素顔
「藤村くんじゃない」
新井と付き合い出してから数日後のことだった。週番の仕事を終え帰宅の準備をしていた俺のところに、部活に行く直前だと思われる田嶋がやってきた。教室には俺以外残っておらず二人きりで、新井が昇降口で待っているため帰り支度を急いでいた俺は、思わぬ邪魔に舌打ちをしたくなった。
「なんだよ。どうかしたか」
「ううん。姿が見えたから声かけてみただけだよ」
「随分馴れ馴れしいな。お前部活は?」
「すぐに行くさ」
相変わらず、田嶋は笑みを崩さない。友達になった覚えもないのに出くわすたびに声をかけてくる田嶋は、なんつうかめんどくさく、思考が読めない。
分からないのは田嶋の恋心の在処も同じだ。噂では田嶋は美香が好きで、確かに二人は行動をともにすることもあるようだ。でも能面のような田嶋の笑顔からは、そういった甘い想いを全く感じられなかった。
「お前、本当に美香のこと好きなのか?」
「え?」
「いや、そういう噂を聞くから。もしなんとも思ってねえなら、変なちょっかい出さないでくんねえか。あいつ馬鹿だし、そういうの慣れてねえから」
それに、田嶋はモテる。女子の嫉妬が美香に向けば、美香に何かしらの危害が及ぶ可能性も捨てきれない。そうなっては困るのだ。美香は入学直後クラスに馴染めずにいて、それでもやっと手に入れた居場所を、田嶋によってぐちゃぐちゃに壊されるわけにはいかない。
「まあ俺が口出すことじゃねえけど、一応な」
「好きだよ。藤村さんのこと」
田嶋は即答した。田嶋の表情に先程までの緩みはなく、真剣だった。あまりにあっさりと認められ、俺は拍子抜けしてしまう。俺は美香の兄貴であって、わざわざ隠す必要もないからだろうが、だからと言って田嶋の恋路の手助けは頼まれてもしないつもりでいる。
「だって凄く可愛いじゃない。いつも笑顔だし」
田嶋は微笑んで惚気始めた。俺は苛立って、荷物を乱暴に詰める。妹がそういった目で見られるというのは、今更ながら違和感があった。それよりも早く新井のところに行かなかければ、後々怒られそうだ。
「僕の言ったこと全部素直に信じるところとか、単純で、すっごく可愛い」
俺は作業の手を止めて、田嶋を見つめた。田嶋は笑みを深くした。田嶋の不気味さに、俺の腕が粟立つ。
「じゃあね藤村くん。また」
「おい」
立ち去ろうとする田嶋を呼び止めた。振り返った田嶋の笑顔は、不敵に歪んでいる気がした。
「お前、何か企んでんのか」
「そんなわけないじゃない。じゃあね」
エナメルバッグを翻して、今度こそ田嶋は去っていった。田嶋の足音は遠ざかっていき、やがて消える。俺は漠然とした不安抱えつつ、俺は新井の待つ昇降口へと下りていった。新井と並んで校門を出て、下校路を新井と歩いている間も、俺はほとんどうわの空だった。最後の田嶋の言葉を反芻していると、新井の声は右から左へ抜けていく。
「それでねっ、今日さ」
「なあ、新井」
「ええー? なにぃ?」
話を中断させられたのが気に入らないのか、新井は不満気な声を出した。繋いだ手をぶんと振られる。
「田嶋の悪い噂って聞いたことあるか?」
「田嶋くんの? あるわけないよお。だってあの皆に優しい田嶋くんだよ?」
「そう、か」
「なになに? なんかあったわけ?」
「いや別に」
「なにそれ! ええっと、それでさ」
唇を尖らせてから、新井は止まっていた話の続きを展開し始めた。俺は今度こそきちんと耳を傾けてやりながら歩く。学校の周囲には何もないが、駅に近付くと車の通りも多くなり、賑わう店々も現れ出した。駅前で男子中学生の集団に一睨みされたのは、新井が別れの挨拶に俺に抱きついたからだろう。見えてしまいそうなほどスカートを短くしている新井は、楽しそうに去っていった。
およそ一時間ほどかけて帰宅すると、美香はいつものようにキッチンに立っていた。普段なら何気なく挨拶を交わして、それで終わりだ。だけど今は、一見変わりないその後ろ姿がいやに気がかりだった。
もし美香が、田嶋に騙されていたら。そうでなくても、田嶋の本当の顔がもっと悪どいものだったとしたら。馬鹿みたいに純粋な美香は、田嶋を疑うということなんて知らないだろう。そのぶん、俺は心配だった。
「なあお前、田嶋になんか変なことされてねえか」
「え? 変なって、どんな?」
「それはっ……とにかく、変なことだよ」
「さ、されてないよ。田嶋くん、優しいし」
優しい。本当にそうなんだろうか。
「俺には裏があるように思えてならねえけど」
「そ、そんなこと、ないと思うよ」
