真相、戸惑い
「あの、ずっと前から好きでした!」
放課後、女子に呼び出されてされることといえば、決まっている。
「……わりぃけど、俺彼女いるから」
目の前で真っ赤になっていた名前も知らない女子は、俺の言葉に泣きそうな顔をした。どうか泣くのだけはやめてほしい、本当に。
大人しそうに見えるが、地味な印象はない。いたって普通の女子だが、こういうタイプは苦手だ。新井などのように、男子にも構わずベタベタするようなやつらとは少し違う。そのぶん俺も真剣に向き合わなければいけない気がして、俺にはそういう自信がなかった。だからって新井タイプと真剣に付き合ってないわけじゃないけど。
「……そ、そうですよね。藤村くんにいないはずがないし、い、妹さんくらい可愛くないと、私なんかじゃ釣り合いませんよね」
「いや、別にそこまでは」
「ごめんなさい! じゃあ!」
その女子は、早口で捲し立てて去っていってしまった。俺は呆然として取り残される。
「……美香なんて、関係ねえだろ」
妹さんくらい可愛くないと、なんて。あいつは妹なんだ。それなのにわざわざ、自分と美香を比較する必要なんてないだろうに。
……美香、か。
田嶋に掴みかかったあの日以来、俺は美香を直視することができなくなってしまっていた。あいつを見ていると、思い出してしまうのだ。美香を妹以上に思っているのか、と言った田嶋の言葉を。
「りーくっ」
突然の声に振り向けば、そこには新井の姿があった。手を後ろに組んで、笑っている。
「あ、新井。見てたのか?」
「ごめんねえ。でも陸がちゃんと断ってくれてよかった」
「当たり前だろ……」
さすがに、そこまで節操ない男じゃない。これでも浮気はしたことがないんだ。
「うふふ。ねえキスしよ?」
「は、」
言葉を返す前に、唇を押し当てられた。頭を押さえられて身動きの取れなくなった俺は、新井の背中に腕を回す。息継ぎのために一瞬唇は離れ、その後舌を入れた深いキスをした。ここが校舎裏の寂れた喫煙所でよかった、と思う。人に見られる心配もない。
「ん、ふ……」
しばらくして唇が離れる。新井は悪戯っぽく笑っていた。
「あーあ、別の子に告白されたあとその場所で彼女とキスするなんてねー?」
「新井が仕掛けてきたんだろ」
「ノリノリだったくせに」
新井に言われて、目を逸らした。今度は耳元で囁かれる。
「ね、そろそろいいでしょ。今日親帰ってくるの遅いんだあ。だからあたしの家で……ね?」
何を誘われているのかは明白だった。俺にも人並みの欲はあるから、いつもならそれにも乗っていたかもしれない。でも今は、そんな気分になれなかった。美香のことが気になって、集中できそうにないし。
「悪いけど今日は無理」
「えー! じゃあいつならいいのお?」
「ん、明後日」
「終業式じゃん! 分かった、明後日絶対ね!」
適当な提案が、どうやら決定事項となってしまったらしい。まあ明後日までにはきっと、この漠然とした倦怠感も消えているはず、だ。いやむしろ、無理矢理にでも消さないといけない。
新井と適当に寄り道をしつつ帰路を辿りながら、俺は気が重かった。帰宅すれば、また美香と顔を合わせなきゃいけない。当たり前すぎるそんなことを、避けたい、と思う自分がいた。でもそれは不可能で、家に着きリビングに入れば、正座をして洗濯物を畳んでいた美香と目が合ってしまった。どきりとして、慌ててそらす。
「……ただいま」
「あ、お、おかえり!」
ん? と思う。美香は靴下を丸めながらほんのり頰を赤くして、そわそわしていた。違和感がありすぎて、俺は尋ねる。
「なんだ。なんかあったのか?」
「えっ。い、いや、えっと、」
「だからなんだよ」
「……ごめんなさい!」
突然がばっと頭を下げられて、俺は度肝を抜かれた。意味が分からない。
