばの壁を睨みながら、眉根を寄せる。
好き。そんな言葉、いらないと思った。美香の「好き」は家族としての「好き」で、それ以上の意味は持たない。それならいっそ、「好き」なんて言ってほしくない。
そこでまた我に返る。なに考えてんだよ俺は。美香は妹だ。家族だ。それを超えるような感情なんて持ち得ない相手だ。ついこの間まで、ずっとそうだったろ。
「陸は、どう?」
美香が、俺の頰に触れる。その指先はびっくりするほど冷たくて、俺はハッとして美香を見返した。
「私のこと、嫌い?」
勢いよく首を横に振る。
「好きに決まってんだろっ」
嫌いなはずがない。嫌う余地がない。ただ俺の「好き」がどういう性質のものなのか、それが分からなくて何もかも、上手くいかないんだ。
「……よかった」
そう呟いた美香の瞳から涙が一筋、つうと落ちた。表情が切ないままだったから、それが安心感からきたものでないことはすぐに分かった。俺は目の前で頰を濡らし続けている美香に何もできないで、シーツに手のひらを押しつけている。
「でもね。きっと私と陸の好きは違う」
そう言った美香が、ばっと俺の胸に顔をうずめて服を握りしめた。
「私はっ、私は陸を――兄妹以上に、思ってるの」
今度こそ、頭が真っ白になった。嗚咽を漏らす美香の脳天を見たまま、硬直してしまう。
兄妹以上。その言葉が意味することが分からなくて――いや、違う。分からないふりをしていたいだけだ、俺は。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい」
俺の胸の中で泣きじゃくる美香の肩は、しゃくりあげるのに合わせて微かに上下していた。俺は美香の背中に腕を回しかけて、やめる。ここで縛りつけたら、俺はもう本当に美香を離せなくなる気がした。
答えなんて、もう出てるのかもしれない。
「……ごめんね、困らせて」
俺にすがってただ震えていた美香だけど、しばらくすると落ち着いたのかゆっくりと顔を上げて俺を見た。指先で目尻を拭いながら、美香は無理矢理に笑顔を作っていた。
「忘れて。本当にごめんなさい」
その、涙を溜める瞼と上気した頰を見た瞬間、俺は美香の後頭部を掴んで唇を奪っていた。駄目だとかやめろとか、そんなこと考える隙すらなく、ただただ強く美香を「欲しい」と思った。ちゃんと捉えておかないとそのまま薄く細くなって、いなくなってしまう気がした。
俺は汚い。でも俺を汚くしたのは、美香だ。
舌を挿入した直後、美香は俺の胸板を突き飛ばして拒絶した。呆然と、でも少し怒ったように眉を震わせて、俺を睨む。
「や、めて、よ」
再び美香を引き寄せようとした俺の手を振り払って、美香は立ち上がった。
「からかわないでよ!」
身を翻して部屋を出ていこうとドアノブに手をかけた美香の脇に、背後から挟み込むようにして手をついた。美香の耳元に唇を近付けた俺を、美香は今にもまた泣き出しそうな表情をして見上げる。
「からかってねえよ」
美香の肩を引いて、体ごと俺の方へ向けた。美香は俺から目をそらして、俯く。
「……だって、そんなの。信じられない」
ニットの裾をぎゅっと掴んで震えている美香の、頤を思いきり上向けて唇を押しつける。美香の顔は本当に小さくて、俺の両手で簡単に包み込んでしまえた。涙の筋をかき消すように、親指で湿った線を強くこすりつける。
触れたい。美香の最深まで、最奥まで手を突き入れてぐちゃぐちゃに痕を刻みつけたい。それで美香が俺のものになるなら、なんでもする。でもこれはただの性欲じゃない。
「――足りない」
俺の唾液が糸を引く美香の厚い唇の隙間から、声が漏れる。俺を求める、声が。
「足りないよ、陸」
それだけで充分だった。俺は美香の体を抱くようにしてベッドに寝かせ、その上に馬乗りになった。黒く艶めく髪の先を枕に広げた美香の腕が、俺の首に回される。俺は静かに目を閉じて自分の、そして美香の鼓動を、聞いた。
*
で、夢オチだった。
目を開けた瞬間、美香の息遣いも気配も熱もなくなって、俺はたった一人ベッドに横たわっていた。美香が入ってきたはずの部屋のドアには鍵がかかっていて、外からの侵入は不可能であることも夢オチを裏づけている。
「…………」
腰から起き上がって、さりげなく下半身を確認する。その不自然な盛り上がりを見せつけられて、俺は膝の間に頭をうずめてうなだれた。何が「これは性欲じゃない」だよ、夢の中の俺。
やけくそになって部屋を出た。夢を見るくらい長々と寝てたんなら夕飯の準備も終わってる頃合いかもしれない、と思って。
階下へ降りると、リビングからはいつの間に帰ってきたのか、出かけていたはずの海斗の声が漏れていた。なんとなく入れなくて、ドア越しに聞く。
