田嶋樹の考察・藤村陸編 後編
藤村陸は時が経つにつれ、歪んでいった。藤村美香への想いに押し潰された結果であった。彼がどんなに苦しいか、完全には分からない。だがそんな彼によって藤村美香が傷付いていることは分かった。
眩しかったはずの二人が、輝きを失おうとしている。僕にはそれが、見ていられないほど切なく感じられた。
不の表情も何もかも見たいと考えていたはずなのに。心のどこかでは、二人にはいつまでも憧れの二人でいてほしかったのかもしれない。
*
夏休み中に開催された市内花火大会に、僕は二人を誘った。すれ違いが生まれている二人をどうにか近付けてやれないかと思ったからだ。でもやっぱり二人はぎこちなくて、そのうち花火の時間が迫ってしまった。場所を移動して、僕と藤村陸はトイレに行った。
「美香に、好きな男がいるかもしれないらしい」
そのトイレで、彼は僕にそう告げた。それはあまりに衝撃的な言葉だった。
一年の頃、僕が彼女に接近しても彼女は僕を見なかった。その彼女に、想い人がいるかもしれないなんて。一体どんな男だろう。
藤村陸も、ついに失恋か。
大笑いしてやってもいいはずなのに、どうしてか出来なかった。唇を噛みしめ悔しさをこらえる彼の姿は思った以上に儚くて、辛そうだった。
神様っていうのは、案外平等に世の中を作っているのかもしれない。だってあの藤村陸にさえ、嫉妬なんて感情を与えてしまったのだ。それは普通僕のようなみすぼらしい人間が感じるべきもので、彼のような素晴らしい人間が感じる必要などないはずだったのに。
「どんな手段を使っても、無理矢理にでもあいつを奪う」
彼が本気の瞳で言った時、僕は背筋の凍る思いがした。
駄目だ。君が、君のような人がそんなことをしては。
「そんなことしたら駄目だ! 二度と戻れなくなる!」
何とか説得しようと試みた。彼のような人が乱暴な手段に出て狂気に堕ちるのが耐えられなかった。そのような汚れた行いは僕にこそ相応しくて、決して彼がとってはいけない行動だ。
「あいつを避けてまで我慢し続けてきたのに、あっさり関係ない男に盗られるなんて耐えられるわけねぇだろ!」
どうしてそんなことを言うんだ。君のような人が穢れに染まってはいけないと、どうして分からないんだよ。
それに君は、大切なことを理解していない。例え彼女が他の男を想おうと、本当に心から思われているのは君だ。君に変わりないし、君で揺らぎない。
だから、だから汚れないで。黒に、濡れないでよ。
トイレを出た時、いるはずの場所に藤村美香がいなかった。彼女は暴漢に襲われかけていた。間一髪救出出来たものの、藤村陸の目は血走って暴漢を殺そうとさえした。どうにか止めたけれど、僕は苦しかった。彼はもう戻れぬところまで来てしまったのだと、分かってしまった。
彼女の腕を引いて彼は帰っていった。そんな二人の後ろ姿を、僕は見えなくなるまで見つめていた。
*
この花火大会での出来事は、僕の中でもう一つ新たな感情を生んだ。時が経つごとに鮮明になっていったそれは明らかに、藤村美香への想いだった。
藤村陸を応援しようと思っていたはずなのに。でも、仕方のないことだった。藤村美香に対する考察を読んでもらえれば分かる通り、彼女はずっと、僕の理想の女の子だったのだから。藤村美香がいたからこそ、藤村陸を知れたのだから。
修学旅行で、燻っていた想いははっきりとした恋心へ変わった。それを隠しているわけにはいかなくて、僕は帰りの新幹線で藤村陸にそれを伝えた。それからその帰り、彼を引き止めた。
僕は自分の過去を、藤村陸に語った。勿論、語れる範囲でだけど。
「……ごめん。藤村くんに協力しようと思った気持ちは本物だったんだ。それがこんなことになって」