「な、なんだよ急に」
「そ、その。見るつもりはなかったんだけど、掃除当番でゴミ出しする時に喫煙所の脇を通って」
喫煙所、といえば、まさか。
「り、陸が彼女さんとキ、キスしてるところ、見ちゃって。ほ、ほんとに、見るつもりはなかったの」
露骨な溜息が出た。よりにもよって、見られたくない方を見られたのか。告白されたところだったらまだ、まだよかったのに。
美香が小さくなってもじもじしているのを見ていたら、なんだか俺も恥ずかしくなってきて顔に熱が集まった。直視できなくなって、美香から目を背ける。
「忘れろ、あんなもの」
「う、うん」
沈黙。居たたまれなくなって自分の部屋に逃げようと足を運びかけた時、美香が言った。
「で、でもびっくりした。大人なんだね、陸って」
美香は少し俯きながら唇に手を当て、熱っぽい瞳をしていた。どっと、俺の鼓動が速まる。
「私も、いつかは……」
いつかは。美香も誰かのものになって、その唇を捧げる。唇どころか、体だって。今はまだ清純な美香も、いつかは誰かに汚されるのだ。それは絶対に、避けては通れないこと。
「――だったら、試してみるか?」
美香の前にしゃがみ込んだ俺は、美香の顎を掴んで持ち上げていた。水気の多い美香の瞳が、俺を捉える。
「キス。……試してみるか?」
一応問いかけながら、でも俺は本当に、そうするつもりでいた。美香の唇に焦点を合わせて、自分のそれを押しつけようとしていた。見ず知らずの男にいつの間にか奪われるくらいならいっそ、俺のものにしたい、って。
「り、陸?」
きょとんとした目で見つめられ、そこでようやくハッとした。自分の思考を振り返って、動揺する。
「ば、馬鹿。冗談に決まってんだろうが」
「ま、またからかったの……⁉︎」
「一々本気にしすぎだろ。バッカじゃねえの」
「ほ、ほんとにびっくりしたのに!」
真っ赤になった美香を置いて、俺はそそくさとリビングを出た。階段に足をかけながら、動悸を整える。
からかった、わけじゃなかった。一瞬俺は本気で、美香にキスしようとしていたのだ。
「なに、やってんだよ」
他の男に奪われるくらいなら、とか。まるで俺が、美香を意識してるみたいじゃないか。そんなことありえない。だって俺は、美香の兄貴なんだから。
邪念を払うように頭を振った。やはり田嶋の一件以来おかしくなっている。忘れろ、あんな言葉。
*
結局、頭の中を整理出来ないまま終業式当日を迎えた。放課後になっても、今日ばかりはダラダラと教室に残るやつが多い。同じクラスになれるといいね、なんて言い合ってる女子の会話が聞こえる。
「どうする、もう二年だとよ。早すぎ」
「留年しなくてよかったな、悠太」
「うるせえよ陸っ」
俺に向かって飛んできた悠太の拳を受け流す。俊也は頬杖をついて俺たちの様子を眺めていたが、ふと口を開いた。
「悠太は文系なんだよな」
「ああそうだけど。理数なんて俺の手に負えねえし」
「……クラス、確実に離れるな」
俺も俊也も、理系クラスを選択した。文系の悠太とは確かに離れてしまう。
「ばっ、馬鹿やろ! そんなの別にどうってこと、」
言いかけた悠太は、しかし頭を抱えてしまった。
「ううっ、また一からやり直しかよお」
「お前友達作んの下手だしな」
「うるせえって! いいよ、お前らのところに突撃しに行くから!」
「迷惑だっつうの。なあ俊也」
「ああ」
「ひでえっ。この一年間はなんだったんだよ!」
俊也と顔を見合わせ、笑う。悠太をからかうのも結構楽しいのだ。からかいをからかいだと思えていないところは、少し美香に似ている。
「おい陸!」
悠太の嘆きをげらげら笑い飛ばしていたら、ふと声をかけられた。振り返るとクラスメイトの金山がいて、俺は身構える。こいつが俺に声をかけるのは、大抵女絡みの時だ。
「なんだよ」