「とにかく、気を付けた方がいい。じゃあ忠告したからな」
「あっ、陸!」
田嶋を信用しきっている美香に苛立って、俺は早々と自分の部屋に引き下がった。ジャージに着替えると、ベッドに横たわる。
単純だ、なんて。好きな女を褒める時、普通そんな言い方するだろうか。良い仲ならまだしも、付き合ってすらいない相手だ。差入れ作らせたりとかだって、美香にどうにか取り入ろうとしてるようにも思える。田嶋は一体、何を考えてんだろう。
*
「痛っ……」
その日の夕飯の最中、美香は箸を持ったまま右手首を押さえた。顔をしかめて庇うようにこすっている。俺の隣の海斗は唐揚げを口に入れながら、怪訝そうな表情で美香を見て、気遣いの言葉を投げかけた。
「どしたの姉貴」
「なんでもないの。ちょっと捻っちゃって」
「マジかよ、大丈夫か? 病院行った方がいいんじゃねえか」
「そんな大袈裟じゃないから。ありがとう、心配してくれて」
そう言って、美香が苦笑いを浮かべた。それから、じっと見つめていた正面の俺と目が合うと、少し不自然にそらす。それだけで、美香が嘘を吐いていること、何か隠していることが分かった。さしずめ、俺や海斗に心配をかけたくない、といったところか。本当のことは後で聞き出すとして、俺はひとまず話題を変えた。ここで追及しても、美香は口を割らないだろう。
「そういや海斗、例のラブレターはどうなったんだよ」
「んっ⁉︎」
「あはは、海斗動揺してる」
途端に顔を赤くした海斗をニヤニヤしながら見てやると、海斗は少し怒ったように俺を小突いた。
「からかうなよ兄貴っ」
「からかってねえよ。お前を心配してんの。で、どうなんだよ」
「別に! ……断ったよ」
海斗が勢いよく白飯をかっ込んだ。俺と美香は驚いて、目を合わせる。
「断ったの?」
「もったいねえな。ラブレターなんてもう一生もらえねえかもしんねえのに」
「うるせえっ。俺はサッカーに集中したいんだよ! 勉強だって、疎かにするわけにいかねえし」
海斗がそんなことを言うので、俺は驚くと同時に感心した。サッカーのためとはいえ、海斗が通うのは超進学校だ。海斗なりに真面目に考えた結果なのかもしれない。美香も感慨を覚えたらしく、目を細めていた。
「そっか。きっとその子も、海斗のこと応援してくれると思うな」
「……そうかな。だといいけど」
家族揃っての食事の際、テレビは点けない。ルールではないが、自然にそうなっている。しばらく食器音だけが響く沈黙が続いたところで、海斗が席を立った。
「ごちそうさま。明日も朝練参加させてもらうから、風呂入って寝るな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ。兄貴も、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
海斗が出て行くと、美香も立ち上がった。だが、すぐに再び座り込んでしまう。美香は眉を寄せて、何かに耐えていた。
「おい、どうした?」
「ごめん、なんでもないよ。一瞬立ち眩みがしちゃって」
そう言ってから美香は、そろそろと立ち上がりキッチンへ皿を運んでいった。その後ろ姿を見ていると、明らかに左足を引きずっている。座り込んでしまった理由が立ち眩みなどではないことは明白だった。
皿洗いを始めた美香に声をかけようとしても、言葉が出てこなかった。もし美香の異変の原因が田嶋にあるとして、俺に何が出来るだろうか。美香も田嶋が好きで、田嶋のことでは口出しするなと言われても、美香に危害が及んでいるのだとしたら我慢できる自信がない。それによって俺が二人の障害になるわけにもいかないだろう。
「お前が風呂出たら、呼んでくれるか」
「うん」
笑って、美香は俺に答えた。
それから部屋で休み、その後風呂に入った。風呂から出ると、美香はリビングのソファで足を伸ばしていた。その表情は窺い知れない。
「あ、陸」
俺に気付くと、美香は少し慌てたように捲っていた左のズボンを下ろした。あからさまなその態度を見れば、さすがに黙っていられなくなってしまった。
「お前、今何を隠した」
「か、隠したなんて、そんな」
「隠しただろ。見せてみろ」
強引にルームウェアを捲り上げれば、太腿の外側、それとふくらはぎの辺りに大きな青痣があった。美香の白い足に、それはよく目立つ。あまりに醜悪で、美香に似つかわしくない。
「なんだよこれ……!」
「ちょ、ちょっと、ぶつけちゃって」
「そんなわけねえだろ!」