「……お前は俺より先にあいつのこと見てたんだろ。謝るな」
彼は優しかった。まだ彼は、穏やかさを失ってはいなかった。
「……お前以外の奴にも、あいつが好きだってことバレちまった」
彼が自嘲気味にそう言った時、僕の心臓は痛んだ。それは彼に同情してではない。僕自身が、嫌だったのだ。
僕だけが知っていたはずの彼の秘密。僕と彼、二人だけで共有していたはずの秘密を、誰だかも知らない他の人間が認識した。それが、悔しかった。僕が独占していた彼の想いの在り処を、他の人間に探し当てられてしまったのだ。
「そう、なんだ。……辛いね」
そんな動揺を悟られぬようしみじみと彼に答えた。
僕の、頭のおかしい独占欲なんて君は知らなくていい。知らないでほしい。
「僕だって藤村さんのそばにいたい。いたいのに、全然届かない」
「……奪えよ」
「え……?」
「欲しいなら奪えよ。でなきゃあいつは手に入らない。……俺だって、そうする」
嘘だ。君はそんなことしない。彼女に対して、そんな自分勝手なことをする人間じゃないはずだ。いつだって彼女を守ってきた君が、彼女を益々傷付けるようなことなんてしないはずだ。
そうだよ。僕は君に、彼女を守ってほしい。いつまでも彼女の隣にいてほしい。いつまでも、二人で笑い合っていてほしい。
そしていつまでも、僕に見せてくれないほしいんだ。太陽のように照る、憧れの君たちの姿を。
*
それから流れで他の人間に気持ちを吐露することはあっても、僕は藤村美香を自分のものにしようとは思っていなかった。それは夏見幸一に盗られても構わない、という意味ではなく、誰のものにもならず藤村陸と二人でいてほしいと思ったからだった。所詮僕では彼女に釣り合わないし、彼女をぐちゃぐちゃに穢すだけだ。そう思っていたのに、状況は少しずつ、変わっていった。
ある時、藤村陸は藤村美香の友人である服部千歳に呼び出された。服部千歳が彼に何を言おうとしているのか大方の検討はついていた。だから僕も、その場に居させてもらった。
今の彼は、簡単にボロを出しかねない。僕が見張っていなければ、彼は破滅に向かうかもしれないと考えたのだ。
「あんたあいつに謝るって約束したよな? 何で守ってねぇんだよ」
服部千歳の用件は僕の予想通りのものだった。兄妹とすれ違っている現実に藤村美香は胸を痛めていて、それを服部千歳が心配したのだ。
彼は、途中まで冷静だった。これなら心配も無用なものだったかもしれないと、そう思った。
けれど。
「美香が言ってた。兄妹のことは兄妹で乗り越えたいって」
服部千歳は、最も言ってはいけないことを言ってしまった。彼が、自らの頭の中で必死に否定しているであろう兄妹という概念を、堂々突きつけてしまった。
「あいつが妹だってことがムカつくんだよ俺は!」
そして彼は、狂ってしまった。何より大事な兄妹であったはずの藤村美香から逃れるように、現実から目を背けるように、彼は怒鳴り声を上げた。それは僕の脳を壊すように強く、叩きつけられた。
嫌だ。やめて、聞きたくない。僕の憧憬を、どうか否定しないで。
「藤村くんっ、それ以上は……!」
それ以上、僕に聞かせないでくれ。すぐにここを離れるから、だから少しだけ、待っててくれ。
「あいつじゃなけりゃ誰でもいいんだよ。何でよりによってあいつが妹なんだよ!」
そんな思いなんて届くはずもなかった。僕は彼の口から一番聞きたくなかった言葉を、聞かされてしまった。
藤村陸の妹は、藤村美香以外あり得ない。藤村美香の兄は、藤村陸以外あり得ない。どうしてそんなことが、君には分からないの? どうして僕を、こんな風に息苦しくさせるの?