「藤村くーん、お願いがあるんですけどお」
「やめろ、キモいから」
「はいはい。週末咲丘女子との合コンあるんだけどさ、お前も来てくんね?」
咲ヶ丘女子高校――通称咲丘女子は小中高とエスカレーター式の、典型的なお嬢様学校だ。だが勿論そこにいる全員が全員お嬢様気質な人間ではなく、こんな風に合コンをするような連中もいる。そして咲丘女子の彼女をゲットすることは、この辺の男子高生の憧れの的だ。
「なんで俺だよ。彼女いるから無理」
「いいだろ別に合コンくらい。相手方が陸も呼べってうるせえんだよ」
「よくねえし」
「かー、お前変なとこ律儀だよなあ。ヤリまくってるくせに」
「勝手なこと言うのやめろっつの!」
俺がいると女子が皆俺に流れるからという理由で合コンには滅多に呼ばれないが、たまにこうして相手側から俺を呼べと要求されることもあるらしい。以前、何故会ったこともない人間が俺を知っているのか、と誰かに訊いたら、藤村兄妹の名はこの辺では割と有名なのだと教えられた。
「悠太でいいだろ。彼女募集中だし」
「はあ⁉︎ お、俺は合コンとかそういうの無理だしっ」
「そうだ。広井と陸じゃスペックの差で相手方に殺される!」
「金山くん……堂々と酷いこと言うんだね、君」
ショックを受けた悠太を尻目に金山は尚も食い下がったが、それをどうにか追い払うと、どっと疲れが湧いてきた。
「悠太、合コン断り続けてたら本当に彼女出来ないぞ」
「俊也は人のこと言えねえだろ。いいし、俺はずっと美香ちゃんを追いかけてるから!」
「藤村だってずっと彼氏作らないとは限らねえのに?」
俊也の言葉は、真理だった。いつ出来てもおかしくないし、むしろ今までいなかったことの方が不思議なくらいなのだ。分かっているのに、そして俺は「兄貴」なのに、胸が騒つく。意味不明だ。
「陸っ。帰ろ」
その時、新井が俺の肩を叩いた。慌てて頷いて立ち上がる。悠太と俊也も、帰るか、と言って去っていった。この後は約束通り、新井の家に行くことになっている。
教室を一歩出た時、携帯が鳴った。見れば、美香からのメールだった。文面を開いて、携帯を持つ手が震える。新井が目をすがめた。
「なに? どうかしたの?」
「悪い。やっぱまた今度にしてくれ」
「はあ?」
「急用が出来た。ほんとに悪い!」
新井を置いて、俺は人でごった返す廊下を西の方角へと走り出した。ちょっと、と新井が叫ぶ声が聞こえたものの、構っていられない。
――この前のところにいるから。早く来た方がいいんじゃないかな。
あきらかに美香の文字じゃない。こんな書き方をする人間は、一人しか思い当たらなかった。この前の、というのは、恐らく。
何度も人にぶつかりそうになりながら、俺は階段を駆け上がった。
*
「あ、来た」
屋上へと続く階段の踊り場。そこには予想していた通り、美香と――田嶋の姿があった。美香は青い顔をして体を震わせている。
「田嶋……!」
「あはは、息切れしてる。やっぱりこの子は、君にとって余程大切な妹なんだね」
そう言って、田嶋が美香の肩を抱く。汚らわしいその手で美香に触れていることが許せず、俺は無理矢理に田嶋を美香から引き剥がした。田嶋は肩をすくめる。
「あらあら。必死だね」
「ふざけんな! 美香に何をした?」
「何もしてないよ。ね、藤村さん」
投げかけられ、美香は恐々と頷いていた。俺は展開が読めず、とりあえず乱れた呼吸を直していた。
「ちょっと藤村くんと連絡を取りたくて携帯を借りただけさ」
「は、」
「……僕ね」
次の瞬間、俺は背後の壁に向かって突き飛ばされた。思わぬ衝撃に耐えられず、そのまま壁に沿って体が崩れ落ちる。美香がひゅっと息を呑む音が聞こえた。
「ずっと君が気に食わなかったんだ。僕って意外と執念深いみたい」