思いがけず大きな声を出してしまい、ハッとした。何も美香を責めたいわけじゃない。やってしまった、と思い、自分を落ち着ける。
「ごまかそうとすんなよ。お前、嘘吐くの下手なんだから」
「ごめん……」
「それで? 原因はなんだ。田嶋絡みか」
それしかないだろうと確信しつつも、敢えて問いかけた。美香はソファに座り直して、言った。
「田嶋くんに、もう近づくなって」
「やっぱりこうなったか」
「でも田嶋くんは悪くないから」
こんなことになってもまだ田嶋を庇う美香に、苛立ちを覚えた。美香はそういうやつだと頭では分かっているのに、それでも、腹が立つ。
「なんでそこまでしてあいつを庇うんだよ。あいつが好きなのか?」
「違うの。そうじゃないけど、でも」
「だったらなんでだよ!」
美香の右腕を掴んで引き上げた。美香は、痛みからか顔を歪めた。俺の肩のタオルが、床に舞い落ちる。
「この手首だってただ捻ったんじゃねえんだろ!」
「――っ」
「なんとか言えよ!」
美香を責め立ててしまいながら、俺は自分に戸惑っていた。どうしてこんなことで、こんな必死になってるんだろう。美香がこんな風に一人の男を庇おうとするのが初めてだからだろうか。俺はそれに、うろたえているんだろうか。そうだとしたら、どうしてうろたえているんだろう。俺が美香の兄貴、だから?
「……もういい。大声出して悪かった」
感情がぐちゃぐちゃになりすぎた俺は、美香を放した。美香は俯いて、消え入りそうな声を出す。
「ううん。私こそ、」
「とにかく、あいつにはもう近づくな。いいな」
俺が念を押すように言うと、美香はゆっくりと頷いた。
「お前がここまでされてんのに、さすがに黙って見てらんねえから」
痣の手当をするため、俺は棚から救急箱を取り出した。俺の背中に、美香は言う。
「ありがとう。心配かけて、ごめんね」
「そう思うなら、俺の忠告をよく聞くことだな」
田嶋から離れれば、事態は収まるだろうか。いや、美香に危害を加えたやつらの目的が田嶋である以上、それで収まるはずだ。美香の気持ちは田嶋に向いてないのだから、二人が付き合うこともない。そんな事実に、どこかで胸を撫で下ろしている自分がいた。
*
それから数週間が経過し、三月に入った。春休みを控え、校内はどことなく浮き足立っている。
あれから美香は忠告通り、必要以上に田嶋と関わらないようにしているらしい。いつの間にか二人が付き合っているという噂も消えていた。あの痣以後、美香が何かしらの揉め事に巻き込まれたという話もない。
昼休み、購買にジュースを買いに行く悠太と俊也に付き合った。昼時、一階の購買は激しい競争の嵐に見舞われる。一日十五個限定のカレーパンを求めるやつらなんかは特に苛烈で、正に地獄絵図だ。
「じゃあ俺ここで待ってっから」
「はいよ。俊也、行こうぜ」
「俺やっぱいい。陸と待ってる」
「なんだよそれっ。じゃあ行ってくるからな」
悠太は手を挙げて、人の波に飲み込まれていった。その様を、少し離れた柱に凭れかかって俊也と見守る。
「いつ見ても感心するな悠太には。俺にはあそこに突撃していく勇気なんてない」
「悠太は馬鹿だからそういうの感じないだけじゃね」
「そうなると、馬鹿もある意味才能だな」
俺たちに馬鹿呼ばわりされてることなど露ほど知らない悠太は、今頃ジュースに何とかありついているところだろうか。腕を組みながら待っていると、一つ、此方に歩いてくる人影があった。田嶋だった。
「やあ、藤村くん」
「……なんだよ」
「実はちょっと話があるんだ。今すぐお願いしたいんだけど、いいかな」
隣の俊也を見れば、行ってくれば、というような顔をしていた。仕方ない。俺が了承すると、田嶋は踵を返して歩き出す。そんな田嶋についていき、連れていかれたのは、普段閉鎖されている屋上へと続く、階段の踊り場だった。ほとんど人が近寄らない場所だ。昼休みの騒がしさにも無縁な、白くて冷気のある空間。
「なんだ、話って」
わざわざこんな変なところに連れてくる田嶋を少し奇妙に思って、さっさと話を終わらせようと切り出した。俺は手近の手すりに寄りかかる。田嶋はやはり、笑みを絶やさない。
「実は最近藤村さんが僕を避けてる気がするんだけど、原因は分かる?」
「……さあ。知らねえな」
田嶋の言葉で、今度の呼び出しの意味を理解した。確かに、突然避けられたら気になるのも無理はないのかもしれない。まして想い人なのだから、少なからずいい心地もしなかったろう。だが本当のことを言うわけにもいかず、俺はあくまで知らぬふりをした。