最悪のタイミングで姿を現した藤村美香を、僕は追いかけた。それは、彼女を励ますため。そして、藤村陸から逃げるためだった。
だが、恋愛感情とは思った以上にままならないものだ。手に入らなくても構わないはずだった藤村美香を、僕は手に入れたいと思うようになってしまった。
それは、この時彼女を追いかけた後。それに、彼女が夏見幸一に振られる現場を偶然目撃してしまった後。僕は、彼女の涙を見てしまった。彼女の涙は僕の情欲を駆り立てた。
今なら、もしかしたら。決して僕を見なかった彼女も、今なら僕を見るんじゃないか。このまま弱味に漬け込めば、彼女は僕に振り向いてくれるんじゃないか。そんな妄想が、僕の中に誕生した。
「僕と君はライバルだ」
そんな風に、藤村陸を煽った。
ライバル。この僕が、あの彼の。最高に、興奮する響きじゃないか。
*
だが、幻想はすぐに打ち砕かれた。
ライバル宣言からしばらくして、僕は藤村美香と服部千歳、加藤穂奈美とともに出かけた。初めは僕と藤村美香だけの約束であったのだが、僕に懐疑心を抱く彼女の友人二人が付いてきたためにこのようなおかしな面子となった。
そんな時、偶然藤村陸と彼の友人たちのグループに出くわした。彼はあからさまに僕を敵視していて、僕はそんな目線にぞくぞくした。無論それは、恐怖から来るものではない。
二つのグループは合流して同じ行動を取った。彼の前では、あえて強く藤村美香に寄った。嫉妬に燃える彼の瞳に、僕は夢中になっていた。
僕は藤村美香を愛している。だがそれと同程度に、藤村陸のことも好きなのだ。
「何度でも言うよ。君は藤村さんを手に出来ない。でも僕は違う」
「ふざけるな!」
どんな風に煽れば彼の激情を誘えるか、僕は熟知していた。
「いい加減認めたら? 藤村さんはあんたなんか眼中にないんだよ」
僕の襟首を掴む彼にそう言った瞬間、彼の拳が僕を打った。思わず床に倒れ、頬には激しい痛みが広がったが、それでも僕の口元は緩んだ。
彼に壁に押さえつけられたことはあった。掴みかかられたこともあった。だが、本気で殴られたのは初めてだった。彼は全身で僕を拒絶したのだ。見上げた彼の顔は、憎しみに満ち溢れていた。
君は知らない。僕は君の悲しそうな表情は嫌いだ。笑顔は好きだ。だが最も好きなのは、その憎悪の表情だ。
僕は機会を見計らって、邪魔者を排除した。僕と藤村陸と藤村美香、三人だけになった。それが、間違いだった。
日曜ということもあり混んでいた街を歩いていたら、いつの間にか二人がいなくなっていた。僕は慌てて来た道を戻った。嫌な予感がした。そして僕は、見てしまった。
「ん、ふ……」
藤村陸と藤村美香が、キスをしている瞬間を。
二人は深く口付け合っていた。人の入らぬ路地裏で、藤村陸が藤村美香を壁に追いつめ唇を奪っていた。藤村美香の方はそれから逃れようとしていた風だったが、藤村陸の圧倒的力の前に屈服していた。
足が震えた。頭がぐちゃぐちゃになって混乱して、僕はそこから逃げた。
「あれ、田嶋? 陸と美香ちゃんは?」
「あんたまさか見失ったんじゃないだろうな!?」
「……ごめん」
僕は藤村美香が好きだ。その彼女が他の男に唇を奪われていたのだ、間に入って藤村陸を殴っても良いはずだった。でも、出来なかった。
「チッ、おい探すぞ!」
服部千歳たちは慌てて探し出しに行った。だが僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
僕が何故彼女を奪還することが出来なかったか。理由は単純明快だ。
二人があまりにも、お似合いだったから。
藤村陸は藤村美香を好きだ。だが藤村美香は、そうではない。彼女にあるのはただ、家族としての愛情だけだ。
つまりあのキスは藤村陸が藤村美香に強引に迫ったもの。彼女がそれに抵抗する素振りを見せたのもそのためだ。二人の間に止めに入れたなら、正義は僕にあったろう。危機を救ってくれたとして、彼女が僕を見る視線も変わっていたかもしれない。
だが無理だった。所詮僕は田嶋樹なのだ。田嶋樹があの二人——思い合ってはいないはずなのにお似合いなあの二人の邪魔を出来るはずもなかった。