俺を見下ろしている田嶋の目は、以前俺がここへ連れられた時に見たものと同じ冷たさを戴いていた。言葉を返す前に、腹部に蹴りを入れられる。痛みのあまり、呻き声すら出なかった。
「君さあ、僕のこと全然覚えてなかったでしょ? ほんと頭に来るよね、君って人は」
「……いっ、一体、なんのことだ、」
悠太と俊也との帰り道不意に声をかけられたあの日以前にも、俺は田嶋と関わっていたのか? 脳内を引っ掻き回しても、全く思い出せない。
「なんのこと? ふざけないでよ。球技大会のあの時のこと、忘れたとは言わせない」
球技大会。そういえばあの日、去り際に田嶋がそんなことを言った気がする。球技大会での俺がかっこよかった、と。
「バスケ部門だよ。学年予選の決勝戦が終わって。君、僕になんて言った?」
バスケ部門といえば、俺が出場していたものだ。その、予選の決勝戦。その時は確か俺のクラスが勝って、それから。必死に思い返そうと頭を働かせたものの、腹に入れられた蹴りが響いてそれ以上分からなかった。そもそも、田嶋があの場にいた記憶などない。
「……思い出せないんだ。君、言ったでしょ。あいつバスケ部員のくせに大したことなかったなって。僕にも聞こえたよ」
知らねえよ、と言い返しかけてから、心当たりがあることに愕然とした。確かに俺は、そういう発言をした。相手チーム唯一のバスケ部員に向かって。でもそいつと目の前の田嶋が、どうしても結びつかなかった。
球技大会の時対戦した「田嶋」は、実力のない平部員という感じだった。今の、スタメン入りを果たすエース、からは想像もつかないような。顔だって試合中はじっくり見ることもできなかったし、でも確か眼鏡をかけて髪はもっとボサボサしていた気がする。
「ふざけんな」
吐き捨てて、田嶋はもう一度俺を蹴り飛ばす。それは鳩尾に入り、俺は激しく咳込んだ。
「僕を見下しやがって! お前みたいな人間、消えればいい」
それまで、あくまで笑顔を崩さなかった田嶋の顔が歪んだ。言葉遣いも何もかも、まるで別人のようだった。
「謝れよ! 僕のプライドがどれだけ傷付けられたか……!」
胸倉を掴まれ、殴り飛ばされる。
「やめて田嶋くんっ!」
美香が、振り上げられた田嶋の拳を後ろから押さえ込もうとした。田嶋は眉をひそめる。
「なに、藤村さん。邪魔しないでって言ったよね」
「でもこんなの、黙って見ていられないよっ。陸の言ったことは本当に酷いことだと思う。それは謝るから、だから……!」
やめろ、美香。そいつに近付くな。そう訴えたいのにやっぱり声が出なくて、視界もぼやけていた。
「藤村さんに謝ってもらっても仕方ないんだよね。僕はこいつに謝ってもらいたいんだよ」
「田嶋くんっ、」
「ていうか、いい加減邪魔」
田嶋はその手で、美香を突き飛ばした。美香の体が上り階段に倒れ込む。段差が全身にめり込み、痛みからか美香は思いきり顔をしかめた。
「美香っ!」
「……ごめんね。でも邪魔する君が悪い」
「てめえ!」
田嶋に殴りかかるため立ち上がろうとするが、鳩尾に入った蹴りの痛みが響き上手くいかない。田嶋はその様子を、嘲笑って見ていた。
「あはは、熱いね君は。でも元はと言えば全部君が悪いんだよ」
田嶋の声が、天井で反響して俺の脳を縛り上げるように痛める。
「君があんなこと言ったりしなければ、藤村さんは今僕に殴られることもなかったし、嫉妬した女どもに殴られることもなかった」
田嶋は腹を押さえて座り込んでいる俺に顔を近付けて、言った。俺は精一杯田嶋を睨むが、やつは顔色一つ変えずに無表情でいる。
「僕が藤村さんに近付いたのはね、全部君にこうして思い知らせてやるためだよ。そのために、たまたま同じクラスにいた君の妹である藤村さんは都合が良かった」
「なっ……」