「それでさっ、練習を見学させてもらえただけでも凄えのに、監督に参加してみないかって言われたんだ!」
「本当に? どうだった?」
「やっぱ中学とは比べ物にならないくらいハードだった。でも超楽しいよ!」
「そう。よかった」
今日見学に行った、高校のサッカー部の話だろう。海斗の念願のサッカー部は、春休みからもう入部希望者を受付けているらしい。
「先輩たちもいい人ばっかでさ、俺やっぱり諦めないでよかったよ」
「海斗が頑張れるように、できる限りの応援はするから」
「ありがと姉貴。俺姉貴のこと大好きだ」
大好き。海斗の、何気なさすぎる発言だった。兄弟としての「好き」。当たり前に、俺たちが抱いてきた「好き」。
「もう、調子いいこと言うんだから」
「ほんとにそう思ってっからな俺!」
「はいはい」
――兄妹以上に、思ってるの。
夢の中の美香と、今海斗の前で笑っているだろう美香。本物の美香は後者で、そして本物の美香は俺を、兄貴だと思っている。
*
「いらっしゃい陸!」
春休み中に来てくれないか、と新井の家に招待された。指定日の今日は、新井の両親がいないらしい。
新井の部屋はカーテンからクッションから、全体が赤系で統一されていた。派手だが、居心地は悪くない。
「案外綺麗にしてんだな」
「失礼なっ。ま、陸が来るからねー。気合入れて掃除したよ」
コーラを出され、ローテーブルの前に座らされる。それから新井が取り出してきたのは数学の参考書だった。
「あは。実は憧れてたんだよねー彼氏に勉強教えてもらうってシチュエーション!」
今まで付き合った男バカばっかりだったからさー、と言って新井が机に本やらノートやらを広げ始めた。
「俺だって別に頭よくねえけど」
「でも陸、理数めっちゃ得意じゃん。教えてよ」
新井が俺に突き出したノートを覗き込む。そこには丸っこくやたらと小さい文字が、バラバラに散らばって走り書きされていた。授業用のノートらしいが、もはやこれを「ノート」と呼んでいいか分からない、メモですらない、といった感じの代物である。
「おい、なんだこれ」
「いやあ、授業中居眠りしまくってたらこうなったよね」
「それでできるようになるわけねえだろ……」
まあ文句を言ってても仕方ない。俺が参考書を引き寄せると、新井はにこにことして俺の手の甲をシャーペンでぐさぐさ刺した。
「どこからだ?」
「んー、因数分解とかあ?」
「お前っ、それ超最初の方だぞ」
「あははー。いいじゃん、教えてよ陸先生!」
新井はにへらと笑って敬礼のポーズを取った。どうやら勉強する気はないらしい。
それからずっと因数分解のやり方や公式を説明したけど、案の定新井は唇を尖らせながらつまらなげに聞いていた。無意味に消しゴムをかけては、黒いカスを集めて丸めている。それにも飽きたのか、やがて新井はシャーペンを放り投げた。
「ごめん、やっぱイミフメーだわ」
でしょうね、という感じなので溜息は出ない。正面に座っていた新井はハイハイで俺の隣にやってきて、襟首に巻きついてきた。
「ね、いちゃいちゃしよ」
新井の背中に手を回す。新井はごろごろうなりながら、俺の胸に額をこすりつける。
「陸なんかいー匂いする」
「いい匂い?」
「んー、洗剤? 柔軟剤? よく分かんないけど、そんな感じのいい匂いするよ」
新井がもっと、押し倒す勢いで俺に抱きついてきたので、俺は後ろにあったベッドに凭れた。
「キスして、陸」
じっと俺を見据えた新井に、目を閉じてキスを落とした。何度か角度を変えながら重ね合って、舌を入れる。そのまま自然に、新井を床に倒した。目を開ける、新井の瞳は美香と違って黒々と大きい。
美香をして「大人なんだね」と言わしめたキス。「私もいつかは」、と言わせたキス。美香もいつかはこんな風に、俺の知らない男に押し倒されて唇を重ねる。そしてその先も。美香の全部を知るのは兄貴の俺じゃなくて、赤の他人の、ぽっと出の男だ。
――足りないよ、陸。
そんなこと、許せない。
「いたっ」
ハッとした。慌てて唇を離すと、俺の下にいる新井が人差し指で自分の舌を撫でる。
「ちょっともー、歯ァ立てないでよ」
「……ごめん」
新井の毛先を梳きながら、さっきまで自分が考えていたことを思い返して背筋が寒くなる。俺は美香に、妹に、劣情を向けていた。新井が目の前にいるのに。
舌先を叩いていた新井は、俺を見上げてむんと口の端を上げた。
「別に謝らなくてもいいけどさ」
新井が今度は自分からキスをしてきて、俺の耳元に囁いた。
「ね。……しよ」
俺はもう一度新井の体を倒し、キスをした。先程考えてしまったことを忘れられるくらいに、罪悪感を拭い去るくらいに。そうして、新井の体を抱きしめた。