僕は以前、藤村美香を手に入れられるのではと思い上がった。そして突き落とされた。今回また、同じことを繰り返した。
「……はは」
もう、乾いた笑いしか出なかった。
僕のような下らぬ人間が、藤村兄妹に近付けたとでも思っていたのか。ふざけるな。
愚かで醜い僕は、彼らのそばにいることすら烏滸がましいのだ。でも僕は彼らのそばを離れたくない。彼らの一番近くにいる存在は、僕であってほしいんだ。
*
「もしかして、思い知ったか? お前が美香に釣り合わねぇこと」
その翌日、今度は僕が藤村陸に煽られた。
「しおらしくて調子狂う。お前らしくねぇ。どうしたんだ」
そのくせ僕の様子がおかしいことを心配してくれて、僕はそれが耐えられなかった。この状態で彼の優しさを見せられたってまた惨めさが際立つだけなのに、と。
それを、君は分からない。君は陽の世界で息をする人だから。
「君たちのせいじゃないか!」
八つ当たりをして、逃げ出した。
どうしたって僕は彼に届かない。隠の世界にいる僕の前には大きく高い壁がそびえ立っていて、彼に近付く邪魔をする。
僕はその日、もやつきと嫉妬をぶつけるように藤村美香に迫った。そんな乱暴な僕を彼女は思いやって、気遣ってくれた。
今日僕は、僕らしくない。
彼女は彼と同じ台詞を口にした。こんなところでも二人は繋がっているのだと思って、何だかもう、言葉がなくなった。怒りが込み上げて、しかし脱力して、情けなく彼女に愛を囁いた。彼女は僕を柔らかく包んでくれた。
ねぇ藤村くん。藤村さんは、優しいね。
もう、いいよ。もし万が一君たちのそばにいられなくなっても、我慢する。君たちの姿を見つめていられるのなら、僕は、それで。
*
翌日、藤村陸は清々しい表情で笑っていた。昨日までの歪みとは明らかに違っていて疑問に思ったが、それは藤村美香と和解したからだと分かった。
藤村陸の隣には、藤村美香。そんな当たり前の光景が戻ったことに、僕は安心した。
「慰めてあげようかと思ったけどさ、やめたよ。藤村くんみたいなイケメンは一回こっぴどい失恋をした方が良いっていうかさぁ。まあつまり、ざまあみろってこと」
憎まれ口を叩けるくらいには、僕も回復していた。兄妹の温かさが僕を溶かしてくれた。
「あーあ。何で夏見なんかに負けたのか、さっぱり分からないよ」
「美香も趣味悪ぃよな」
「本当にね」
藤村陸と、本当の意味で笑い合っている。何だか、不思議だ。ずっと雲の上の人だった彼と同じ感情を共有しているのだから。
「でもさ。やっぱり藤村くんと藤村さんは一緒にいるのが似合ってるね」
ふと漏れた本音を、彼は聞いてくれた。
「二人の間に、他の人間は入り込めない。そう錯覚させられる」
勿論、僕も。どんな人間も藤村兄妹を破ることは出来ない。
こんなに頑なな絆を持つ兄妹なんて滅多にないだろう。互いの愛情に血の繋がりなんて関係ないのだと、彼らは証明している。
「そんな君たちに僕はずっと、憧れてて……」
そう、憧れだった。ずっとずっと、僕の光は彼ら二人だった。この先僕はこれまでの何倍という月日を生きていくけれど、きっと二人以上の人間には出会えない。確信を持って、そう言えるよ。
「その話、聞きたい?」
「あ、ああ」
「そっか。でももう授業始まるし、後で教えてあげる」
なんて。例えありのままに僕の思いを君に話しても、君は分かってくれないよ。僕と君では、根本的に何もかも違ってしまう。
きっと君は、そんな大層な人間じゃないとか言って自分の素晴らしさを、価値を、理解しない。でも僕は知ってる。君がどんなに、輝いている人なのか。
*
藤村陸。
この学校で彼の名前を知らない人間はほとんどいないだろう。
だが本当の意味で彼を理解出来ている人間は、果たして何人いるのだろうか。彼の溢れんばかりの輝きが余すことなく見えている人間は、どのくらいいるのだろうか。
分からない。でも、きっと僕はそのうちの一人になってみせるさ。
藤村陸。僕は、彼が好きだから。
以上、田嶋の考察でした。田嶋の歪みを書いてみようと志したのですが、上手く伝えられた気がしません。少しでも感じて頂けていたら幸せです。