「だからね、例え藤村さんが性悪女でも学年一のブスだったとしても、僕は藤村さんを「好き」になったよ。言ったでしょ、僕なりの計画で頑張ってるって」
最初から、こいつの目的は俺だったのだ。帰り道に俺に声をかけたのも、美香目当てのはずなのにやたら俺に突っかかってきたのも、本来の目的が俺だったから。だからそのために、美香は利用されたのだ。俺のせいで、美香は傷付けられたのだ。
「本当は少し仲良くなる程度でいいかなって思ってたけど、僕が藤村さんに近付くたび想像以上に君が戸惑ってたのが面白くて」
「――っ」
「でも今日で一年生も終わりだしね。そろそろケリをつけてもいいかなって」
田嶋の明かす真実の一つ一つが、俺を抉る。今まで何も気付けずにいた自分が歯痒かった。
「どう悔しい? 僕を殴りたい?」
自分が如何に狂ったことを言っているか考えもせず、田嶋は笑っている。笑ったままで、また俺を殴るのだ。
「なんとか言いなよ」
田嶋の奥で倒れていた美香が、ようやく立ち上がった。ふらふらとして俺と田嶋の間に入り、弱々しくも俺を庇うように両腕を広げる。
「田嶋くんお願い、もうっ」
「美香、やめろっ」
「……へえ。案外しぶといんだね君は。もっとか弱い人かと思ってた」
美香は決して強くない。それなのに、身を呈して俺を庇おうとしているのだ。体中が痛みで悲鳴をあげているだろうに。
「藤村さん。君は藤村くんのせいで傷付けられたんだよ。そんなやつを庇うことない」
「違う、陸のせいじゃない。陸は私を傷付けたりしないっ」
腫れ上がった頰に手を当てながら、俺は美香の背中を見上げていた。スカートから伸びる細い脚が震えていて、それなのに美香は決して、田嶋に屈しようとはしなかった。俺のために。
「……なにそれ。美しい兄妹ごっこなんか見たくないんだけど」
田嶋が美香の肩に手をかけたところで、俺はそれを振り払った。美香が時間を稼いでくれたおかげで、なんとか立ち上がることができたからだ。
「美香、どいてろ」
美香をそっと退けて、俺は田嶋と向き合った。
「なに、謝る気になった?」
「ああ。……俺が、悪かった。全部、俺が」
これ以上美香に危害が及ばぬよう、俺は田嶋に頭を下げた。味わった屈辱は、きっとお互い様だろう。
「ふん。はじめからそうすればよかったんだよ」
「だが美香には謝れ。美香は関係ねえだろ」
俺が言うと、田嶋はふっと目を閉じて頷いた。
「そうだね。ごめん、藤村さん」
「田嶋くん……」
「藤村さんのことは嫌いじゃなかったよ。今時珍しいほど馬鹿素直な子だなって感心してた」
そう言いながら、田嶋は美香に歩み寄る。先程転倒したせいでできたと思われる、美香の右手の甲の傷。田嶋は、手を取ってそこに唇を落とした。俺はびっくりして、顔の筋肉が固まってしまう。
「でもね、もう少し警戒心と疑う心を持った方がいい。男は馬鹿だけど、馬鹿じゃなくなる時もあるから。今回みたいに騙されたくなければ気を付けなよ。ね?」
「う、うん」
美香は呆然として田嶋を見つめていた。田嶋はいつの間にかいつもの田嶋に戻っていて、美香の手を放すと階段を下りていこうとする。
「あ、そうだ」
そう言って、思いついたように田嶋は俺たちに振り返った。
「藤村くんのおかげで夏休みに猛練習したんだ。今ではこの通りレギュラーだよ。その点では感謝してるかな」
笑って、田嶋は去っていった。
*
田嶋がいなくなると気が抜け、同時に体の痛みも復活した。辛抱がピークに達して、俺はまた床に座り込む。すぐに美香が駆け寄ってくれて、俺の顔を覗き込んで、焦ったように言った。
「血が出てる……!」
「口の中切ったらしい。別にこれくらい平気だ」
「駄目だよ、すぐ保健室行こう。歩ける?」
「たぶんっ……」
立ち上がった一瞬目眩がしつつも、どうにか歩き出した。階段を下りる時などは美香が先導して、俺の様子を見てくれる。廊下にはもうほとんど生徒の影がなく、みんな部活に行くか、帰宅するかしたらしい。