「そう。僕は藤村くんが何か言ったのかと思ったんだけど」
「なんでそう思うんだよ」
「だって藤村さんは人を避けるなんてしないから。誰かに何か言われたとしたら、君くらいじゃないか」
図星だった。田嶋が美香の性質をよく分かっていることを、気に食わなく思う。
「もし藤村くんが言ったなら、だけど」
「だから俺じゃねえって言ってんだ――」
「僕の邪魔しないでくれる?」
ろ、と言い終える前に田嶋が放った言葉は、それまでのやつからは考えられないような冷たいものだった。一瞬怯んで、言い返せなくなる。
「僕だって僕なりの計画で頑張ってるんだよ。それを部外者に妨げられるのはさすがに我慢ならない」
「……だったら」
部外者? 俺は美香の兄貴だ。どこが部外者だって言うんだよ。
「だったらちゃんと美香を守れよ。お前のとばっちりでとんだ被害に遭ってたんだよ、美香は」
「被害? どんな」
「お前の取巻きだかファンだかの女どもに殴られたんだよ。おかげでひでえ痣ができたんだ」
それを聞いた田嶋は少し考え込むような素振りをしたあと、何故かふと笑った。
「……ああ。あの子たち、本当にやったんだ」
俺の体は硬直した。目は大きく見開き、握りしめた拳は震えた。田嶋は、何か知っていたのか。それどころか、まるで田嶋自身が指示したかのような言い草だった。俺の異変に気付いたらしい田嶋が、にこにことしたままで続ける。
「ちょっと藤村さんのこと脚色して話しただけだよ。そうしたらあの子たち怒ってさ」
「……は?」
「ほんと、女の子って怖いよね」
顎に指を添えながら笑う田嶋を見て、寒気が走った。つまり、田嶋は全部知っていたのだ。いやむしろ、原因はこいつだった。有る事無い事、脚色して話すなんて悪意に満ちているとしか思えない。こいつのせいで、美香は傷付いたのだ。
気が付くと、俺は田嶋の胸倉を掴んで壁に押しつけていた。
「てめえっ。お前のせいでどれだけあいつが傷付けられたと思ってんだよ!」
こんな状況でも田嶋は顔色一つ変えない。それどころか、先程よりも面白そうに笑っていた。その様子に、ますます怒りが込み上げる。
「なんとか言ったらどうなんだよ!」
「随分、熱心なんだね。そんなに大切な妹さんなんだ」
俺は田嶋の襟を更に締め上げた。田嶋の言動は、俺をおちょくるかのようだった。
「――それとも、妹以上に思ってたりする?」
田嶋の言ったことがとっさには理解できず、俺は怒鳴り声を飲み込まざるを得なかった。
「聞いたよ。藤村くんたち、本当の兄妹じゃないんだってね」
力を緩めた俺を振りほどいて、田嶋は言った。笑みすら消えた、冷えきった瞳で。どこか遠くから、男の騒がしい笑い声が聞こえた。
「美香が、言ったのか」
「違うよ。藤村さんとその友達が話してるのがこっそり聞こえただけ」
そういうこと、か。美香が自発的に言ったのだとしたら、相当田嶋に心を開いていたことになっていた。少し、安心する。
「あんな子と四六時中一緒にいたら、それは好きになっちゃうよね。自分のものにしたいって思っちゃうの分かるよ」
田嶋は俺の否定すら待たず、一方的に演説を続けた。俺は寒気がして、反論することもできなかった。
「でもあそこまで純粋で世間知らずだとさ、そんなの通り越して傷付けてやりたくならない? 無理矢理迫ったりしたらどんな顔するだろうって……泣かせてみたくなる」
狂っている。だから美香を傷付けたと言うのか。自分のおかしな欲望を満たすために。それだけのために、傷付けたと言うのか。美香は田嶋を無垢に信じ、庇うことさえしたのに。
「お、前なんかと、一緒にするな。俺はただ、あいつが心配で、」
「そうなんだ。藤村さんを好きってわけじゃないんだね」
「当たり前だろ! あいつはっ」
あいつは、俺の妹だ。妹だ。だから俺が田嶋に憤りを覚えても、おかしくはない。……ないんだ、絶対に。
田嶋は何か言いたげな顔をしたものの、結局は肩をすくめただけだった。
「まあいいや。僕、藤村さんのことは諦めるよ。その代わり、最後に告白くらいしてもいいよね?」
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にする」
田嶋が言った時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。田嶋は、さっさと去っていく。
妹。当たり前であるはずのその響きに一瞬躊躇した意味を、考えたくはなかった。美香の笑顔が、脳裏にこびりついて離れなかった。