保健室には先生や他の生徒の姿はなかった。美香は呼びに行こうとしたが、別にいい、と引き止める。
「少し休んでれば治まるだろ。大丈夫だ」
「……分かった」
代わりに、と美香が棚からガーゼや消毒液をてきぱきと取り出した。前期に保健委員をやったから一通りの手順は分かるのだそうだ。血のついた俺の口元を消毒する真剣な姿が、なんだかくすぐったい。
「お前、ちゃんとできんのかよ」
「で、できるよっ。これでも先生に上手いって言われたし」
「ふは、ほんとかよ」
確かに美香は器用だけど変なところで抜けてるから、肝心なところで失敗しそうだ。でも俺は美香に託して、そっと目を閉じる。消毒液の匂いがつんと鼻を刺した。
「あっ」
突然大きな声をあげた美香に驚いて、俺は目を開いた。呆然とする俺に、美香は悪戯っぽく笑いかける。
「なんでもないよ」
「はあ?」
「いつもからかわれる側だから、たまには陸のことからかってみたかったの」
「お前なあ。お前ごときが俺をからかおうなんざ百年早いっつの」
一瞬、「可愛い」なんてシスコンみたいなこと考えてしまったことは忘れたい。そうかなあ、と美香は少し不満気に、でも楽しそうに言葉を返した。
傷口に絆創膏を貼り、コットンで口の周りを押さえてくれた後で、美香の手当は終わった。
「お腹とか大丈夫? 骨折れたりしてないよね?」
「呼吸できてるし、大丈夫じゃね。そんな柔な体じゃねえよ」
つうかそれより、と俺は立っていた美香をすぐ横のパイプ椅子に座らせた。美香の右手を、自分に引き寄せる。
「お前こそ、大丈夫かよ」
甲の切り傷は思ったより浅いらしい。しかし心配なのは、段差に打ち付けたその体だ。流石に服を脱がせるわけにはいかないから、知ったところでどうしようもないけど。
「……うん。ちょっと腰が痛いけど、問題ないよ」
美香は微笑んでいた。俺に気を使わせないためなのだろうか。そういえば田嶋にあれだけのことをされても、美香は涙を見せていない。
「……ごめんな」
「え?」
「俺のせいでこんな目にあって。ほんと、悪かった」
ここ最近、美香が傷付いた原因は全て俺にある。そう思うと、何だかたまらない心地がした。美香を守るどころか、傷付けていたも同然なんだから。
「もう。陸のせいじゃないって言ってるのに」
美香は微笑んで、ガーゼで覆われた俺の頰を撫でる。
「それに私に謝るなんて、陸らしくないよ。いつも図々しいくらいがちょうどいいの、陸には」
ね、と美香が念を押した。
「図々しいってなんだよ」
「褒めてるの」
「そうは思えねえ」
顔を見合わせて笑ったあと、美香はふっと真剣な、でも優しい眼差しで俺を見つめた。また、心臓が騒ぎ出す。
「でも本当によかった。陸が元気で」
「俺はなんともねえよ」
「うん。……だけど目の前であんなことされてるの見たら、本当に心配で。苦しくてたまらなかった」
俺の左手を取り、美香はその両手でしっかりと包み込んだ。その視線は手に落とされている。
「もし陸に何かあったら、私――」
いつだって、美香は自分のことより他人のことばかりを気遣って。今はただ俺のことを考えてくれている。俺のせいで、こんなに切なくなる顔をさせてしまっている。自分の無力さが情けなかった。美香は自分を傷付けてでも俺を守ろうとしてくれたのに、俺は、何もできない。
「もう簡単にあんなこと言わないでね。ちゃんと人の気持ちを考えて、そうすれば相手を傷付けずにいられるはずだから」
「……ああ、分かってる」
「うん。大丈夫、本当は陸、凄く優しいから」
基本俺の味方でいてくれるけど、こうして然るべき時にはちゃんと注意するんだ、美香は。本当に、曲がったところのない人間というか。
「優しい? 俺が?」
「優しいよ。優しいし、意外と律儀だし、意外と気配り上手だし」
「……意外とってなんだよ」
「ギャップってやつかな?」
「意味分かんねえ」
本気でそう思って、俺を「優しい」なんて表現するやつはお前くらいだよ、美香。
「あ、まだ血が残ってる」
美香は手元にあったコットンを、俺に少し覆い被さるようにして俺の耳朶付近に当てた。美香の胸元が目の前にやって来て、俺は思わず目をそらす。たかだか妹の胸で動揺する必要なんかないのに。つうか動揺する方が変態っぽいのに。
「ああ、頭動かさないで」
「……うるせえな、誰のせいだよ」
小声で毒づいたそれは、美香の耳に届かなかったようだ。美香の手つきは柔らかく、体が動くたびに、シャンプーだかボディソープだかの香りが漂ってくる。こうして間近で見ると、やっぱり美香の体は細い。
この体で暴力に耐え、尚且つ俺を守ろうとした。スカートやソックスに隠れる青痣だってまだ治っていないだろうに。何故そこまでできるのか、正真正銘の馬鹿なんじゃないか。そう、思ってしまうくらいだ。でも美香は、平気だよと言って笑うのだろう。
「はい。できたよ」
「……どうも」
「おおっ、陸が私にお礼を言うなんて」
「馬鹿にすんな」
「あはは、ごめん怒らないで」
悠太に言わせると、美香は純潔で可憐な女神、だったか。全然そんなことはない。割と強いし茶目っ気もあるし、普通の、女だ。
「お前、また彼氏作り損ねたな」
コットンを捨てる美香にちょっとした仕返しのつもりでそう言ってやれば、美香は顔を赤くした。
「い、いいよ。田嶋くんのことはそういう目で見てなかったもん」
「負け惜しみか」
「ち、違うのっ。……本当に好きな人と一緒にいたいから、だから簡単に答えなんて出せないの」
俺を見ないまま恥ずかしそうに言う美香は、俺とはあまりに違って、綺麗だった。
そんなこと考えず、適当なところで妥協して付き合ってしまえばいいのに。なんだかんだ言ってほとんどのやつは――俺だってそうしてる。本当に好きな人とか、そんな話を出そうものならむしろ笑われるくらいだ。
これから先に現れる、心から美香に想われる男はどんなやつだろう。そいつが羨ましいと思ってしまうのは美香があまりにも一途だからであって、俺が美香を盗られたくないとか、そういうことを考えてるわけではないはずだけど。
「――でもね、今は陸がいるから」
「はあ?」
こっちを向いた美香を、俺は訝しんで見た。兄貴であるとさっきまでの話と、何がどう繋がるのか全く分からなかったからだ。美香の後ろにある窓の向こうの空は、オレンジに焼けている。その光は美香の髪に落ちて、ふわりと全身を包んでいた。
「陸も、勿論海斗も。二人がいるから、今はそれだけで十分幸せだよ」
真っ直ぐに俺の目を見て、今日一番晴れやかに美香が微笑む。瞬間、心臓が痛いくらいに脈打って、思考が止まった。目元は痙攣して熱くなって、でも背中は寒い。
「あ、陸。髪に埃が、」
そう言って俺に伸ばしてきた美香の手を、俺は思いきり振り払った。ぱん、という乾いた音が保健室に響き、やがて消えていく。美香は、目を見開いていた。
「……悪い。自分で取る」
立ち上がり、美香に背を向ける。近くにあった鏡を見て埃を取り、ゴミ箱に放った。鏡の中の自分は、泣きそうな、情けない顔をしていた。
咄嗟に美香を払った理由は、分かっていた。美香が美香でない気がしたから。俺の頭の中で美香が一瞬、「妹」を飛び越えたから。美香を受け入れたらそのまま手を引いて、あの時は思い留まれた――キスを、してしまいそうだったから。
自分がどれだけおかしなこと、気持ちの悪いことを考えているか、自覚はある。おかしいんだ、最近。俺の美香を見る視線は。
振り返ると、美香は不安げな瞳で俺を見つめていた。